第180話 オークス後の浅井騎手と

 浅井騎手は、録画していたオークスの映像を何度も見返していた。


 思うような騎乗が出来なかった浅井騎手は、レース直後は思いっきり落ち込んでいた。それでも、無事レースが終わった事に安堵もしていた。


 そんな浅井騎手であったが、翌週からはオークスの結果を左程引き摺る事無く、周りのフォローも有りどうにか持ち直してきている。


 レースが終わったその日、浅井騎手は篠原調教師へと電話で結果報告をした。その際には、無事にレースを終えた事に一先ずお褒めの言葉を貰えた。もっとも、翌日篠原厩舎へと顔を出すと、早々にオークス騎乗でのダメ出しもいっぱいされたのだが。


 そんな事も有り一人で録画を見る事が出来たのは、レースを走った3日後の今になってしまった。


「厩舎で何度も何度もレースは見たんだけど」


 篠原厩舎で映像を見ながら、騎乗時の要所要所での判断に対する評価や、その際の選択肢の洗い出し、もしそうなった場合の他の馬達の動きの予測、最後の直線での判断など、篠原調教師が納得するまで3時間も騎乗研究を行わされた。


 理論派と言われる篠原調教師らしい、オークスに騎乗した実体験以上に濃密な時間だった気がする浅井騎手である。


 実際の所、11番人気のプリンセスミカミを5着まで持って行った事で、一部では評価してもらっている。ただ、それはプリンセスミカミの地力に助けられての5着で有る事を自分が一番良く知っていた。それ故に、篠原調教師の指導は非常にありがたかった。


「鈴村騎手からも頑張ったねって言われたけど、レース中の事を殆ど覚えていない何て言えなかったな」


 スタート直前からすでに気持ちが一杯一杯で、気が付けばゴールしていたという印象だった。勿論、要所では判断をしていたし、最後の直線では必死に鞭も使いプリンセスミカミを追い立てた記憶はある。レース後の腕を含めた全身の疲れが、その記憶が現実だった事を物語っていた。


「必死だったんだけど、必死だったんだけど、もう少しやりようがあったよね」


 そもそも、最後の直線プリンセスミカミの持久力では坂からピッチ走法で走り切る事は厳しいと予測がついていた。それ故に中団待機で脚を溜め、少しでも長く直線で走れるレースをするつもりだったのだ。

 それも最初のスタートが想定以上に良すぎた為に、予定が狂い最後まで修正できなかった。


「ミナミベレディーやサクラヒヨリに比べると、やっぱり持久力や粘りは無いからなあ」


 ゴール前100mくらいで既にプリンセスミカミの頭が上がり始めていた。それでも、最後まで走り切ってくれたのだが、やはり末脚の勢いはそこで止まり、後退してしまった。それに対し、ミナミベレディーやサクラヒヨリ、サクラフィナーレなどの3頭は、ゴール前では苦しいだろうにも関わらず、更に頭の位置を下げる傾向にある。


「有り得ないよね」


 何が此処まで馬を追い込むのか。ましてや、この3頭は揃って鞭を使用しない。それであって、この最後の粘りは自分の常識からかけ離れた話だった。


「鈴村さんと併せ馬をして、プリンセスミカミも前よりはスムーズに手前換えを出来るようになったんだけどなあ」


 鈴村騎手が、何度も器用にミナミベレディーを操って手前替えをしてくれた。それを幾度か見たプリンセスミカミも、これで手前を替える事を覚えてくれたのだが、最初程では無いにしても相変わらず左回りは苦手そうだった。


「あんな風に馬を操れたら凄いよね」


 調教時の鈴村騎手は、浅井騎手から見ると正に人馬一体とはこういう事かと思わせる。それ程までに的確にミナミベレディーを操っていたのだ。手綱で、手鞭で、時には声でミナミベレディーを操る鈴村騎手は、まるで馬と会話をしているかの様に見え、浅井騎手が目指すべき理想の騎乗スタイルに見えた。


「このままだと、次のレースでプリンセスミカミに騎乗は厳しいかな」


 まだ太田厩舎からは特に何も話が来ていない。今、プリンセスミカミはレース後のコズミが出た為に短期放牧へと出される事となっていた。その復帰具合で次走が決まる事になっている。


「サクラフィナーレと同じタイミングで放牧するって言ってたけど、北川牧場だと北海道なんだよね。札幌のレースとかで騎乗依頼があれば良いけど、そうでないと遠いなあ」


 鈴村騎手が言うには、ミナミベレディーは普段から北川牧場での放牧を楽しみにしているそうだ。しかし、ミナミベレディー、サクラヒヨリ共に宝塚記念に出走する為、放牧となるとサクラフィナーレは1頭のみ先に北川牧場へと行く事になる。


「どっかで時間を作って、鈴村騎手に騎乗技術を教わりたい」


 男性とは違う、女性騎手ならではの騎乗技術で勝ち星を挙げている鈴村騎手。そんな鈴村騎手に感化された女性騎手が、今年新たに2名美浦でデビューを果たしている。現在も競馬学校には3名の女性が生徒として日々研鑽を積んでいた。


 そんな新人女性騎手は所属を栗東ではなく美浦を選ぶ傾向にあるのは、やはり鈴村騎手の影響であろうか。


「美浦だと鈴村騎手ともっと会話できるんだろうなあ。いいなあ。ミナミベレディーやサクラヒヨリと放牧が重なったら、鈴村騎手の予定を聞いて北川牧場に行ってみようかな」


 実際の所、まだ新人である騎手達は厩舎所属となる為に、そこまで頻繁に交流が出来る訳では無い。鈴村騎手自体も誰かに教えるなどが苦手であり、更には口下手である為に新人騎手達が願う程に会話の機会が増えてはいないのが実情ではあった。


