第185話 馬見厩舎と武藤厩舎
馬見厩舎では、馬見調教師と蠣崎調教助手が二人して顔を顰めていた。
「如何にか晴れてくれないかな」
「前後も雨ですし、中々に厳しいかと」
二人が見ているのは、来週末の天気予報であった。そして、その天気予報では日曜日は傘マークがついており、降水確率は70%と中々に高い確率であった。
「ベレディーは晴女なんだが、そのジンクスも此処で崩れたか。今までほとんど雨のレースを走っていないと言うのも凄い事なんだがな」
天気予報の傘マークを見て溜息を吐く馬見調教師は、そう言いながらもミナミベレディーのジンクスに僅かな希望を託す。
「そうですね。雨が絡んだのは阪神ジュベナイルの時と、昨年の宝塚記念だけですね。その何方も雨と言うほどの雨では無かったですし、こうなるとベレディー以上に力を持った雨女か雨男でもいますかね?」
そう言って笑う蠣崎だが、その表情は決して楽しそうではない。
「それで? ベレディーの調子はどうだ?」
「何とかいい状態まで持ってこれたかと。偶々ですが脚の負担を考えてダートでの調教を多用しましたので、以前よりは濡れた芝でも対応できるかもしれません」
希望的観測ではあるが、以前よりはダートでの走りがマシになって来ているのは確かだった。
「そもそも、ベレディー自体が雨になると走らないからなあ」
「雨が降っている事に気が付くと、途端に走る気を無くしますからね」
既に季節は梅雨に入っている。
近年は、梅雨に入ったとしても雨が続くとは限らないが、今年はある意味梅雨らしい梅雨と言っても良い天気が続いている。この為、調教時でも雨が降る事が多く、雨が降っている事に気が付いたミナミベレディーは、馬房から出る事すら嫌がるのだ。
ミナミベレディーの調教は、脚への負担を考えて雨の日に限らずダートを多用して行っていた。その中でも雨の日は必ずダートを使用している。これはダートでは雨の日の方が脚抜けしやすくなるからであり、合わせてミナミベレディーが芝などで脚が滑るのを非常に嫌うからであった。
「元々泥や土が跳ねるのを嫌いますよね。目に入るのが嫌なんだろうと思いますが、それは雨でも一緒ですから。ただ、今回はサクラヒヨリも何度か一緒に調教をしている御蔭で、ベレディーもそれなりにはダートで走れるようになってきましたよ。何とか雨の芝にも適応して欲しいのですが」
「結構気分屋な所があるからなあ。ただ、今回のレースはサクラヒヨリが一緒に走るからな。それが吉と出るか凶と出るか」
タンポポチャと共に走ったレースでは、ミナミベレディーもタンポポチャも、仲が良い故にか本来以上の力を発揮していたと言われている。
そして、今回の宝塚記念ではタンポポチャは居ないまでも、仲の良いサクラヒヨリが初めて同じレースで出走するのだ。
ミナミベレディーは、昨年の宝塚記念でレコード勝ちを収めていた。その後、秋の天皇賞、有馬記念、ドバイシーマクラシックと連勝している。それ故に、今回の宝塚記念では2番人気に入ったトカチマジックの得票数を圧倒的に突き放して、堂々の1番人気であった。
「どうだ? 普通雨なら先行馬、逃げ馬が有利なんだが。掲示板ぐらいには持っていけそうか?」
「率直に言わせていただけるなら、厳しいですね」
ミナミベレディー、タンポポチャ世代などと世間では持て囃されてはいるが、牡馬が其処迄劣っている訳では無い。ましてや、今年の4歳馬は中々に侮れない馬が揃っている。
「万全の状態でならともかくと言った所だよな」
「鈴村騎手も、未だに雨の日の調教では色々と苦戦していますから」
その鈴村騎手は、東京競馬場で今日明日合わせて6レースの騎乗があり、昨日から競馬場に缶詰となっている。
「当日の7レースでは、ミナミベキラリのレースに騎乗するそうだ。出走頭数が少なかったから、何とか押し込めたらしい」
宝塚記念当日に阪神競馬場で開催される第7レースは、3歳以上1勝馬、芝2200mで争われる。その為、大南辺は自身が所有する馬で3歳1勝馬ミナミベキラリを、鈴村騎手がコースの状態を確認する為に出走させる事とした。
「コースの下見が出来るのは有難いですが、やはり問題は雨ですよね」
「一応の対策は考えるが」
ミナミベレディーにとって、厳しい宝塚記念となりそうであった。
◆◆◆
