第174話 トッコとフィナーレとミカミちゃんと
朝のまだ暗いうちから、私は馬房を出てお散歩の準備です。
「ブフフフフフン」(今日はヒヨリが居ないみたいですね。持久走に向かったのでしょうか?)
此処最近は、朝のお散歩をヒヨリと一緒に行っていました。そんなヒヨリが居ないので、朝早くか、夜の内に何処かへ移動したのかなと思うんです。
もっとも、ヒヨリが居なくても、別に私は暇な訳では無いんですよね。今日は朝からフィナーレと一緒にお散歩です。その後、一度馬房に戻ってご飯を食べて、今度は私の調教が始まりますが、まずは久しぶりにフィナーレとのお散歩です。
「ブヒヒヒン」(フィナーレも久しぶりですね)
「キュフフフン」
フィナーレはフィナーレで、桜花ちゃんと同じ名前のレースで結構無理したそうで、休養していたらしいです。休養と言っても、なんと! 私が前にちょっとだけ行った温泉施設に行ってたらしいのです。
ちょっと羨ましい気持ちもありますが、温泉施設に行かないと駄目なくらいの疲労があったんですよね? そう考えると心配ですね。
「ブヒヒヒン」(疲労は取れましたか? 痛みはないですか?)
「キュフフン」
うん、相変わらず何を言っているのか判りません。それでも、私に頭スリスリしてくるので、私もスリスリしてあげます。
この感じだと、大丈夫かな?
「ブルルルルルン」(温泉はどうでした? まさかお湯に浸かれたとか無いですよね?)
「キュヒヒヒン」
「ブヒヒヒヒン」(かけ流しはありましたか?)
「キュフン」
私の時は、ゆったりお湯に浸かるとか出来なくて、シャワーと足湯が合わさった感じだったのです。でも、若しかするとゆったりお湯に浸かる温泉もあったかもしれませんよね? だから、フィナーレに其処の所を詳しく聞きたいのですが、やっぱり何を言っているのか判らないのです。
それでも、つい聞いてしまいたくなるのですが。
「ブヒヒヒヒヒン」(違和感があったら、ちゃんと知らせるのですよ?)
「キュフフン」
歩いている時に見た感じでは、フィナーレに大きな異常は感じられません。フィナーレの所の厩務員さんのお話を聞いた所では、私と同じように軽い肉離れを起こしたみたいです。
「ブルルルン」(無理は駄目ですよ? 怪我が一番怖いですからね)
「キュヒヒヒン」
フィナーレと、のんびりそんな話をしている間に、どうやら綺麗にして貰えたみたいです。
「いやあ、ベレディーとサクラフィナーレは本当に会話しているみたいだな」
「そうですね。一体どんな会話をしているんでしょうか」
厩務員さん達が私達の会話を聞いて、笑いながら話をしています。でも、そうですね。フィナーレは何と言っているのでしょうか? 私も気になりますが、残念ながら言葉が通じないのですよね。
「しかし、サクラフィナーレは、上手くすればオークスに間に合ったのでは?」
ん? オークスってなんだっけ?
うちの厩務員さんが、フィナーレの厩務員さんに尋ねます。でも、私の記憶にはない言葉ですね。私は走った事あるのかな? ただ、間に合わないって言うので、フィナーレは走らないレースみたいですね。
「うちのテキも悩んだんですがね。ただ桜花賞も勝てましたし、無理をさせる必要は無いという事に。怪我でもされたら、其れこそ世間からの非難が凄い事になりそうですから」
「ベレディーも若い頃は治りが遅かったですから」
「ブルルルン」(まだ若いですよ!)
うちの厩務員さんが聞き捨てならない発言をしました。まだ5歳ですよ? 若いですよ!
そんな私の抗議にも、厩務員さん達は笑っています。
髪の毛ハムハムしちゃいますよ? 禿げますよ? まあそれはともかく、フィナーレの所の厩舎さんは、フィナーレに無理をさせないようにしているみたいですね。
「ブルルルン」(フィナーレ、良かったね。怪我しちゃ駄目よ?)
「キュフフフン」
フィナーレは返事を返してくれますが、洗って貰い終わって自由になった所で、私の首をハムハムし始めました。その為、私もフィナーレをハムハムしてあげます。
そういえば、フィナーレをハムハムしてあげるのも久しぶりなように感じますね。実際の所、何時以来でしょうか?
