第182話 鈴村騎手と十勝川

 日本ダービーが終わり、今年の皐月賞馬であるマナマクリールが日本ダービーを制した。これにより競馬ファンの中では、10年振りの3冠馬への期待が一気に高まっていた。


 そして、翌週に行われた安田記念において、満を持して出走したトカチマジックが予想もしていなかった先行策を打ち、クビ差で勝利を収めた。


「勝ててホッとしたわね。まさか先行するとは思わなかったわ」


 表彰式が終わり、身内での祝勝会で勝子は本音を零す。


「そうだね。スタートが良かったと言うのもあるけど、ロンメル騎手が言うにはやはり1600mはマジックには距離が短いようだよ。その為、スタートが良ければ前寄りでの勝負と思っていたらしい」


 大阪杯を危なげなく勝利したトカチマジックではあるが、マイルとなると何時もの様に中団に控えた場合に馬群に包まれる可能性が高くなる。レースのペースにもよるが、そこでスタートが遅れると流石のトカチマジックも勝ちきれない可能性があった。


「すべては結果次第ですもの、実際に結果を出してくれて感謝こそすれ文句を言っている訳では無いのよ?」


 そう言って笑う勝子ではあるが、トカチマジックがこれでGⅠを4勝した事で、引退後に種牡馬となった際にもある程度の種付け依頼が来るだろうと安堵していた。


「会長、宝塚記念のあとは放牧、秋天、ジャパンカップ、有馬記念という所でいい? まあ宝塚記念は検査次第だろうけど」


 トカチマジックの次走には宝塚記念を予定している。しかし、まだ出走直後であり、実際に宝塚記念へ出走させるかは、この後の馬体の検査次第である。


「そうね、ミナミベレディーは秋のレースをどうするのかしら? 何か聞いていたりする?」


「う~ん、競馬協会は凱旋門賞へ行って欲しいみたいだけど、この時点で出走馬登録をしていないし、国内のレースになるんじゃないかな?」


 息子の勝也が言うように、勝子が調べた限りにおいてもミナミベレディーの宝塚記念以降の動向はまだ決まっていないようであった。


 そして、凱旋門賞となると一次登録は既に終わっており、一次登録なしで追加登録となると10万ユーロが追加で必要になる。この為、出走させる可能性があるのであれば費用的にも5月の1次登録をしておくのが普通であった。


「そうね、ドバイシーマクラシックで勝ったとはいえ、あの大南辺さんであればミナミベレディーに無理はさせないでしょうね。ミナミベレディーがロンシャン競馬場に合っているかと言えば、首を傾げる所もありますし」


 十勝川達は、ミナミベレディーは力のいる芝でのレースが不向きである事に気が付いていた。それ故に、もし海外で秋に出走させるとすると、狙い処はアメリカで行われるBCターフであろうと考えていた。


「BCターフは、宝塚記念の優勝馬は優先出走権が得られますからね」


「そうね、それもあったわね」


 実際の所、ジャパンカップとの兼ね合いなども有り日本馬がBCターフへ出走する事はほどんどなかった。それ故に、海外に拘らなければジャパンカップに出走すると思われ、そうなるとそれ以外のレースをどうするかが注目となる。


「あちらは、厩舎は違えどサクラヒヨリもいますからね」


「そうねえ。ただサクラヒヨリを秋の天皇賞に出してくるかしら? 昨年獲れなかったエリザベス女王杯へ出走させるかもしれないわよ?」


「ですね。武藤厩舎とすれば来年もありますから」


 天皇賞と比べれば、牝馬のみで争うエリザベス女王杯の方が勝てる見込みは高い。ましてや、芝2000mとなれば強豪が犇めくのだ。

 そして、まだ明言されてはいないがミナミベレディーは今年一杯で引退だろうと競馬関係者内では言われている。


「今年はうちのマジックに勝って欲しいわね。やっぱり何処かでミナミベレディーに勝っておきたいわ」


「負け続きだとミナミベレディーに相手にもして貰えない?」


 そう言って笑う息子を軽く睨みつけ、そういえばとコロリと表情を変える。


「水曜日の準備は出来ているの? 鈴村騎手との食事会の事よ?」


「本当に俺も行く必要あるの? 勘違いしちゃわない?」


 未だ独身生活を満喫している勝也は、何となく母親の意図が透けて見えている気がする。


「あら? 私は別に勘違いされても困らないわよ。鈴村騎手も良いお嬢さんじゃない。調教技術もあるみたいだし、頑張り屋さんみたいな所も高得点ね。ご実家も堅実な経営をされてみえるみたいで、跡継ぎは御子息で決まりでしょ? 何か不満があるの?」


