トッコとヒヨリの宝塚記念

第179話 馬見厩舎と長内騎手と

 3歳牝馬の祭典オークスが終わり、世間では今週末に行われるダービーへと注目が向かう。


 ミナミベレディーなど牝馬の活躍がマスコミなどで大きく取り上げられ、何かと牝馬に世間の注目が行くが、それでも競馬関係者達にとってダービーはやはり別格であった。


 ダービー馬を生み出したい。ダービー馬を所有してみたい。ダービージョッキーに成りたい。競馬関係者の夢の舞台、それがダービーである。競馬を知らない一般人ですら、ダービーの名前くらいは聞いた事があるのだから。


 ここ1、2年で、競馬人気は徐々に回復してきていた。その競馬人気を更に確固とした物としたい競馬協会は、毎日のようにCMを流し、ダービーの、そして競馬の周知を図っている。


 そんなダービーへの集客と共に、競馬ファン達の眼は先週から始まった宝塚記念ファン投票の順位にも注目していた。


「1番人気は、やはりミナミベレディーですね」


「そうだな。ありがたいがプレッシャーが凄い」


 投票は、まだ始まったばかりとは言え、ミナミベレディーは投票開始から1週間で他の馬を早くも突き放して1番人気となっていた。


「ベレディーの調子も漸く上がって来ましたし、レースまでにはベスト体重に持っていけそうでホッとしています。その分ベレディーのご機嫌は未だに下降したままですが」


 そう言って笑う蠣崎調教助手だが、実際にミナミベレディーの減量計画を練った時には、これで宝塚記念に間に合うのか不安になったものだった。


「桶を鳴らしたり、厩務員に悲壮な声で訴えたり、あの手この手でリンゴを貰おうとするからな」


「ええ、入り口にリンゴが入った箱があるのを知っていますからね。チラチラ視線を送って催促するそうです」


 二人は、お互い顔を見合わせて苦笑を浮かべる。


「まあ、ベレディーの体重以上に問題なのは、やはり天気だろう。まだ月間予報でも判らないからな」


 宝塚記念の天気は、今日の段階では流石に判らない。そもそも、月間予報が出たとしても、参考にしかならないだろうが。


「あとレース間隔ですね。ベレディーは休養明けは走らないですから。3ヵ月の間隔がどう出るか、本来はどこかで一叩きしたかったですね」


「検疫のノウハウの無さが此処で出たな」


 本音で言えば、可能なら春の天皇賞へ出走させたかった。しかし、海外遠征からの疲労を考慮して、最初から宝塚記念に照準を合わせていた。もし、海外遠征の経験やノウハウが馬見厩舎にあれば、春の天皇賞に出走させることが出来ていたのかもしれない。


「勝てませんでしたが、シニカルムールは天皇賞に出走させてきましたからね。あれは流石と言うべきなんでしょう」


「そうだな。勝てないにしても、掲示板には載せて来たからな。宝塚記念にも出走させて来るみたいだが、良い一叩きになっただろうか?」


 今年のドバイでは、流石は山下調教師という所かドバイターフでシニカルムールをしっかりと勝利へと導いていた。

 そして、春の天皇賞で最有力と見られていたミナミベレディー、プリンセスフラウが早々に出走回避を表明した事もあり、山下厩舎では海外遠征後でありながらシニカルムールをしっかりと調整し出走させてきた。


 もっとも、結果は4着と思うような結果は残せなかったのだが。


「宝塚記念への一叩き、春の天皇賞はあわよくばという所だったと聞いていますが?」


「あの山下調教師だ。常に勝ちに来ているさ。まあシニカルムールには3200mは明らかに長いからな、嘘では無いんだろうが」


 馬見調教師が見る所、シニカルムールは1800から2500までだろう。2回出走している春の天皇賞だが、どちらも最後の直線で明らかに脚が止まっていた。


「そうなると、怖いのはやはりプリンセスフラウ、サクラヒヨリとサウテンサンですかね」


「そうだなあ。プリンセスフラウは当たり前として、鞍上が乗り替わりになるサクラヒヨリが未知数だな。恐らく長内騎手が騎乗する事になるのだろうが、私としてはサウテンサンよりダービーを勝ったオレナラカテルが怖いな。あとは、トカチマジックか」