そんな事を考えていると、グルーミングを始めた私達を眺めていた厩務員さん達が、私達から少し離れた所で会話を始めました。
「そういえば、ミナミベレディーは今日も午前中はプールでしたか?」
「ええ、出来るだけ脚に負担をかけずに体重を絞らないとならないので」
そうなんですよ! 嫌だって言っているのに、此処連日午前中はプールで無理やり泳がされているんです!
「ブヒヒヒン」(プールは嫌!)
脚を必死に動かして、何とか沈まないようにしているんですが、あれってあっぷあっぷして沈みそうで怖いのです。エラ呼吸じゃない生き物は水の中では生きられないんですよ!
「ブルルルルン」(お砂にしよ? お砂で良いよ?)
お砂はお砂で顔にかかったり、脚がズボズボ埋まるので嫌いなんですが、それでもプールよりはマシなんです。お砂は息が出来ないとか無いですからね! 本当ならウッドチップとかが好きです。
「ん? ああ、プールに反応したかな? ベレディーはプールが嫌いだからなぁ」
「キュフフフン」
「おや、フィナーレはプール好きなんですよ。こんな所に違いがあるんですね」
「ブルルルルルン」(フィナーレ、プール好きなの!)
新事実に思いっきり吃驚しちゃいました!
そんな朝の運動も終わって、やっと朝のご飯です。でも相変わらずご飯の量も減らされているんですよ。それ以上に、おやつのリンゴが貰えないのが心理的にきついのです。
「ブフフフフン」(リンゴ食べ放題にならないかなあ)
リンゴ食べ放題、海外から帰って来る直前が最後だったでしょうか? 遥かに遠い昔の事のような気がします。馬房から頭を出して、厩舎入口にあるはずのリンゴの入った箱へと視線を注いじゃいます。
食べないと痛んじゃいますよね? 食べずに腐らせちゃったら勿体ないお化けがでますよ?
物悲しく眺めていても、ご飯は増えないのです。仕方なく飼葉桶のご飯を味わって食べますよ。
乾燥した稲っぽいのとか色々な草があるんですが、この乾燥しきっていない瑞々しい稲みたいなのは割と好きです。ただ、やっぱりリンゴやニンジンの方が好きなんですよね。あと、角砂糖もなんですが、此方も減らされているんです。
「ブヒヒヒヒン」(お腹いっぱいリンゴ食べたいよ~)
それでも、この後はプールみたいですから、食べ過ぎちゃうと沈みそうですよね。そう考えるとお昼ごはんに期待でしょうか? もぐもぐご飯を食べながら、思うのはお昼ご飯の内容です。
「ブルルルン」(リンゴあると良いなあ)
早くお昼にならないかなあ。朝のご飯を食べながら、もうそんな事を思いました。
◆◆◆
浅井騎手は、プリンセスミカミの調教に試行錯誤していた。
鈴村騎手から教えて貰ったように、最後の追い込みでピッチ走法に切替る事が出来るようになってきたプリンセスミカミではある。ただ、ここで思いもしない問題点が発生していた。
「まさかプリンセスミカミが左手前が苦手とはな」
太田調教師は顔を顰めてプリンセスミカミの調教を見ている。
東京競馬場で開催されるオークスは、左回りのコースとなる。その為、オークスへ向けて左回りの練習を始めたプリンセスミカミは、左手前でのコーナー周りがどうしても膨らむ傾向が見られた。
「それでも少しずつ慣れて来たようです。ただ、最後の直線は右手前に切り替えた方が良いですね」
プリンセスミカミを担当する調教助手の言葉に、太田調教師も渋々頷く。東京競馬場の最後の直線を考えれば、そこをピッチ走法で走り切れれば途中の遅れも挽回は出来るはずだ。
「ピッチ走法が維持できるのは300mまでだったな」
「はい、浅井騎手からは、そのように聞いています」
まだ調教という事で、実際のレースで何処までピッチ走法を維持できるかは不明である。ただ、浅井騎手が感じた手応え的には、恐らく300mを過ぎると一気に失速するのではと言う事だった。
「不確定なものに頼るのも何なんだが、それで勝てるならな。ただ切り替えられなかった場合は、サクラヒヨリの大阪杯の二の舞だぞ。切り替えなどしなくても勝てるようにするのが我々の仕事だ」
「はい、プリンセスミカミは真面目な馬ですし、末脚も段々と良くなってきました。スタミナもありますからオークスならワンチャンと思っています」