「ちょ、ちょっとまってよ! いや、マジでそっちがメインなの? 勘弁してよ」


 その後、母親と息子で何らかの会話が行われる。そこでどんな結論に達したのか、達しなかったのかは判らないが、ともかく鈴村騎手と十勝川家の会食が翌週行われた。


◆◆◆


 香織は、まさにGⅠへ初出走した時並みに緊張していた。


「肝心の大南辺さんも急遽抜けられない予定が入ってドタキャンだもんなあ」


 大南辺道子経由とは言え、そもそも碌に面識のない十勝川勝子から突然の会食お誘いに、香織はあたり前に緊張していた。そもそも大南辺道子から聞いた十勝川勝子の次男といえば、トカチレーシングの代表者であり、香織はそんな二人からお誘いが掛かる理由に思い当たらない。


「大南辺の奥さんが言うような事は無いだろうから、そうなると呼ばれた理由は何だろう?」


 呼ばれた理由が今一つ判らない為、同席出来なくなった大南辺道子から、香織は可能な限り情報を得ようとした。ただ、結局分かった事は道子自体も詳しい内容は判っていないと言う事だった。


「道子さんは、あまり競馬に興味ないから仕方が無いかあ」


 十勝グループの一族ともなれば、結婚相手は香織の家と比べても数段上の上流階級の御嬢さんとかになるだろう。ましてや、すでに30歳を超えた自分では釣り合いがとれない為、恐らくは騎乗依頼とかでは無いかと思っている。


「ただねえ。そうなると態々呼ばれる理由はなんだろ? 十勝川さんの所だとベレディーとかは関係無いだろうし?」


 呼ばれた理由が判らない事ほど不安になる。ただ、そういえば日比野騎手の時にはお世話になったみたいだから、それかな? でも、日比野騎手が引退して、うやむやになっちゃったんだよね。それに、十勝川さんは当事者じゃ無いし、ないかなあ。


 この日比野騎手の事件では、騎手達の中で未だに不満に思っている者が多い。しかし、それをこれ以上掘り返しても騎手達にはメリットが無い為に、結局はうやむやで終わりそうであった。


 理由が良く判らないまでも、香織は指定されたお店へと到着した。


 指定された時間より若干早い到着ではあるが、香織が店に入ると、もう既に十勝川達は席に案内されていた。


「あ、お待たせしてしまいまして」


「いえいえ、此方が早く着きすぎたの」


「せっかちな人が居るからね。あ、初めましてですね。トカチレーシング代表の十勝川勝也です。今日は態々お呼びだてしてしまい申し訳ありません」


 そう言って香織に挨拶するのは、ストライプのスーツをビシッと着た、香織が普段接する人達とは雰囲気の違う男性である。


 お金持ちオーラが凄いなあ。


 香織も、女性の一般的な嗜み? として、相手の着ている物や腕時計から、大体の生活レベルを推察することは出来る。普段から馬主と接する事もある為、それがキチンと着こなされているかなどを勘案しての感想で、まさにブルジョアのお坊ちゃんだなと失礼にも断定していた。


 その後、お互いに軽い雑談をしていると、料理が運ばれてくる。出される料理の話題などを交えながら、やはり話題は自然とミナミベレディーやサクラヒヨリなどをメインに続けられる事となった。


「あら、そうするとベレディーの嘶きは鈴村さんが発案なのね」


「はい。共同通信杯でレース後にサクラヒヨリが褒めて褒めてと騒ぐのを見て、頑張ったご褒美に、すぐベレディーの嘶きが聞ければ嬉しいかなと」


「馬もレースの勝ち負けは判るみたいですからね」


 勝也の言葉に香織は頷く。香織自身もミナミベレディーやサクラヒヨリのみならず、騎乗して来たどの馬も、注意して見ればしっかりとレースを理解し、勝ち負けで一喜一憂しているのが判る。