「怖い馬だらけですね」


「怖くない馬など宝塚記念に出走してこないぞ」


 蠣崎調教助手の言葉に、馬見調教師は思わず苦笑を浮かべる。


「そういえば、サクラヒヨリとの併せ馬はどうするんですか?」


 今まで同じレースに走る事が無かったミナミベレディーとサクラヒヨリだ。それが今度の宝塚記念では同じレースを走る事となる為、今までと同じ様に調教時に併せ馬の相手として使用するかが問題となっていた。


「併せ馬をする相手がサクラヒヨリなのは、お互いに悪い影響は無いからな。併せ馬の勝ち負けで調子を崩す馬もいるが、ベレディーとサクラヒヨリでは、勝とうが負けようが調子はあがる。武藤厩舎でも同じ判断だよ」


 あの2頭を牡馬と一緒に走らせるわけにもいかない。


 その為、牝馬でしっかり併せ馬を行うには、中々にお相手の選定が厳しいという事情もある。


「という事は今まで通りで?」


「そうなるな。宝塚記念後は要検討だ。ベレディーとサクラヒヨリが同じレースを走った時に、問題が出るかは今回走らせてみないと判らんからな」


「ベレディーはともかく、サクラヒヨリは入れ込みそうですね」


 蠣崎と同じ意見の馬見調教師だが、それでレースがどうなるかは予想がつかなかった。


◆◆◆


「よしよし、サクラヒヨリは良い子だな」


 長内騎手はサクラヒヨリに騎乗し、坂路を2本熟していた。


 サクラフィナーレで初めてGⅠを勝利した長内騎手は、今度は念願のサクラヒヨリに騎乗して宝塚記念を走る事になる。ここ最近でも、時間があれば率先してサクラヒヨリの調教をかって出ていた。


 普段においても調教で騎乗する事自体はあるものの、次走のGⅠで自分が手綱を握るとなると、やはり調教に熱が入る。


「キュフフフン」


 サクラヒヨリに声を掛けると、不思議といつも返事を返してくる。以前の自分を考えると、此処まで馬と会話をする事は無かっただろう。自分が今のように絶えず馬に話しかけるようになったのは、やはり鈴村騎手の影響が大きい。


「宝塚記念は俺が騎乗するんだが、不服かもしれないが我慢してくれよ」


「キュヒヒン」


 サクラヒヨリが何を言っているのかなど判らないし、そもそも自分の言っている事を理解しているとは思わない。それでも、こうやって会話をする事で、確かに以前とは違い調教でも、レースでも、サクラヒヨリは素直に反応をしてくれるようになっていた。


 宝塚記念で結果を出せなければ、更に乗り替わりもあり得るよな。


 普段の調教を含め、必死にアピールして来たからこそサクラフィナーレに騎乗も出来たし、今回サクラヒヨリの騎乗にも繋がった。


 しかし、この世界はやはり結果が総てだ。鈴村騎手が宝塚記念でミナミベレディーに騎乗する事が発表されると、一流と呼ばれる騎手を含め、少なくない数の騎手が武藤調教師に売り込みを掛けたのを知っている。


 それ故に、もし此処で自分が不甲斐ない騎乗をしたならば、次は無いと長内騎手は思っていた。


「フィナーレで桜花賞を勝てたんだ、ヒヨリでだって勝てるはずだ」


 武藤厩舎では、地力という面ではミナミベレディーよりもサクラヒヨリの方が上だと考えていた。ただ、不思議とミナミベレディーは運を味方につけ、強敵たちが全力が出せずに終わるレースがいくつもある。


