第183話 馬見厩舎と2頭目の姪っ子ちゃん
鈴村騎手が十勝川より思いもよらぬ依頼を受けている頃、馬見厩舎でも同様に突然決まったトカチドーターの受け入れ準備が慌ただしく行われていた。
「いやあ、まさか突然サクラハヒカリの産駒を預託されるとは思いませんでしたね」
馬房の準備などを慌ただしく行っている中、蠣崎調教助手が馬見調教師へ声を掛ける。
「そうだな、十勝川さんも思い切ったな。ただ、トカチドーターからすれば良かったと思うが」
今回、十勝川が購入したサクラハヒカリ産駒牝馬は、地方競馬の馬主資格を所有する人物が購入していた馬だった。馬見調教師も預託されていた厩舎へ挨拶をしに行った際にトカチドーターを目にしていたが、サクラハキレイとカミカゼムテキの間に生まれた産駒程では無いが、やはりダートよりは芝向きの馬であるように感じた。
「プリンセスミカミとは、父馬が違うんですよね?」
「あちらの父馬はドレッドサインだが、トカチドーターの父馬はGⅡ弥生賞を勝ったゴーアースだったな。ゴーアースの母の父がサンデー、父もコウテイハワイだ。血統的に悪くは無いが、実績的にはまだこれからの馬だな。ゴーアースの子供では地方で重賞勝ちが出ているから、一概に地方が駄目と言う訳では無いのだろうが、中央ではまだ結果が出ていない。それ故に種付け料も手頃だったのだろう」
実際の所、ゴーアースの種付け料は、受胎確認後の後払いという点でも北川牧場としてはありがたかった。もっとも、馬見調教師としては距離適性的に、もう少しマイラーの血統を考えても良かったのではと思わなくはない。
「3年前だと、北川牧場も中々に資金繰りなどで厳しい時期でしたからね」
「そうだな、ベレディーがまだ走る前の話だからな」
種付け時期としては、ミナミベレディーが2歳の時になるのだろう。実際に翌年の種付けでは、ミナミベレディーの活躍もあってか価格が下がって来たダービー馬で、秋の天皇賞を制しているフラッシュタイシを選んでいる。
「武藤厩舎にいるボクダッテはどうなんですかね? フラッシュタイシはGⅠを2勝していますから期待できそうですが」
「GⅠ馬の子がみんな走れば苦労はないがな。血統を考えると芝2000mあたりが適距離になりそうだが、上手く噛み合ってくれるかは走らせてみないとな。キレイ産駒は全体的に気性が大人しいからな」
ボクダッテは、ミナミベレディーが桜花賞を勝利した年の種付けで生まれた馬ではある。それ故に、多少は金銭的に余裕があったとは言え、北川牧場が手を出せたという事は100万円は超えていないだろう。
それに、恐らくは受胎確認後の支払い契約だろうし、そう考えればGⅠを勝った牡馬とは言え、早期に種付け実績を求められる競馬界というものは、中々に厳しい世界である。
結果が出なければ、初年度は100頭以上あった種付け実績が、数年後には激減など普通にある事だった。
「北川牧場の奥さんに確認した所、ベレディーを放牧した時に懐いていた仔馬がトカチドーターらしいな。調教時にベレディーと軽く併せてやれば良い刺激になるだろう。ましてや騎手は鈴村騎手に打診するそうだし、サクラヒヨリの鞍上が乗り替わりになる可能性もある。そうなれば鈴村騎手がトカチドーターに注力してくれそうだ」
「トカチドーターが3歳の時には、ベレディーは引退していますからね。出来ればうちの次代の代表馬になってほしいものですね」
武藤厩舎ではサクラヒヨリとサクラフィナーレがいる。この為、まだあと2年は、ある程度の実績が見込めるだろう。その点で言うと、馬見厩舎ではミナミベレディーの後が居ない。ストラスデビルが何とかGⅢを勝利してくれた所であり、オープン馬も居るには居るが、次代の柱となる馬が圧倒的に弱いのだ。
「重賞馬としてはベレディーとストラスだが、他にもオープン馬は3頭いる。何とか重賞を勝利して欲しい所だがなあ。今年の3歳馬でもサイオウノウマがやっと3勝したから次走のラジオNIKKEI賞を勝ってくれると嬉しいのだが」
「その前に宝塚記念もありますよ。何と言ってもベレディーで連覇と行きたい所ですが」
休養明けで不安が無いとは言わないが、ミナミベレディー自体の調子は上がってきている。調教再開した時には大丈夫かと思ったのだが、幸いまだ約1か月ある。
「サクラヒヨリも含め、出走馬は総じて調子は良さそうだから油断は出来ないがな」
そう告げる馬見調教師の視線の先には、宝塚記念の特集が組まれた競馬雑誌が置かれていた。
◆◆◆
「で、今後を考えると、悪いお話ではないのかなとは思うの」
どうやら鈴村さんは、十勝川レーシングという所からお声が掛かったみたいですね。ただ、騎手としてではなく調教師? 調教助手? うん、良く判りませんね。
「ブルルン」(騎手辞めちゃうの?)
