第171話 春の天皇賞とヒヨリ 後編
サクラヒヨリに騎乗し、香織はゲート前で待機している。サクラヒヨリの状態は、前走との比較でマイナス1kgと馬体重も回復して来ていた。
馬体重は非常に重要で、競走馬は体重が増えても減っても走る場合と走らない場合がある。成長増による増加であれば良いが、絞り切れていない場合には当たり前だが走らない事も多い。
そんな中、先週までのサクラヒヨリは馬体がガレていた訳では無いが、マイナス8kgは明らかに減りすぎであった。そこから無駄な肉を付けずにマイナス1kgに持っていけた事は、香織としてはプラスだと思っている。
「うん、ヒヨリも落ち着いているね」
「キュフフン」
大阪杯では明らかに入れ込んだ様子だったのに対し、今日はヒヨリ自身も走る事を楽しみにしている様な余裕が感じられる気がした。ゲート入りを待っている今も、出走前の不安そうな様子を見せる事も無く、ゆったりとしている。
「よし、行くよ」
首を軽くトントンと叩くと、誘導されるままに大人しくゲートへと収まっていく。そんなヒヨリでも、やはりゲートは苦手なようで、いざゲートに入ると不安そうな挙動を見せ始めた。
「ヒヨリ、大丈夫だよ。ヒヨリは良い子だね」
何時もの様に声を掛けながら、ヒヨリを落ち着かせる為に首をトントンと叩いてあげる。
そうこうしているうちに、順調にゲート入りは進んで行く。そして、最後の1頭がゲートへと入る様子を見て、ヒヨリへと声を掛ける。
「ヒヨリ、そろそろだよ」
ヒヨリは、私の声に反応して、何時もの様にスタートの態勢に入った。
ガシャン!
ゲートが開き、それに合わせるかの様にヒヨリが飛び出していく。香織の感覚からすると一呼吸スタートが遅れるが、それでも十分に好スタートを切れた。
春の天皇賞は向こう正面中央からスタートし、外回りコースで緩やかにカーブへと入る。そして、一度スタンド前を通過しての阪神競馬場を1周半走るコースだ。その為、香織はまず最初の3コーナーへ入るまでの直線で先頭に立ち、ペースを掴みたいと思っていた。
「うん、良いスタートだったよ」
ヒヨリにそう声を掛け、手綱を扱いて前へと押しだして行く。しかし、そのスタートでヒヨリ同様に好スタートを切って、内側より先頭へと抜けだして行く馬が見えた。
「え? サウテンサン?」
明らかに鞍上の騎手が手綱を扱いてる。先頭に立つ素振りを見せるのは、昨年の菊花賞馬サウテンサンだった。
菊花賞を勝ち、今年の春の天皇賞では1番人気。何と言っても母の父がセイテンノソラという事も有り、祖父と孫での菊花賞勝利と話題になっていた。
その事もあって、サウテンサンのレース映像は何度も確認しているが、菊花賞以外のどのレースでも先行からの好位差しであり、サウテンサンがハナをとって先行したレースは菊花賞のみ、それも馬番が2番と逃げやすい条件が揃っての展開だった。
「寄せるよ」
サクラヒヨリは7番という事で、内へと寄せながら最初のコーナーへと入っていく。そして、サクラヒヨリは自然とサウテンサンの後ろへと付ける形になった。
「うそ、逃げるの!」
香織が驚いた事に、先頭に立ったサウテンサンは更に後方を突き放すかのように加速し続けている。サウテンサンの後ろへ付けたのは良いが、この後の展開に香織は戸惑う事になった。
どうする? サウテンサンは逃げだよね。でも、このまま競り合って勝てる?
普通の馬が逃げに入ったのとは訳が違う。菊花賞馬であり、かつて先行、逃げ馬であったセイテンノソラの孫。牡馬である事も含め、持久力はサクラヒヨリより上かもしれない。その馬と2頭で競り合ったとして、最後の直線を粘り切れるかは判断がつかなかった。
コーナーへと入り、香織はチラリと後方を確認する。すると、サクラヒヨリのすぐ後ろに、ピッタリとマークする形でオレナラカテルが追走していた。
「しっかりマークされてる?」
オレナラカテルと並んでテルミンの姿もあった。更にその後方にも、離れる事無く連なる様に馬影が見える。この為、油断をすればあっという間に馬群に囲まれる可能性があった。
「春の天皇賞だよ。ペース早くない?」
先頭を走るサウテンサンから1馬身程遅れながら、サクラヒヨリは2番手で4コーナーを抜けて1回目の正面直線へと入る。
香織は、まずはこの最初の直線の坂を、サクラヒヨリがピッチ走法で駆け抜ける事が出来るかに集中する事にした。
正面直線へと入った段階で、先頭を走るサウテンサンとは2馬身ほど差が開いている。この差を、この直線の坂で詰める事が出来るのか、どこで息を入れるのか、香織は必死にこの後のレース展開をイメージする。
正面スタンド前にサウテンサンが差し掛かったところで、スタンドからドッと大きな歓声が立ち登った。その音にサクラヒヨリが反応してしまうのを心配し、香織は慎重に様子を見る。しかし、幸い一見するとご機嫌な様子で走っている。
「うん、ヒヨリ、調子が良さそうだね」
香織が思わずサクラヒヨリに声を掛けると、サクラヒヨリの耳がピクピクと動くのが判った。その仕草につい笑みが零れる。
う~ん、後ろの馬は今の所動く感じは無いかな。
直線である為、後ろを振り返る事無く聞こえて来る音で状況を判断する。後ろを気にしながらも、先頭を走るサウテンサンが直線の坂へと差し掛かった事を確認する。
「ヒヨリ、坂ではピッチ走法だよ」
走るヒヨリの首を軽く2回叩く。すると、最初の坂へと差し掛かったサクラヒヨリは、自然な仕草で走り方をピッチ走法へと切り替えてくれた。
「うんうん、前との間を詰められるかな」
前を走るサウテンサンは、ストライド走法で坂を駆け上がっている。その後方からサクラヒヨリも軽やかな足取りのピッチ走法で、坂を駆け上がる。
そのお陰で、この段階で2馬身まで開いていた間隔が1馬身まで縮まっていく。
「無理に抜くのは難しいかあ」
まだ残りの距離がある為、ここで無理して先頭に立つ必要は無い。それに、サクラヒヨリはミナミベレディーと違い、前方から飛んでくる砂や泥などを気にしない。香織は前を走るサウテンサンを無理して追い抜くことをせず、後方からプレッシャーを掛ける事にした。
そして坂を抜けた所で、香織は急いでサクラヒヨリの首へと手を当てて小刻みにリズムをとる。
「ヒヨリ、ストライド走法だよ。ストライド走法」
春の天皇賞を走るにあたり香織が心配していたのは、サクラヒヨリが器用にストライド走法とピッチ走法を切り替えられるかだった。特に前走の大阪杯ではピッチ走法への切り替えが出来ず、掲示板にすら載る事が出来なかったのだ。
春の天皇賞を勝つ為に、香織はストライド走法とピッチ走法との切替の合図をサクラヒヨリに覚えさせることに挑戦していた。
「よし! ストライド走法に戻った。ヒヨリは賢いね」
坂ではピッチ走法で駆け上がり、坂を過ぎた所で首を軽く小刻みに叩いてサクラヒヨリに合図を送る。すると、サクラヒヨリはその合図に気が付いて、キチンとストライド走法へと切り替えてくれた。
うん、良い感じだ。ベレディー様様だなあ。
実際の所、サクラヒヨリに走法の切替を教えるのには非常に苦労をした。
大阪杯を走った時に香織が感じたのは、ストライド走法のみではGⅠは勝てないという事であった。芝2000mではなくスタミナ勝負になる春の天皇賞では、勿論違った結果になる可能性はあるが、牡馬牝馬混合のレースで優位に立てる程にスタミナがあるとは言い切れない。
昨年の春の天皇賞を走ったミナミベレディーの映像を見せて何とかならないかと思ったのだが、32インチのモニターを別に用意して見やすくしても前と同じように危うくモニターを壊されそうになっただけだった。その後も、試行錯誤を繰り返すが、一度切り替えた走法をまた戻すのは非常に厳しかった。