「テキが許してくれないと、北海道は行けないんだよね」


 何かと儘ならない現状を思い、ついつい溜息を吐く浅井騎手だった。


◆◆◆


 サクラフィナーレが放牧に出た武藤厩舎では、サクラヒヨリの調教が順調に行われていた。それでありながら武藤調教師を悩ませているのが、1歳牡馬のボクダッテだった。武藤調教師的にはオープンまでは行けるのでは? 上手くすると重賞もと思い北川牧場に営業を掛けたサクラハヒカリ産駒の牡馬である。


「まだ1歳ですから此れからでしょう。好奇心も旺盛で、頭の良い仔ですよ」


 北川牧場へ行った際にミナミベレディーやサクラヒヨリ、サクラフィナーレを追いかけていた牡馬は、幸いな事に北川牧場の顧客でもある桜川氏が購入してくれた。もっとも、北川牧場の牝馬とは違い、桜川が所有する馬の代名詞であるサクラの文字を使用しないという若干可哀そうな扱いであったが。


「サクラを使うと変に注目されて可哀そうだという判断何ですよね? 今一つテキの目が信じられて無いですね」


 そう言って笑う調教助手を、軽く睨みながら武藤調教師が言う。


「良く考えたら牡馬と牝馬で同じエリアで放牧は有り得ないんだよな」


 育成牧場で順調に成長しているボクダッテではあるが、1歳となり育成牧場へと運ばれていた。そして、ここで順調に調教は進んでいるのではあるが、先日育成牧場を訪問した際には、武藤調教師の感性に引っかかるような何かは鳴りを潜めてしまっていた。


「何かを感じたんだがなあ」


 サクラハキレイ血統特有の大人しい馬で、調教時にも特に問題となる点は少ないと報告が来ている。馬体の仕上がりは血統特有な所も有り、デビューは恐らく2歳後半か3歳頭になりそうだった。


「まだ1歳ですから判りませんよ。ただ、ミナミベレディーやヒヨリなどと放牧を行えないのは痛いですね」


「調教は一緒に行えるだろう。もっとも、サクラヒヨリは嫌がりそうだが」


 ミナミベレディーと違い、サクラヒヨリは他の馬と一緒に行動する事が少ない。実際の所、ミナミベレディーやサクラフィナーレ、プリンセスミカミなど馴染みのある3頭とは問題が無いが、その他の馬、特に牡馬に対しては警戒心が強い。


「北川牧場では一緒に走っていたんですよね? 覚えていませんかね」


「無理だろうなあ。フィナーレやプリンセスミカミを覚えていた事の方が驚きだ」


「ミナミベレディーが受け入れたからで、実際に覚えていたのかは判りませんがね」


 そう言って笑う調教助手だが、成長が遅いボクダッテの状態は気になる所だった。


「北川牧場にはお世話になっているからな。何とか牡馬で何処か重賞を勝たせてやりたいのだが」


「桜川さんの御子息が、ボクダッテに期待しているらしいですから。そもそも、名前を決めたのも御子息ですし」


 サクラヒヨリ、サクラフィナーレのみならず、サクラハキレイ、サクラハヒカリと桜川が所有した4頭の牝馬を武藤調教師は預託して貰った。そんな武藤調教師だったが、北川牧場の産駒で牡馬と牝馬で価格が倍以上の開きがある事を懸念している。また、武藤厩舎をメインに預託してくれる桜川の期待にも応えたいという思いもある。


「今年生まれたサクラハキレイの血統幼駒は、皆牝馬だったそうですね」


「ああ、御蔭で取り合いだよ」


 思わず苦笑を浮かべる武藤調教師だが、そんな自分もさっそく北川牧場に営業を掛けたのだが、懇意にしている馬主達の間で誰が購入するかで駆け引きが勃発しているようであった。


「桜川さんも資金的に余裕がありますからね」


「ただな、ヒヨリ、フィナーレと来て、更にもう1頭となると馬主達からの牽制が強いらしい」


 北川牧場が主に取引している馬主は、昔から馴染みのある馬主が多い。その為、馬主間でも交流があり、そんな中において桜川が更にサクラハキレイ血統の馬を所有するのは厳しそうだとの話だった。


「あそこは馬主達も含めてファミリーみたいなものですからね」


「それでも、ミナミベレディーは売れ残っていたそうだがな」


 近年の北川牧場躍進の原動力であるミナミベレディー。この馬を購入したのは、北川牧場とそこまで懇意とは言えない大南辺であった。そもそも、大南辺自身も北川牧場に幼駒を探しに行っていた訳では無く、たまたま近くまで来たために訪問したのだという。


「そう考えると、大南辺さんは強運ですね」


「大南辺さんはミナミベレディーの産駒を買う為にお金を貯めているそうだからな」


 馬見調教師に聞いた話だが、今まで購入して来た幼駒とは恐らく桁が変わるだろうからと、大南辺は笑っていたそうだ。


「ボクダッテでGⅢ勝利ですか。適距離は2000mくらいだと思いますが」


「今の主流となる距離だから激戦だな。ただ、サクラハキレイ血統と言うだけで、いけそうな気がしないか?」


 そう言って笑う武藤調教師に、調教助手は苦笑を浮かべるのだった。

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