馬見厩舎が天気予報で思いっきり悩んでいる頃、武藤厩舎でも同様に天気予報を見て溜息を吐いていた。
「やはり雨か。昨年はギリギリもったから、今年も晴れる事を期待していたんだが」
昨年と大きく違うのは、やはり宝塚記念当日を挟んでの前後の天気である。これが今の段階で曇りなどであれば、運が良ければ今年も前後にズレる可能性はある。ただ、今年は宝塚記念を挟んで数日にわたり雨のマークである。
「オークスの時もそうでしたが、ヒヨリは雨が苦手ですからね」
「それでもオークスでは頑張ってくれたと思うんだがな」
サクラヒヨリがストライド走法とピッチ走法を器用に切り替えるとはいえ、雨に濡れた芝では本来の能力が発揮できない。これは蹄の形状もあるが、馬自体のメンタル面も大きい。
「ミナミベレディーも雨が苦手だと聞きましたよ。サクラハキレイ産駒は全部そうなんですかね?」
「蹄の形状は似通っているからな。恐らく血統的に雨は苦手だろう。現にフィナーレも雨の日の調教は嫌がるからな」
「フィナーレは放牧で得をしましたね。北海道は晴れてますから、今頃は雨を避けれて喜んでいるかもしれませんね」
「まあな。これだけ雨が続けば、フィナーレも調教を嫌がってただろうな。もっともフィナーレは普段も調教をサボりがちだが」
梅雨に入り雨が続く中で、芝を避けダートを中心に調教を行っていたのはサクラヒヨリも同様であった。この為、滑る芝に対し、しっかりと力を出す為の蹴り足の練習にはなっている。それであっても、当たり前に芝とダートでは大きく違うし、人間が勝手に練習になっていると思っていても、馬がどう思っているかなどは判らない。
「雨のレースであればミナミベレディーはもっと苦手ですからね。場合によってはヒヨリがミナミベレディーに快勝する可能性もありますが、肝心の宝塚記念で共に勝ち負けは厳しそうですね」
宝塚記念の特集記事が載った競馬雑誌を見ながら告げる調教助手に対し、武藤調教師は少し考える素振りを見せる。
「あのミナミベレディーがそんな簡単な馬かよ。今まで何度も何故勝てたのか判らんレースを勝ってきた馬だぞ? あの馬が持つ運なのか、悪運なのかは判らんが、何か判らん内に勝ってましたとなっても俺は驚かんぞ」
「・・・・・・冗談ですよね?」
「冗談なら良いがな。宝塚記念のレース前後だけ何故か晴れたり、何かハプニングが起きたり、良く判らん運を味方にして勝利しそうだ」
思わず、まじまじと武藤調教師を見返す調教助手だが、武藤調教師の表情は決して冗談を言っている感じではない。
そんな会話の中、サクラヒヨリの調教を行っていた長内騎手が厩舎へと戻って来た。
「あ、お疲れ様です」
事務所内の微妙な雰囲気に気が付き、怪訝そうな表情で挨拶を交わす長内騎手。そんな長内騎手も漸くサクラヒヨリの騎乗が安定してきた為、若干ではあるが表情が柔らかい。
「お疲れさん。それでサクラヒヨリはどうだ?」
「今日は晴れていますから、ご機嫌で走ってましたよ」
そう言って長内騎手も苦笑を浮かべる。
「ミナミベレディーと一緒の場合は、雨の日でも問題ないんだが。ただ、来週は流石に併せ馬を行う訳には行かないからな」
同じレースを走る馬をレース直前の調教で一緒にさせる訳にはいかない。雨の日の調教はミナミベレディーとサクラヒヨリの2頭で行う方が効果がある。雨の中で嫌がる2頭ではあるが、お互い一緒だとサクラヒヨリはご機嫌に、ミナミベレディーは渋々と言った様子ではあるが真面目に走ってくれる。
「漸く鞍上が自分となる事に納得してくれた感じですよ。何とか良いレースとは言わず、宝塚記念で勝利したいと思っています」
乗り替わりをしたから勝てなかった。宝塚記念で勝てなければ、そういう声が少なからず上がるのは覚悟している。ただ、それ以上にサクラフィナーレに続きサクラヒヨリの鞍上を自分にまかせてくれた武藤調教師や桜川さんの恩に報いたいという思いが強い。
「ただ、無理は禁物だぞ」
「勿論です」
桜花賞を勝ち、念願のGⅠジョッキーとなった長内騎手ではあるが、それ以降も今まで以上にサクラヒヨリの調教を真剣に行ってくれている。一度は主戦を任された事のあるサクラヒヨリへの強い思いを知っている武藤調教師は、改めて来週の天気を恨めしく思うのだった。
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