「中には、まったく勝ち負けを気にしない馬もいますけど」


 そう言って笑う香織に、勝子が漸く本題を切り出してくる。


「香織さん、いえ、この場ではあえて鈴村騎手と呼ばせていただくわね。実はね、今回ちょっと無理を言って2歳牝馬を手に入れたの。それでね、まずはその馬の主戦をお願いしたいの」


「え? は、はい。それは願っても無い事ですが」


 単純に騎乗依頼であれば香織としても願っても無い申し出である。もっとも、すでにお手馬もいる為に、レースの兼ね合いなどが発生するだろうが、それはその馬の調教師とすり合わせる内容だ。


「ただね、その馬の調教自体も鈴村騎手にお願いしたいんだ。その為、鈴村騎手が快諾してくれたなら登録変更後に馬見厩舎へ預ける事になるかな」


 決定が自分の了承主体な意味が分からず、香織は思わず首を傾げる。すると、勝子がふわりと笑顔を浮かべた。


「その馬はね、サクラハヒカリ産駒牝馬なの。昨年既に交渉して購入していたから、予定金額内で納まって良かったわ。プリンセスミカミのオークス出走が決まった後だったら、購入金額の軽く倍は上がってたわね」


 勝子の思わぬ話題に香織が必死について行こうとするが、そこで更に息子の勝也から爆弾が投げ込まれる。


「此処までなら普通の騎乗依頼なんだけど、トカチドーター、あ、まだデビュー前だから登録名を変えたんだよね。そのトカチドーターの調教も鈴村騎手にお願いしたいんだ。その為に馬見厩舎を選択させて貰った」


「騎手の貴方にお話しするのは筋違いだと判っているわ。可能な限り便宜を図らせて貰うつもりよ? 良ければこの勝也もつけようかしら?」


「え?」


「かあさん?」


 勝子に鋭く釘を刺す勝也である。ただ、それを見ていた香織は、態度には出さないがちょっと不機嫌になる。


 どうせ私は結婚の対象になりませんよ! そこまで強く否定しなくてもよくない?


 自分自身に自覚有る無しはともかく、そろそろ結婚に焦る年頃になって来ている。それ故の微妙な乙女心と言うものである。


「ふふふ、まあ冗談はともかくとして、ぜひ鈴村さんの調教を記録させてほしいの。ただ、鈴村騎手の技術を盗むことになるわね。貴方が身につけたアドバンテージを無くせという事だから、本当に誠意をもって対応させていただくつもりよ」


 そこには、今までとは明らかに違う真剣な表情をした勝子の姿があった。


 な、何事なの? え? 騎乗依頼じゃ無くて調教? それに記録?


 勝子の意図が判らず、香織はまたもや首を傾げる。


「あの、特に特別な調教はしていませんけど?」


ミナミベレディーに対しレース前に行っているミーティングなどは、ミナミベレディーにしか効果が無い。サクラヒヨリにしろ、他の馬にしろ、そもそもレースの映像を見てくれないのだ。


 サクラハヒカリ産駒でも、多分駄目だよね?


 全妹のサクラヒヨリやサクラフィナーレですら無理なのだ。唯一効果があるのはミナミベレディーの嘶きで有ろう。そう考えれば、馬見厩舎に預託される事は悪い事では無いのかもしれない。


「鈴村騎手が日常の調教で、何気なく行っている事にヒントがある気がするの。どうしてミナミベレディーはあそこ迄強くなったのか。サクラヒヨリやサクラフィナーレにしても、勝手な想像ですけど、鈴村騎手とミナミベレディーが居なければ此処まで強くなってない気がするわ」


 十勝川の大絶賛に、香織は益々困惑の度合いを強くする。ただ、理性の何処かで、記録、それは拙いと騒いでいる気がした。


 馬見厩舎だと、ベレディーとの遣り取りも映っちゃうかもよね?


 特に誰かに隠さなければいけない事はしていない。ただ、それでも何とか記録は断れないか、若しくは内容を限定できないかと香織は思うのだった。

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