「あのね、ベレディーもいつかは引退するでしょ? 私ももう30歳を過ぎて結婚とか出産とか考えると、何時までも騎手を続けれないし」
「ブフフン」(そうなの?)
結構年取ったおじさんとかも騎手で見かけるよ? だけど、言われてみると、おばさんの騎手さんは見た事が無いですね。
「子供が生まれたら、どうしても騎手を続けるのは心配だから、ほら落馬で大怪我とか、本当に最悪な場合は死んじゃうでしょ?」
「ブルルン」(そっかあ、そうだよね)
お父さんが死ぬのは良いという訳じゃないけど、子供が生まれたら女性は騎手に復帰するのも勇気がいるよね? 経験がないから判らないけど、判るような気はしますよ。
「ブヒヒヒヒヒン」(でも、そもそもお相手いるの?)
結婚して、子供生まれたらと将来の話をしている鈴村さんだけど、良く考えたら結婚するお相手はいるのかな? 今までの感じだと、いなさそうなんだけど。
「それでね、何か凄く勘違いされているみたいなの。調教の秘訣はとか、何か遠回しに聞かれるんだけど、答えようが無いよね」
「ブフフフフン」(肝心のお相手のお話は?)
鈴村さんがお相手の事は思いっきり棚に仕舞っちゃっています。
「ベレディーとはレース前に映像で勉強してるけど、ヒヨリやフィナーレでさえ真面目に映像見てくれないし、そもそも映像を見せてるとか言っても誰も理解してくれないよ」
「ブヒヒヒン」(あれ? レースの映像見せるのは普通じゃないの?)
何時の間にか鈴村さんが普通に映像を見せるので、どの厩舎でもやっているんだと思っていました。前にヒヨリにパソコンを壊されかけたって言ってたし、でもお話の感じでは映像は見せないみたいです?
「調教の秘訣って何よ! そんなのあったら私が教えて欲しいよ!」
うん、鈴村さんが荒れていますね。でも、調教の秘訣ですか、やっぱり頑張ったらご褒美とか? ご褒美が貰えるなら私は頑張りますよ?
鈴村さんが今日朝早くに私の馬房にやって来たのですが、最初から何か雰囲気が変でした。聞いていると昨日の夜にお食事会があったみたいで、そのお食事会がすっごく疲れたみたいです。
「ベレディーの姪のトカチドーターへ騎乗出来るのは嬉しいよ。でも、全面的に任せますって言われても、何度も言うけど特に何か凄い調教技術なんて無いよ!」
う~ん、お疲れモード全開ですね。仕方が無いのでアドバイスとかしてあげましょう。
「ブヒヒヒヒン」(凄い調教技術? 頭の前にニンジン吊るすとかはどう?)
「騎乗技術は多少は上がって来てるよね? ストラスデビルでGⅢも勝ったし、まだまだこれからだと思うんだけど。ベレディー達に調教をつけているけど、特に特別な事はしてないし」
ニンジンより私はリンゴの方が好きですが、ここはやはりニンジンでしょうか? 昔から馬にニンジンって言われてますよね?
ただ、私のせっかくの提案も、鈴村さんはあっさりスルーします。
「ブフフフン」(特別な事はしてないの?)
「う~~~、あっさり解決しない事とか苦手なのに」
「ブルルルン」(やっぱりお馬さんにレースを見せるのは普通なのかな?)
レースでのお馬さんのリズムを聞いているだけでも勉強になるもんね。そんな事を考えていたら、鈴村さんが聞き捨てに出来ない発言をしました。
「普段では行けないクラスのお店だったのに、全然美味しく感じなかったの」
「ブルルルン、ブルルン」(え? 御馳走だったの? 御馳走だったの?)
「もうね、ベレディーの調教方法とか色々聞かれて、頭の中がいっぱいいっぱいだったんだよ」
「ブルルルルン」(違うの、御馳走の内容が知りたいの~)
大事な事だから思わず2回聞きましたよ! 普段行けないクラスのお店ってどんなお店なの? う~ん、ステーキとかのお店かな? お馬さんになったからステーキとか食べたいと思わなくなったけど、そういえば馬ってお肉食べれるの? 色々と空想が捗りますよ。でも、御馳走の内容を鈴村さんは教えてくれないのです。
「ブヒヒヒン」(乾燥したお肉なら食べれる?)