「そうだな、対抗となるライントレースにとって2400mは長いだろう。長距離が得意そうなサクラフィナーレは出走回避。まあ、それ以外にもウメコブチャや、ラトミノオトなども怖いが、2400mなら期待したい」
「早いレースでスタミナを削れば勝機はあります」
「先行さえ出来れば競馬になるか」
先日の忘れな草賞。プリンセスミカミは、このレース後にもコズミが発生し、オークスに間に合うかが心配であった。その後の回復具合で、どうにかオークスへ間に合いそうだと安堵した直後に、今度は左回りが苦手と言う問題が発覚した。
「膨らんで、他馬と接触でもしようものなら目も当てられんな」
「左回りでのコーナーの走りを見ていると、内に入るのは厳しいですかね」
右回りが苦手、左回りが苦手という馬は普通にいる。勝率が何方かに偏る為にその様に言われるのだが、コーナーを回る時のプリンセスミカミは、実際に外へと膨らむ傾向がある。
コーナーで膨らむとなると、スタート良く飛び出したとしてもコーナーではスピードを加減しなくてはならない。
「最後の坂でピッチ走法になったとして、ゴールまでは持たないか」
「恐らくは」
「そうか。であれば最後の直線までに、どれだけ優位に立てるかだな」
最後の直線を駆け上がって直ぐにゴールであれば問題は無い。しかし、今回のオークスではその坂を駆け上がってからゴールまでが、更に300m程ある。その距離が問題だった。
「サクラヒヨリの様に、坂を駆け上がってからストライド走法に切り替えられればですが」
「あんな曲芸みたいな事を期待してどうする」
太田調教師は、そんな事を言いながらも浅井騎手の奇行とも呼べる行動を黙認している。それは、結果が出ているという事もあるが、騎手が勝つために必死に試行錯誤する事は良いと思っている為だった。
先日の春の天皇賞で、サクラヒヨリが同着ではあるがまさかの勝利を収めた。レースを見ていた太田調教師としては、ミナミベレディーの全妹とはいえサクラヒヨリが勝つとは欠片も思っていなかったのだ。そして、そのレースで太田調教師がその予想外の勝利よりも驚いたのが、サクラヒヨリの変化する走法だった。
「浅井騎手も鈴村騎手に相談しているみたいなんですが、中々に厳しいみたいですね」
「ふん、そんなに簡単に出来たら苦労はせん。ただ、鈴村騎手か」
大阪杯で、ある意味大敗したサクラヒヨリ。その失敗を繰り返すことなく、更に進歩させて春の天皇賞を粘り勝ちさせた手腕は、素直に称賛に値する。
しかも、昨年の鈴村騎手の実績を見るからに、サクラハキレイ産駒以外の乗り替わりに於いても、騎乗する馬の殆どが素直に反応していた。
「ここ数年で一気に成長しましたね」
「うむ。騎乗技術はまだまだ粗があるが、馬との折り合いのつけ方が非常にうまいな」
此処最近、鈴村騎手の勝率が格段に上がっている。ミナミベレディーやサクラヒヨリのみならず、他の馬、特に新馬や未勝利馬において、上手く馬と折り合いをつけていた。
まだまだ追い込みや、馬群での手綱捌き、状況判断などでは未熟さを見せる所もあるが、先行馬や逃げ馬においては、時に目を見張る騎乗を見せる事もあった。
そんな話をしている二人の下に、プリンセスミカミに騎乗した浅井騎手が調教を終えて戻って来る。
「浅井騎手、どうだ」
「左回りにも少しずつ慣れてきています。ただ、どうしても外へ膨らみがちで、レースだと更に膨らむ可能性が高いです。あと、ピッチ走法も最後まで保つかが判りませんが、それ以外は良い感じです」
少し考えながら話す浅井騎手に、太田調教師や調教助手もプリンセスミカミを見ながら考え込む。
「実際に限界まで走らせる事も出来ないからな。あとはプリンセスミカミ次第か」
「真面目に走ってくれる子ですが、まだまだ幼いですからね」
「キュフフフン」
二人の感想に浅井騎手も頷くが、調教が一段落したのを感じ取るプリンセスミカミは、首を上下に振って早くブラッシングをして貰いたそうな挙動をした。
「よしよし、さあ、洗い場に行こうね」
「そうだな、打ち合わせは後でするとしようか」
そんなプリンセスミカミに笑いかけながら、浅井騎手は太田調教師に会釈をして洗い場へと誘導していくのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます