第168話 浅井騎手と太田厩舎

 栗東トレーニングセンターの篠原厩舎では、朝から篠原調教師、太田調教師、馬主の三上、浅井騎手が一堂に会して、プリンセスミカミの次走の騎乗について打ち合わせが行われていた。


「次走は、オークスへ出走させる事にしました」


 打合せの開始早々、太田調教師が篠原調教師、浅井騎手にプリンセスミカミの次走のレースを告げる。そして、篠原調教師と浅井騎手はその言葉に静かに大きく頷く。


「忘れな草賞を勝ちました。この時期であれば次走はオークスしかないと、私も思っていました」


 篠原調教師は、そう告げながら太田調教師を見る。


「いきなりオークスではなく、程よいGⅢ辺りがあれば、そちらも選択肢に上がったのですがね」


 篠原調教師に返事を返しながら、太田調教師は浅井騎手に顔を向け話を続ける。


 この段階で、浅井騎手は、そして篠原調教師は乗り替わりになると考えていた。そして、その説明と謝罪の訪問だと思ったのだった。


「三上さんとも、幾度か打ち合わせはしたんですが、そこで問題となって来たのがプリンセスミカミの騎乗を誰にお願いするかという所でした。ここ2戦で結果を出したのは、確かに浅井騎手ですが、次走は何と言ってもオークスです。まだ重賞出走すら未経験の浅井騎手にお願いするのはどうなのかと」


「ええ、ただ結果を出した事もですが、プリンセスミカミとの相性も良さそうです。そこで、私達は率直に言って決断に迷いが出たんですよ」


 太田調教師の言葉を止めると、直ぐに補足する様に三上が話を続ける。そして、そんな二人の話を、篠原調教師は怪訝そうな様子で、浅井騎手は真剣な眼差しで聞いている。


「ありがとうございます。まだまだ未熟な浅井の騎乗を、其処迄評価して頂けるとは思っておりませんでした。ただ、そうすると? 次走は浅井にと言う事でしょうか?」


 今日、太田調教師が来るという事で、プリンセスミカミの次走は刑部騎手に戻る事の説明に来るのだと思っていたし、太田調教師の説明からもそう読み取った。前走の忘れな草賞出走後に、次走での騎乗依頼がまだ来ていない。篠原調教師としても、次走はオークスだと考えていた為に、乗り替わりは当然の事と考えていた。


「重賞を走った事が無い騎手に、突然GⅠ騎乗をお願いするのは、率直に言ってどうかと思っております。ただ、プリンセスミカミがオークスを勝つ為の最適は何かと考えた時、浅井騎手の騎乗を消す事が厳しかったんです」


 太田調教師が、ここで思いを言葉にする。太田調教師としては、プリンセスミカミの最適解を求めての判断。ただ、此処でネックとなるのがGⅠどころか重賞すら騎乗した事の無い騎手がGⅠで感じるプレッシャーなのだ。


「確かに悩み処ですね。私でも悩むかもしれません。太田調教師、三上さん、うちの浅井の実力を評価頂き、ありがとうございます」


「ありがとうございます」


 篠原調教師が深々と頭を下げる。そして、それに合わせて浅井騎手も同じように頭を下げた。


「私としても、GⅠ、ましてやオークスです。依頼するにも悩みましてね。騎乗するにも生半可なプレッシャーではないでしょう。今では名騎手と呼ばれる者の中にも、GⅠ初騎乗ではプレッシャーで失敗した者は多い。そこで潰れてしまう者もいる。浅井騎手の良く知る鈴村騎手も、阪神ジュベナイルフィリーズの失敗を未だに夢で見るそうだ」


「はい、番組で話されているのを聞いています」


 太田調教師の話に、浅井騎手は大きく頷く。


「三上さんが言う様に、浅井騎手が騎乗して以降のプリンセスミカミは良い走りをしている。ただ、GⅠでの騎乗を任せても良いか、そこで迷っていると言うのが本音です。ましてや他の厩舎に所属されている騎手さんだ」


 そこで、再度太田調教師は篠原調教師を見た。


「私がこんな事を言ってはいけないのでしょうが、何もオークスで優勝して欲しいとは言いません。もっとも、優勝してくれるに越したことはありませんが」


 そう言って、ここで笑いをとろうとしたのであろう三上だが、その発言に対し、誰も表情を緩める者はいない。その為、ちょっと慌てて咳ばらいをした後に話を続ける。


「以前、北川牧場にお伺いした時に奥さんが言っていました。ミナミベレディーが活躍しているが、もし騎手が鈴村騎手でなかったなら、あそこ迄活躍はしなかっただろうと。

 そして、私も鈴村騎手とミナミベレディーの間には、確かにそう思わせる何かがある気がします。ここ最近の2戦を見て、浅井騎手とプリンセスミカミの間にも、そういう絆が出来かけているように思いました。ただ、決断するのは浅井騎手だと思い、今日お邪魔させて頂いたのです」