どんなご飯を食べたのか、すっごく興味があるのです。特に私はダイエット中なのですよ? でも、結局鈴村さんは食べたご飯の内容を教えてくれずにお話の内容は変わっちゃいました。
きっとナイフとフォークがいっぱい並んでいるお店ですよね。前世でテレビで見たような記憶があります。美味しいお肉が出るんですよね? でも、何となく今はサラダの方が美味しそうに思えるから不思議です。
レタスとかって美味しいのかな? ブロッコリーとか、あとはトマト? 何故かどんな味だったか思い出せないのですが、美味しそうですよね?
「ん? あ、ベレディー、どうしたの! すごい涎だよ!」
お肉の味を思い出そうとするんですが、駄目ですね。思い出せませんね。ただ、サラダに思いを馳せていたら涎が出ちゃっていました。
ブンブン、ブンブン、
馬房の隅っこで頭を振って涎を切っています。涎のついた藁では寝たくないのです。
「ベレディー、ちょっとまってね」
鈴村さんが何かゴソゴソしてるなあと思ったら、氷砂糖を出してくれました。
「ブヒヒーン」(氷砂糖だ~)
「味わって食べてね。あまりあげたら駄目って言われてるからね」
鈴村さんから貰った氷砂糖をお口の中でコロコロして味わいます。
そんな私の首に抱き着く形で、更に愚痴を零している鈴村さんですが、良く考えたらお馬さんにそんな話をしても普通は理解してもらえないと思いますよ?
「はあ、ベレディーに愚痴を聞いて貰えて少し楽になったわ」
「ブルルルルン」(お礼は追加でリンゴで良いよ?)
鈴村さんの愚痴を聞いていると、どうやら今年デビューするヒカリお姉さんの子供に騎乗する事になったみたいです。それ自体は問題ない様なんですが、そのヒカリお姉さんの子供を私やヒヨリみたいにして欲しいと言われたみたいです。
「ブフフン」(ミカミちゃんの下の姪っ子ちゃん?)
「ベレディーには懐いていたみたいだけど、覚えているかな?」
う~ん、鈴村さんのお話からすると、3歳の時みたいです。ヒカリお姉さんが私にお世話を任せて来た子かな? フィナーレはお母さんベッタリであんまり記憶になくて、ミカミちゃんと、その子の記憶が混じっちゃっています。
「ブルルルン」(多分覚えてる~)
「まあ、ベレディーはプリンセスミカミとも仲が良いし大丈夫かな。でも、どんな子だろうね、明日にはくるみたい」
その後、鈴村さんは姪っ子ちゃんの調教について何か言っています。
「ベレディーは自然と身につけたんだよね。突然レース中に走り方が変わって驚いたよね」
「ブヒヒヒン」(タンポポチャさんの真似したの)
まだあの時から時間はそんなに過ぎて無いんですよね。それでも、懐かしい気持ちがします。タンポポチャさんに負けないように、必死に走り方を真似したんですよね。
それこそ、将来お肉にならない様に。そんな走り方をヒヨリやフィナーレ、ミカミちゃんにも教え込みましたけど、みんなお肉になる未来から脱出出来ているといいなあ。
「ブフフフフン」(まだフィナーレやミカミちゃんは、お肉にされちゃう?)
フィナーレが先日桜花ちゃんの名前のレースを勝ったみたいです。だから、運が良ければフィナーレは大丈夫かな? でも、ミカミちゃんはまだ危ないのかも。それと、新しく会う姪っ子ちゃんも危なそうですよね。
ミカミちゃんが心配になって鈴村さんに尋ねるのですが、タイミング悪くいつも私の馬房を掃除してくれる人がやって来ました。
「鈴村騎手、テキが厩舎に来て欲しいと。今度来るトカチドーターの事で打ち合わせしたいそうです」
「あ、わかりました。すぐ行きます」
今度来る姪っ子ちゃんの相談みたいですね。そういえば隣の馬房を掃除していました。お隣に来るのでしょうか?
「私はこのままベレディーを散歩に連れて行きますので」
「ブフフフン」(いってらっしゃ~い)
鈴村さんを見送りながら、ついついお散歩の後の朝ご飯に気持ちは向かっちゃいます。
「ブヒヒヒン」(リンゴはいっているといいなあ)
兎に角お散歩ですね。
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