第178話 プリンセスミカミとオークス 後編
思いも掛けず好スタートを切ったプリンセスミカミは、スタート直後のスタンドの大歓声に煽られたのか、そのままの勢いでハナをとるかのような勢いで駆ける。
「ど、どうしよう」
当初、太田調教師達との打ち合わせでは、中団から前寄りにつけての好位差しを狙う予定であった。ミナミベレディーやサクラヒヨリほどの持久力は期待できないとの判断で、更には父馬ドレッドサインの末脚が引き継がれている事に期待して好位差しを狙ったのであった。
そんな予定を覆す好スタート。スタート後に咄嗟に内へと手綱を切った事、更には内の馬達が其処迄スタートが良く無かった事、先行馬、逃げ馬と目される馬達が外枠に居た事も有り、プリンセスミカミはそのまま先頭を窺う態勢となってしまった。
手綱を引き速度を落とすには、既にタイミングを逸してしまったように感じた。予定外の状況に緊張も相まって、浅井騎手は判断が出来ずにプリンセスミカミが自由に駆けるがままになってしまっている。
そんな状況で、早くも最初のコーナーが迫って来た。
「出来れば外に膨らめるように、内に1頭置いておきたかったのに」
左回りに慣れて来たとは言え、未だに外へと膨らむ癖は残っていた。その為、太田厩舎の方針としては、中団外寄りの位置取りを心掛けて欲しいと言われていた。
オークスは上がり最速馬の勝率が高い。他の競走馬陣営は3歳牝馬という事も有り、無理せず最後まで末脚を溜める方針であった。
浅井騎手の思いと各陣営の思いが良いのか悪いのか合わさり、プリンセスミカミはそのまま先頭に立ち最初のコーナーへと入る。
「向こう正面の直線で、しっかり息を入れよう」
この時、浅井騎手の頭に浮かんでいたのは、鈴村騎手が騎乗したミナミベレディーのレースだ。
先頭で最初のコーナーへと入るプリンセスミカミであるが、やや外へと膨らみながら1コーナーから2コーナーを抜け、向こう正面へと入る。そして、ここで浅井騎手は手綱を軽く引きプリンセスミカミに息を入れさせる。
「うん、良い感じだよ。ミカミは良い子だね」
レース中であろうと、しっかりと馬を褒めてあげる。鈴村騎手に教えられたことを実行しながら、後ろの様子を窺う。しかし、プリンセスミカミをかわし前へと進む馬が居ないまま3コーナーへと入る。
「4コーナーへ入る所でスパートするからね」
そう声を掛ける浅井騎手であるが、向こう正面の直線でも他の馬達に大きな動きは無く4コーナーが迫って来た。
プリンセスミカミが先頭で3コーナーから4コーナーへ入る所、ここで漸く後方から馬の蹄の音が聞こえ始める。
「え? アップルミカン!」
若干膨らんで3コーナーから4コーナーへ入ったプリンセスミカミ。
その内を突いてアップルミカンが一気に並びかけて来た。本来、先行馬であるアップルミカンは、プリンセスミカミの後方でジッとチャンスを狙っていたのだ。
そんなアップルミカンに騎乗する騎手は、1コーナーから2コーナーでプリンセスミカミがコーナーを膨らみながら回る点に気が付き、この3コーナーから4コーナーで一気に内を突いてプリンセスミカミをかわすつもりだった。
ここで早くも動いて来る馬が居るとは考えていなかった浅井騎手は、プリンセスミカミへとスパートの指示が一瞬遅れてしまう。
その一瞬のタイミングで、先頭が入れ替わったのだった。
ただ、最後の直線でのスタミナが気になる浅井騎手としては、すぐには動くことなく4コーナー中程迄スパートを掛ける事無く待つ事にした。
「よし、行くよ!」
4コーナーから直線に入る所で、浅井騎手は軽く鞭を一閃させる。そして、可能な限り外に膨らみ過ぎない様に、手綱を操りながらプリンセスミカミをスパートさせた。
そして、直線に入って早々に最後の坂が立ち塞がる。
「坂だよ!」
最後の直線525.9m、その直線に入って早々に立ち塞がるこの坂で、プリンセスミカミにピッチ走法を指示し坂を駆け上がっていく。一旦は半馬身程リードしたアップルミカンに対し、プリンセスミカミがジワジワと並びかけて行った。
アップルミカンとプリンセスミカミの叩き合い、しかし、これで決着がつくには東京競馬場の最後の直線は長かった。坂を駆け上がった2頭に、今度はじっくり末脚を溜めた差し馬、追い込み馬達が襲いかかって来る。
「がんばれ!」
必死にプリンセスミカミを追い立てる浅井騎手、そこに並びかけるアップルミカン、ゴールまで残り150mという所でプリンセスミカミの頭が上がり始めた。
「あと少しだよ!」
浅井騎手は、必死に頭の上げ下げを補助する。
ここで、アップルミカンとプリンセスミカミとの間を抜けて1頭、更にはプリンセスミカミの外を抜けて更に1頭が比較にならない勢いで駆けあがって来た。
「頑張れ!」
左右から馬が来る事に気が付いたのか、ハミを噛み締めたプリンセスミカミが再度加速しようとする。懸命に走るプリンセスミカミだが、坂を越えた時の勢いは既になかった。
「あと少し!」
しかし、残り50mという所までプリンセスミカミは懸命に走るが、ここで更に後方から来る馬に躱され、その先がゴールだった。
◆◆◆
「5着か6着か、まあこんな物でしょうか」
モニターを見つめてそう呟く篠原調教師に、園村騎手が苦笑を浮かべる。
「納得している割には悔しそうですね」
そんな園村騎手に、篠原調教師は微笑を浮かべながら答える。
「当たり前です。勝てなければ悔しい物ですよ。ただ、無事にレースが終わってホッとしてもいます。私の厩舎の馬であれば、お小言が一つや二つでは済まないでしょう」
そんな事を言いながらも、篠原調教師の表情には明らかに安堵の色合いが強い。
「ですね。まあ初のGⅠですから及第点じゃないですか? ここで勝たれたらオークスに騎乗したベテランの立つ瀬が無いです」
「もしそうなっていたら、トップジョッキーを笑いものに出来たんですがね」
皮肉か本気か判らない事を笑顔のまま告げる篠原調教師に、相変わらず質の悪いおっさんだと思いながら、園村騎手は再度モニターに目を向ける。
「勝ち馬はウメコブチャですか。磯貝厩舎の面目躍如でしょうね。一昨年のタンポポチャに続いてとは、羨ましい限りです」
「花崎オーナーですか、流石に良い馬をお持ちですよ」
「ええ、羨ましいですねぇ」
花崎グループのオーナーである花崎の事は、競馬業界では有名であった。それ故に、メインの預託先である磯貝厩舎の事を羨ましく思うのは仕方が無いのだろう。それも実績を積んでいるが故の事ではあるが、その実績故に良い馬が回って来て、さらに実績を積む事が出来る。篠原調教師にとって、それは非常に羨ましい事であった。
「5着ですね、初めてのGⅠで掲示板に載ったのですから大したもんですよ」
写真判定となっていた5着に6番の文字が点灯し、これで掲示板の順位が総て確定する。
「ライントレースには2400mは長すぎましたね。やはりマイラーですか」
1番人気のライントレースは、最後に追い込むも坂で脚が止まり結局は6着となる。やはり距離の問題か、最後の末脚に今一つ力が感じられなかった。
「プリンセスミカミ、浅井騎手は次走で騎乗出来ますかね?」
「さて、今回の5着も殆ど馬の御蔭ですから。プリンセスミカミは良い馬ですね。あの馬でオークスを走れた事を浅井騎手は感謝する事ですね」
自分が判断する事では無いという事か、篠原調教師は質問に対し明言は避けモニター前から離れフロントホスの馬房へと向かうのだった。
◆◆◆
『各馬ゲートに納まりまして、スタートしました。各馬大きな出遅れも無く綺麗なスタート、ここで先頭を窺うのは6番プリンセスミカミ。鞍上は重賞初出走の浅井騎手、好スタートを切ったプリンセスミカミ、このまま先頭を窺います。
そのすぐ後方には3番ハニーブレット、ほぼ並んで1番グレードライド、今日は前寄りのレースか。その1馬身後方に12番アップルミカン、外から内に入って今日はこの位置・・・・・・。
各馬3コーナーに入り、早くもアップルミカンが前へ上がって来た。これはサクラハキレイ血統のロングスパートを警戒したか。ここでアップルミカン、内を突いて半馬身リード、しかしプリンセスミカミも粘る! このまま2頭並んで直線に入り、後続馬も一気に前に詰めて来た!
残り500m、しかし、東京競馬場名物だんだら坂が待ち構えている! 先頭は依然アップルミカン、ここでプリンセスミカミも再度伸びて来た!
しかし、後方からはニムラトイ、ウメコブチャが凄い勢いで上がって来る!
1番人気ライントレース、鞭が入るが伸びない!
先頭は依然アップルミカン。プリンセスミカミやや後退、坂を越えて先頭はアップルミカン!
ここでウメコブチャが上がって来た! プリンセスミカミを躱し、アップルミカンに並んだ! 躱した! 躱した! 先頭はウメコブチャだ! 一気にウメコブチャ先頭! このまま決まるか! 先頭はウメコブチャ、ウメコブチャが半馬身リードしてゴール!
勝ったのは、なんと4番人気のウメコブチャだ! 鞍上鷹騎手を腕を挙げました! 一昨年のタンポポチャに続き、ウメコブチャが樫の女王に輝きました!
2着にはアップルミカン、3着にニムラトイ、1番人気ライントレースは掲示板外です!』
「やはり厳しかったな。まあ競馬場との相性もあったが、まだまだ馬が幼いな」
太田調教師は、腕を組みながらモニターを眺める。まだまだ経験の浅い浅井騎手でオークスを勝てるかといえば、やはり厳しいとは思っていた。それでも、三上の意向が多分に含まれたとはいえ、浅井騎手には自分も納得して騎乗を頼んだのだが、掲示板に載る事が出来たのは僥倖であっただろう。
「騎手が変わって勝てていたかと言えば、それも判らないしな」
今回の結果は5着とは言え、太田調教師は今回のオークスの結果に、一応納得はしていた。勿論、満足していた訳では無いが。
それでも、レースのスタートから最後のゴールまで、プリンセスミカミはしっかりと走り切り、その実力の片鱗を見せた。実際に今日のレースでは、鞍上の浅井騎手によるプラス要素は皆無であったと言っても良い。それでも、全体を見てマイナス要素もなく走り終えた所は評価していた。
「苦手な左回りも及第点だな。ただ他の厩舎所属騎手となると中々になあ」
実際には、やはり外に膨らみ内を突かれるレース展開となった。ただ、そもそも速度が上がればどうしても外に膨らむものであり、余程に器用な馬でなければ内は空くものだ。それ以上に他厩舎所属騎手という事で、色々と気を遣わなければならない点に思わず顔を顰める。
「まあ、GⅢであれば、そう遠くない内に取れそうだな。さて次走をどうするか」
もっとも、これも皮算用でしかない事に気が付き、太田調教師は苦笑を浮かべるのだった。
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