第176話 オークス前の浅井さんと鈴村さん
優駿牝馬、副題でオークスと呼ばれるレースは、東京競馬場芝2400mで争われ3歳牝馬の頂点を決めると言われるレース。ちなみにオークが樫から来ている事も有り、このレースを勝利した牝馬を樫の女王とも呼ぶ。
オークス出走の前週日曜日、阪神競馬場でのレースを終えた浅井騎手は、その日の内に東京まで移動した。そして、東京でそのまま1泊し、朝一番で美浦トレーニングセンターに電車とバスを乗り継いでやって来た。
「はあ、遠いなあ」
厩舎の人達と車で移動すれば楽なのだが、今回は残念ながら上手く予定が合わなかったのだ。その為、自力で移動してきたのだが、思いの外遠く感じたのは精神的な物だろう。
オークスの開催が東京競馬場という事も有り、浅井騎手のたっての願いでプリンセスミカミは早々に美浦トレーニングセンターへと運ばれていた。そして、初の重賞出走という事で不安いっぱいの浅井騎手は、美浦トレーニングセンター所属の鈴村騎手へと電話をし、騎乗のアドバイスを貰えるように頼み込んでいた。
その為、阪神での騎乗を終えて早々に美浦トレーニングセンター入りする事にしたのだった。そして、サクラハキレイ血統という事で、馬見厩舎所属のミナミベレディーと一緒に調教出来る事になったのは、浅井騎手にとっても、プリンセスミカミにとっても僥倖だっただろう。
「馬見厩舎は何処かな」
美浦トレーニングセンター自体は幾度となく来た事がある浅井騎手であるが、馬見厩舎の位置までは把握していなかった。その為、入り口の守衛室で大まかな場所を聞いて移動する。
「そういえば、馬見厩舎に鈴村さんの良い人がいるんだっけ? どんな人だろ」
特に馬見厩舎に所属している訳では無い鈴村騎手が、態々馬見厩舎を指定する。ミナミベレディーへの調教を考えればおかしな事ではないのだろうが、もう一つ深読みする浅井騎手であった。
そんな浅井騎手も、やはり初めての重賞レース、それもオークスへの騎乗という事でレースの事を意識すると体が震えて来る。若しかすると、勝てるかもしれない。そんな思いが頭を過れば過る程に、震えは大きくなる。
「馬の嘶きを聞けば落ち着くわよ? なんてアドバイスされるとは思わなかったなあ」
オークス開催日が近づいて来ると、寝ようとしても如何しても頭に色々な事が過り眠れなくなる。そんな事を鈴村騎手に相談すると、本気か冗談か判らない返答が帰って来た。そして、鈴村騎手お勧めの、よく眠れるミナミベレディーの嘶きの音源が送られてきた時には、本当に吃驚したものだ。
「流石に、あれでは寝れなかったなあ。私をリラックスさせ様としてくれた冗談だったんだろうけど」
一応、試しに寝る時にその音源を流してみたのだが、残念ながら逆に気になって眠れなかった。ただ、そんな事をしている自分に笑えて来て緊張が解れ、その後は音源を消して眠る事が出来たのだ。もっとも、それもオークスが近づいてくるとまた眠れなくなったのだが。
「あ、ここだ」
馬見厩舎の名前を見つけ、その事務所を覗き込む。すると、奥に座っている人と目が合った。
「ああ、浅井騎手ですか。鈴村騎手から聞いていますよ」
そう言って立ち上がり近づいて来たのは、事前に調べていた馬見調教師だった。
「栗東所属の浅井です。この度は無理を言って申し訳ありません」
「いえいえ。太田調教師からも、篠原調教師からもご連絡頂いていますよ。それに、三上氏からも何卒とお電話を頂きましたからね。どうします? 鈴村騎手の所へ向かいますか? それともプリンセスミカミの馬房に向かいますか?」
「あ、まずは鈴村騎手にご挨拶を」
浅井騎手がそう言いうと、馬見調教師は小さく頷いて鈴村騎手のいるミナミベレディーの馬房へと案内する。
「鈴村騎手、浅井騎手を連れて来ましたよ」
浅井騎手がミナミベレディーの馬房へと来ると、鈴村騎手がミナミベレディーにブラシをかけながら何か話しかけているのが見えた。そして、その鈴村騎手に答えるようにミナミベレディーが返事をしている。
「鈴村さん、宜しくお願いします」
鈴村騎手が馬見調教師の言葉に此方へと振り向いた為に、浅井騎手はその視線を受けてお辞儀するのだった。
◆◆◆
浅井騎手とプリンセスミカミが今日美浦トレーニングセンターへとやって来るために、鈴村騎手も早々にミナミベレディーの馬房へとやって来ていた。鈴村騎手としても、まだ騎手デビューして4年目の浅井騎手が、早々にオークスを騎乗する事を心配していた。
初めてGⅠ を出走した時の自分を思い出すと、羨ましいと言う思いなど欠片も沸いてこない。何方かと言えば、同情めいた感情の方が強かった。
「私が浅井さんくらいの頃にぶっつけでオークス出走なんかしたら、阪神2歳優駿の失敗どころじゃなかったと思うんだよね。ベレディーと出走したジュベナイルフィリーズよりも格上だから」
「ブフフフン」(オークスって難しいの?)
鈴村さんにブラシをかけて貰いながら、お話を聞いています。どうやらミカミちゃんと、鈴村さんの知り合いの騎手さんが、今度オークスというレースを走るみたい? ただ、まだ新人さんだから鈴村さん的には心配みたいです。
私の嘶きに、鈴村さんは笑いながらトントンとしてくれます。
「だからって、あの緊張感を教える事は出来ないんだよね。私は、ベレディーが一緒に居たのにあの失敗だからね」
「ブヒヒヒヒン」(失敗って落馬しかけたレース?)
