第177話 プリンセスミカミとオークス 前編

『3歳牝馬の頂点、今年の優駿牝馬オークスが東京競馬場で開催されようとしております。3歳牝馬の頂点を決めるオークス、今年は桜花賞を勝利したサクラフィナーレが残念ながら出走を回避する中、注目の1番人気は何と言っても阪神2歳牝馬優駿勝馬のライントレース。室田厩舎陣営も此処に合わせて万全の状態。続く2番人気はフローラステークスを勝利したニムラトイ、鞍上都築騎手も2400mと距離が伸びる事は好条件との事、今週行われた追い切りでも・・・・・・』


 一昨年から競馬人気がジワジワと回復し、今年のオークスでの来場者数は18万人に達するのではと言われていた。

 その観客達の熱気が各レースの緊張感に繋がり、それは重賞初出走の浅井騎手に、とてつもない重圧として圧し掛かっていた。


「浅井さん、リラックス、リラックス」


 東京競馬場で今日行われた5レースと8レースに出走した鈴村騎手は、騎手控室へと戻って来た。そこで、浅井騎手が控室でガチガチに緊張している事に気が付き声を掛ける。


「あ、鈴村さん」


 最近の遣り取りでお互いに気心が知れてきた二人は、今回プリンセスミカミとミナミベレディーの併せ馬を行う事で、更に距離を縮めていた。そして、自身もあんな感じだったなあと思い出した鈴村騎手は、浅井騎手へと声を掛けたのだった。


「あれ? 鷹騎手や立山騎手は?」


「さっき声を掛けていただきました」


 今回のある意味無茶な騎乗依頼を受けた浅井騎手。その浅井騎手に、所属の違う自分にも声を掛けてくれた鷹騎手や立山騎手などの面倒見の良い先輩達が、声を掛けない訳が無い。


「ああ、お二人は、今レースなんですか。本番前のレースとか、私だと無理だなあ」


 女性騎手は、体力的な面でどうしても男性騎手に後れを取ってしまう。その為、本番前のレースで体力を消耗してしまうと、どうしても本番では鋭さを欠く事になってしまいかねない。


「ですね。私も4レースの3歳未勝利に騎乗させていただいたんですが」


「うん、芝2000mだけど芝の状態確認が出来た? 良かったね」


 篠原厩舎に預託している3歳未勝利馬のオーナーの一人が、わざわざオークス前に開催された芝2000mレースに登録し、浅井騎手に騎乗させてくれたのだ。普通では有り得ない事であり、恐らく篠原調教師の御蔭であろう。


「はい、何とか5着に入れました」


 流石に、ここで1着とはいかなかったが、何とか掲示板に載せる事が出来た。13頭中での5着、しかも11番人気だったことも有り、ある意味ホッとしたのだろう。浅井騎手の表情に笑みが浮かぶ。


「いいなあ、私は今日6着と10着だったからなあ」


 鈴村騎手は5レースは1勝クラス、8レースは2勝クラスのレースの騎乗であったが、どちらも下位人気の馬で残念ながら掲示板にすら載せることは出来なかった。


「いい、手綱はゆったり持つんだよ? あとは、もう馬任せでも良いって気持ちで行こう。走り始めればあっという間だよ」


「はい、手綱はゆったりですね」


「併せ馬以降は左回りも良くなってきているし、ベレディーの前で鞭を使えない中でもしっかり走れてたから」


「あ、あれは驚きました。鞭を持って騎乗してたらミナミベレディーに迫られて」


 鈴村騎手とこの1週間の調教内容を話していると、次第に緊張が解れて行く気がした。特にGⅠ騎乗前のこの緊張をどう緩和するのか、それを同じ女性騎手である鈴村騎手に実地で教えて貰っているのだ。


 浅井騎手憧れのスター騎手、そのトップである鈴村騎手。そんな憧れの人にこうして気にかけて貰えている事が非常に嬉しい。


 そんな幸せな時間も、過ぎるのは早い。


「オークス騎乗の騎手の皆様は、此方にお集まりください」


 係員が騎手を呼ぶ声が聞こえた。そして、再度緊張しはじめる浅井騎手の背中を、鈴村騎手はゆっくりと2回叩く。


「騎手が緊張すると、どうしてもプリンセスミカミも緊張しちゃうから。優しくポンポンだよ」


「あ、はい。優しくですね」


「そう、ヒヨリなんか結構神経質だからね。プリンセスミカミも真面目な馬なんでしょ? 優しくね」


「はい!」


 レースの事には触れず、騎乗する馬の様子に気を配れれば、それで多少は緊張も解れるといいね。


 そんな思いでアドバイスをする鈴村騎手であった。


「行って来ます!」


「うん、がんばって」


 浅井騎手は大きく頷いて、他の騎手達とパドックの方へと移動して行くのだった。


◆◆◆


 篠原調教師は、中京競馬場でモニターを見詰めていた。自厩舎の2勝馬がこの中京競馬場でレースがある為、流石に自厩舎所属の騎手の為だけに東京競馬場へ行くことは出来なかった。それ故に、今此処でオークスを見ている。


「何とか落ち着いているようですね」


 パドックでプリンセスミカミへと騎乗した浅井騎手を見て、まずは一安心をする。何と言ってもまだ32勝しかしていない新人騎手であり、重賞出走すら未経験の騎手だ。それ故に心配の種は尽きない。自身所有の馬であれば、直前まで声を掛けてやる事も出来る。それすらも出来ない事が非常にもどかしかった。


「流石に、オークスまでに重賞を経験させてやる事は無理ですからね」


 所有するオープン馬を、当たり前であるが浅井騎手の為だけに無理させる事など出来ない。何とか3歳未勝利馬を所有するオーナーのご厚意で、芝の感覚を掴ませてやる事が精一杯だった。それすらも、その馬を所有するオーナーからは過保護だなと笑われたくらいだ。


「浅井騎手の様子はどうですか?」


 モニターを見ていると、突然後ろから声を掛けられる。振り返ると、今日のレースで何とか3勝目を挙げてくれた栗東所属の園村騎手が立っていた。


「まだ何ともですね。怪我無く回って来てくれればそれで良しです」


「太田調教師らしからぬ決断でしたね」


 浅井騎手のオークス出走は、栗東トレーニングセンター内でも大きな話題になった。堅実一本鎗の太田調教師が、確かにここ2戦で実績は出してはいるが、浅井騎手にオークス騎乗を依頼するとは誰も考えていなかったのだ。


「迷惑な事です。ただ、無事に走りきれば浅井騎手には良い経験になるでしょう」


 重賞、ましてやGⅠのオークス出走だ。勝てなくとも、以後の重賞出走の際にプレッシャーが緩和される可能性は少なくない。それ程にGⅠ出走という経験は大きいのだ。

 未だにGⅠ勝利どころか未出走の騎手だっている。更には、そのまま引退していく者だっている。それ程にGⅠという物はハードルが高い。


「出来れば、騎乗依頼を此方に欲しかったですね」


「それが出来れば苦労はしませんよ。ああ、今日はありがとう。これでフロントホスもオープン馬になれました。まあ、園村騎手がオークスに行ってたら勝てませんでしたかね?」


 笑いながら告げる園村騎手に、珍しく憮然とした表情で篠原調教師が返事をする。


「いやあ、冗談ですよ。せっかくオープン馬になったんですから、次走も頼みます」


 苦笑を浮かべる園村騎手であるが、当たり前にオープン馬の主戦騎手は手放したくないのだ。


「次走は七夕賞か函館記念でしょうか? 移動が気になる所ですが、さて」


 自身が騎乗するフロントホスの次走が重賞という事で、表に出さないまでも気合の入る園村騎手。そんな二人の前にあるモニター内では、オークス出走の準備が順調に進んでいる。


「ゲート入りが始まりましたね。それで実際はどうなんです?」


「レースになれば御の字でしょう。馬頼みで勝てる程の馬では無いと思いますね」


 実際に出走馬18頭中11番人気という人気が総てを物語っていた。忘れな草賞を勝利しているとはいえ、桜花賞上位馬やフローラステークス勝利馬、スイートピーステークス勝利馬に比べれば明らかに影は薄い。11番ではなくもっと低い人気であっても可笑しくは無いが、今流行りのサクラハキレイ血統という部分と、浅井騎手個人の人気での後押しでしかないだろう。


そんな二人が見つめるモニターの先では、オークスのゲート入りが始まっていた。


◆◆◆


 プリンセスミカミは6番という事で、奇数番号の馬達がゲートへと入るのを待っていた。その間も浅井騎手は自身を落ち着かせる意味もあって、プリンセスミカミへと声を掛け、首をトントンと叩く。


「ミカミ、落ち着いて行こうね。頑張ろうね」


 そう声を掛ける浅井騎手の声は明らかに震えており、浅井騎手の緊張が伝わったプリンセスミカミも時折神経質そうに首を上下に振る。その様子を見て慌てて浅井騎手はプリンセスミカミを宥めようとするのだが、今一つ成功している様子は無い。


「ううう、ごめんね。私が落ち着かないとだよね」


「キュフン」


 必死に深呼吸を行い気持ちを落ち着かせようとするのだが、これもやはり成功しているとは言い辛い。そんな浅井騎手に釣られるように、プリンセスミカミも神経質そうな挙動をする。


「さあ、行くよ」


 枠入りの順番が来たプリンセスミカミを浅井騎手はゲートへと進ませようとする。若干苛立たし気にプリンセスミカミも抵抗するような挙動を見せるが、すぐに素直にゲートへと収まってくれた。


「ミカミは良い子だね。頑張ろうね」


 鈴村騎手に教えて貰った通りに、ゲート内でプリンセスミカミに声を掛け続ける。ただ、手綱を持つ手は明らかに震えていた。


「手綱はゆったり、手綱はゆったり」


 自分に言い聞かせるように、手綱を長めに持ち最後の馬のゲート入りを待つ。その段階で浅井騎手は、気持ちの面ですでにいっぱいいっぱいになっていた。


「最後の馬が入った」


 プリンセスミカミへではなく、浅井騎手自身へと言い聞かせるかのように呟いた。


 声は相変わらず震えているが、そんな浅井騎手の様子を気にするかのように、プリンセスミカミは耳をピコピコさせ続けている。


ガシャン!


 浅井騎手の様子に引き摺られる事無く、プリンセスミカミはゲートが開くと同時に飛び出していく。浅井騎手が呟いた最後の言葉が、緊張で硬くなった為に幸か不幸かプリンセスミカミは出走態勢に入り好スタートを切ったのだった。


「あ!」


 思わず好スタートを切ったプリンセスミカミの鞍上で、気持ちが定まっていなかった浅井騎手は、頭の中が真っ白になってしまう。


ただ、今まで何百回と行ってきた動作経験が自然と手綱を動かし、内へとプリンセスミカミを誘導するのだった。

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