そんな状況が一変したのは、やはりミナミベレディーと併せ馬をするようになってからだった。
「強く2回叩いたらピッチ走法、軽く小刻みに叩いたらストライド走法だよ。ベレディーもわかった?」
「ブフフフン」(ヒヨリにわかるかなあ)
「キュヒヒヒン」
サクラヒヨリに騎乗しながら、ミナミベレディーの走りを見て覚えさせる。
春の天皇賞直前で、漸くサクラヒヨリは香織の、そしてミナミベレディーの意図を察して、走り方を変えるようになったのだった。
「ブルルルン」(持久走は大変だからね)
「キュフフン」
「ブフフフン」(走り方を変えないと持たないよ)
「キュヒヒヒン」
併せ馬を終わると、ミナミベレディーがせっせとサクラヒヨリに話しかける。そして、サクラヒヨリもきちんと返事を返すのだが、その様子を見ている香織はともかくとして、清水調教助手は幾度と首を傾げた物だった。
そんな事を思い出しながら、香織とサクラヒヨリは1コーナーから2コーナーへと駆け抜ける。その間にカーブを利用して後ろを確認すると、サクラヒヨリの後方を走る馬とは、4馬身から5馬身程差が開いていた。
そして向こう正面へ入った所で、サクラヒヨリに息を入れる。真後ろを走るサクラヒヨリが息を入れた事で、先頭を走るサウテンサンも同じように息を入れるのが判った。
「ヒヨリ、まだ半分を過ぎた所だからね。頑張ろうね」
サクラヒヨリが未だ走ったことの無い距離。その為、実際に最後までスタミナが持つのかは不明。ただ、香織はサクラヒヨリのスタミナを信じ、今はしっかりと息を入れさせる。
その間にも、サクラヒヨリと後方の馬との距離はしっかりと縮まって来る。その事を聞こえて来る蹄の音で感じながら、3コーナー以降のレースをどうするか考える。
サウテンサンを先頭に3コーナー出口へと差し掛かると、後方で動きが変わるのが蹄のリズムで判った。香織はチラリと後方を確認し、予定通り3コーナーから続くゆるやかな下り坂を利用し、すぐに前を走るサウテンサンへと並びかけに行く事を決断する。
「ヒヨリ、行くよ!」
トントンと首を叩きサクラヒヨリに速度をあげさせる。サクラヒヨリは素直にその指示に応え、前を走るサウテンサンへと並びかけて行った。
そして、その動きに気が付いたサウテンサンも同様にスパートする。 前2頭の動きに釣られたかの様に、後方の馬達も一斉に鞭が入った。
1回目のスパートをかけたサクラヒヨリは、4コーナー出口で半馬身程サウテンサンに並びかけるも抜くことは出来ず、そのまま2頭は膨らみながら直線へと入る。
そして、そこでサウテンサンに更に鞭が入る。
そのサウテンサンに対し、香織は手綱を扱いて直線を加速する。
「勝負は坂、勝負は坂」
菊花賞馬であるサウテンサンは、見るからにステイヤーであった。
それゆえに直線の加速は其処迄鋭くは無い。しかし、牡馬のスタミナは、看過する事は出来ないだけのパワーがある。ただ、皐月賞、ダービーでの走りを見る限り、直線勝負ではサクラヒヨリに分があると思っていた。
「んんん」
間もなく残り200m最後の坂に入った所で、最内から1頭の馬が駆け上がって来る。明らかにサウテンサンを追い抜こうかという勢いに、サウテンサンの鞍上の騎手が風車の様に鞭を連打する。そして、その勢いで再度サウテンサンが前へと伸びを見せる。
「ヒヨリ、ピッチ走法!」
香織もサクラヒヨリの首をポンポンと2回強く叩き、手綱を握りしめる。ここでもサクラヒヨリは素直に反応し、ピッチ走法に切替、坂を駆け上がり始めた。
「がんばって! あと少しだよ!」
残り200m、サクラヒヨリの頭の上げ下げを必死に補助しながら、香織はサクラヒヨリを鼓舞し続ける。
「ベレディーに続くよ! ベレディーに褒めてもらうよ!」
香織の声で、サクラヒヨリが再度ハミを噛み締めるのが手応えから判る。
「がんばれ! ベレディーに負けるな!」
サクラヒヨリが坂を駆け上がり、そのままゴールへと駆け込んでいく。
内の2頭との差は殆ど無い。どの馬の騎手も腕に力を入れ、必死に馬を前へと駆り立てて行く。
そして、サクラヒヨリはピッチ走法のまま、3頭共に差がつかないまま、ゴールラインを駆け抜けるのだった。
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