「ベレディーは覚えてる?」
「ブフフフン」(うん、覚えてるよ~)
鈴村さんの言葉に、ちゃんとお返事を返します。あのレースは、鈴村さんが落馬しそうになったから印象深いです。その所為で、今も鈴村さんの緊張具合を確認しますからね。
「ふふふ、ベレディーは本当に覚えていそうだね。出走前には私の事を気にしてくれるから。ベレディー、ありがとうね」
「ブヒヒン」(どういたしまして)
私が再度返事をすると、鈴村さんがクスクスと笑い始めました。
「ベレディー、午後にプリンセスミカミと一緒に走るからね」
「ブルルン」(うん、わかった~)
ミカミちゃんは、ちょっとの間一緒に走っただけでしたね。ただ、フィナーレと仲良くしていたかな? あの後、ヒヨリとも走っているし、私がタンポポチャさんの引退式に行った後は、ヒヨリが面倒を見ていたはず?
「ブフフフン」(フィナーレは一緒に走らないの?)
「ん? ああ、プリンセスミカミ覚えてる? 今年の初めに牧場で一緒に走った子だよ」
「ブルルン」(覚えてるよ? ヒカリお姉ちゃんの子よね?)
「本当に、ミナミベレディーと会話しているみたいです」
鈴村さんとお話しているんですが、相変わらず内容が伝わっていないんです。 フィナーレの事を聞きたいんですけど、フィナーレのフの字も会話に入って来ません。
病み上がりと言いますか、温泉から帰って来たばかりのフィナーレだから、まだ本格的な調教は控えているのかな? 朝の引き運動で、厩務員さんがそんな事を言っていました。
そうすると、フィナーレはオークスに走らないのかな? ミカミちゃんと一緒に走るのなら、調教も一緒で良いですよね? あ、でも、フィナーレの所にはヒヨリも居ましたね。
「ブヒヒヒン」(ヒヨリは元気です?)
「よしよし、綺麗になったね。ベレディー、今日からは坂路調教を再開するからね」
ヒヨリはヒヨリで、例の持久走で頑張って優勝したそうです。ただ、頑張りすぎて、あのヒヨリがコズミで寝たきりっぽい? ただ、そろそろ回復して来ても可笑しくないんですよね。あの子は私と違って体力お化けですから。
「ブルルルン」(坂路って言う事は、プールは終わり?)
思わず尻尾がバサバサしちゃいます。そうですよね、スマートになりましたよね?
思わず自分のお腹を眺めちゃいます。うん、引き締まって来た・・・・・・ような気がします。
「う~~~ん、もうちょっと絞りたいんだけど、後は運動量を増やすしかないか」
「ブヒヒヒン」(プールより走る方が良いの!)
鈴村さんとそんな事を話していると、調教師のおじさんに連れられて知らない女の人が来ました。
「鈴村騎手、浅井騎手が来たよ」
「え? あ、態々ありがとうございます。よし、ベレディー、ちょっと待ってね」
「ブヒン」(は~い)
鈴村さんが馬房から出て行くので、お見送りします。
おじさんと一緒に来た人が、噂の新人騎手さんらしいです。ただ、まだ普段着なので判り辛いですね。私は、馬房の柵から頭を出して、鈴村さんと女の人を見ていました。
そういえば、女性の騎手って鈴村さん以外に初めて見たかも?
ジッと鈴村さん達を見ていると、どうやら午後からの打ち合わせみたいです。所々でミカミちゃんの名前が出ていますね。そして、女性の騎手さんが何度か頭を下げて、その後どっかに行っちゃいました。鈴村さんは、今度は引綱を持って私の所へ戻って来ます。
「よし、午前中はダートで運動しようか」
「ブフフン」(ダートで良いよ)
お砂も本当は嫌いですけど、プールよりは良いのです。実際、何度か溺れそうになったんですよ?
そして、鈴村さんとダートで走って状態を見ます。うん、今ならヒヨリにも簡単に負けないよね。
それくらいには走れている気がします。ただ、やっぱり走り辛いですね。
「うんうん、だいぶん走れてきたね。あ、ベレディー、午後は左回りで走るからね」
「ブヒヒン」(左回り?)
左回りのレースがあるのかな? ただ、午後からという事はミカミちゃんなのかな? そんな事を思っていると、鈴村さんが教えてくれました。
「プリンセスミカミが左回りが苦手なんだって。今度のオークスは左回りだから、少しは慣れて来たみたいだけど、速くなると膨らむらしいの」
「ブルルルン」(膨らむの? そっかあ)
言われてみると牧場で走る時はいつも右回りでしたね。ヒヨリやフィナーレ達とも右回りで駆けっこしてました。
「ベレディーやヒヨリは苦にしないわね」
「ブヒヒヒン」(あんまり気にした事無いよ?)
何となくでレースを走っていますから、そこまで右回り左回りを気にした記憶が無いです。
「ブルルルン」(走り難い時はトトンとするのよ?)
「ん? あ、待ってね」
私が鈴村さんに走り難い時の方法をお話ししたら、鈴村さんが何かゴソゴソし始めました。
「はい、氷砂糖を忘れてたね」
「ブフフン」(氷砂糖だ~)
鈴村さんから貰った氷砂糖を、お口の中で大事に転がします。
「ブラッシングの後にあげるのを忘れてたわ。それ食べたらダートだからね」
コロコロと氷砂糖を楽しんでいる私の頭を、鈴村さんがナデナデしてくれました。
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