 結果が出れば出るほどに他の馬に騎乗した騎手達が警戒し、早仕掛けをしたり、待ちすぎたりと自滅する。最後の粘りを含め、一定以上の力はあるのだろうが、それでもサクラヒヨリで勝てない馬では無いと思っていた。


「まあ、それだけでGⅠを7勝出来るかと言えばなあ。ただ、ヒヨリだってGⅠを3勝している」


 4歳になりサクラヒヨリも本格化して来た。その中で待望の騎乗依頼である。この先は恐らく秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念と控えている。更にサクラヒヨリはまだ4歳で、5歳になってからも期待が出来る。せっかく掴んだ主戦騎手の座を、鈴村騎手にも、他の騎手にも譲るつもりは無い。


「ヒヨリ、頑張ろうなって、ヒヨリ、何処へ行くつもりだ!」


「キュヒヒン」


「ちょっと待て! まだ終わってないぞ!」


 長内騎手の意気込みを余所に、サクラヒヨリは調教が終わったと判断したのか、洗い場へ勝手に戻ろうとするのだった。


◆◆◆


 怒涛の5月が漸く落ち着きを取り戻し始め、北川牧場では今年生まれた4頭の産駒の検査を、獣医師を呼んで行なっている最中であった。


 その検査に立ち会っている桜花は、まだまだ小さい仔馬4頭を見ながら、どうしてもニヤニヤと笑みが零れてしまっていた。


「4頭とも大丈夫そう。やっぱり生まれてすぐが一番怖いよね」


 生まれたばかりの仔馬が、感染症に対する抗体を強める為の初乳をどれくらい飲んでいるかは非常に大事な事であった。その為、毎年北川牧場では仔馬の血液検査を5月に入ってから行っている。


「元気そうだし、しっかりと母馬のお乳を飲んでたから大丈夫だよね」


 見るからに元気そうな仔馬達に安堵するが、勿論検査結果が出るまでは油断が出来ない。この為、この時期は馬房の清掃を含め非常に気を遣うのだ。


「プリミカちゃんがオープン馬になってくれたから、今年はヒカリの子も値段が上がりそうだよね。ミユキ、ヒダマリも昨年よりは高くなりそうだし。あとはトチワカバの仔かあ、早く3勝してほしいなあ」


 今年は、サクラハヒカリ、ミユキガンバレ、ヒダマリガンバレとサクラハキレイ産駒の3頭が揃って牝馬を産んでくれた。血統的に牝馬が優秀な血統と思われている為、今までも時には牡馬と牝馬で倍以上の価格差が生じていた。その為、3頭揃って牝馬であった事に北川牧場はちょっとしたお祭り気分である。


「プリミカがオークスを勝ってくれていたらなあ」


 ちなみに、プリンセスミカミの北川牧場での愛称は、流石に三上氏の前でミカミと呼ぶのも躊躇われる為にプリミカと呼ぶようになっている。


 サクラハヒカリの産駒がオークスを勝ってくれたら、そう願ってテレビ観戦をしていた。残念ながら勝つ事は出来なかったのだが、11番人気でありながら掲示板に載った事で、一応評価は上がったと思う。


 プリンセスミカミがオープン馬となりGⅠを出走した。この事で今年サクラハヒカリが産んでくれた牝馬が、幾らで買って貰えるのか非常に楽しみであった。


「ただ、お母さんは頭を抱えてたよね。どうするんだろう」


 どうやら複数の人からサクラハヒカリの産駒問い合わせが来ているようだった。その中には、昔から北川牧場の馬を買ってくれている人達がいる為、単純に1番高い値段を提示してくれた人へという訳にもいかないのだろう。


「セールじゃダメなのかな」


 桜花は単純にそう思うのだが、世の中はそう簡単に判断できるようにはなっていないようであった。

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