「私らは決断が出来なかったんだ」


 そう告げる三上と太田調教師の眼差しの先には、迷いを見せる浅井騎手と考え込む篠原調教師の姿がある。


「お話は良く判りました。他厩舎所属の騎手の事で、ここまで考えていただいて感謝しかありません。我儘を言わせて頂ければ、明日迄回答を待っていただけますでしょうか?」


 篠原調教師は、浅井騎手をチラリと見た後に太田調教師達にお願いする。


「はい、構いません。良く考えていただければと思います」


「ええ、篠原調教師、浅井騎手、しっかりと話し合ってください」


 そう告げると、太田調教師と三上は篠原厩舎を後にするのだった。


 その夜、太田調教師は自宅の自室でミナミベレディーが初めて桜花賞を勝利したレースを見ていた。サクラフィナーレが桜花賞を勝利したレースではなく、敢えて今日はミナミベレディーのレースにしたのは、三上が言う騎手と馬との絆という言葉の為であった。


「そうか、このレースで初めてミナミベレディーは走り方を変えたのだったか」


 最後の直線、このままでは恐らくタンポポチャに差されて終わるだろう。そんなレース展開にあって、ミナミベレディーは明らかに走り方を変えて最後まで粘り切った。


「・・・・・・レースを見ても絆は判らんか」


 確かにミナミベレディーは最後まで粘った。


 恐らく勝つ為であろう。ストライド走法からピッチ走法へと走り方を変化させてまで勝利に執着し、鞍上の鈴村騎手も必死にミナミベレディーの補助をしている。


 そして、それらの結果として桜花賞勝利を勝ち取った。


「だからと言って、馬と騎手の絆の力とは言えんよな」


 騎手と馬に相性がある事は太田調教師も理解していた。

 しかし、明らかに馬が嫌っている、そんな騎手が騎乗してGⅠを勝利している例も多数ある。相性が有る事を否定はしないし、プリンセスミカミが浅井騎手が騎乗すると安定しているように感じたのは確かだ。ただ、それが馬の成長の御蔭なのか、本当に騎手との相性なのかは何とも言えないと思っている。


 その後、プリンセスミカミのアルメリア賞、忘れな草賞のレースを見る。


「・・・・・・」


 昨年までの走りとは、明らかに違うプリンセスミカミの姿がそこにあった。その姿は、先程まで見ていたミナミベレディーを彷彿とさせる、まさにそんな走りである。


「判らねえなあ」


 3勝目がほど遠く感じた昨年末、馬主の三上よりミナミベレディー、サクラフィナーレが放牧されている牧場で、プリンセスミカミを放牧したいとの話が来た。本来、栗東所属の太田調教師であれば選択することの無い休養先ではあったが、情報を集めた限りにおいて移動距離以外の問題は無さそうと思われた。


 同じ牧場の産駒だからと言って、ミナミベレディーやサクラフィナーレと馴染めるか、放牧でストレスを感じないか。そこを心配した太田調教師自身も同行したのだったが。


「ミナミベレディーか」


 桜花賞を含め、いまやGⅠ7勝をあげた日本を代表する牝馬だ。

 何と言っても、最後の粘りには定評がある。しかし、桜花賞、エリザベス女王杯を見る限りにおいては、展開と運に恵まれたと言って良いだろう。そして、4歳で年度代表馬となり、5歳でドバイシーマクラシック優勝だ。


「俺らしくねえなあ。すべては明日かよ」


 浅井騎手に話を持って行ったからには、浅井騎手が騎乗すると言えばオークスの鞍上は浅井騎手となる。選択権を浅井騎手へと振ったからには、これは決定事項だった。


「刑部騎手でも不安はあるからな」


 確かに浅井騎手と比較すれば、刑部騎手は経験も実績もある。ただ、それも一流騎手と呼ばれる面々と比べれば一段も二段も落ちるのだ。


「オークス・・・・・・勝ちてぇなあ」


 結局の所、全てはそこに行きつくのだった。


◆◆◆


 篠原厩舎では、篠原調教師と浅井騎手が向かい合って話をしている。


 主題は、勿論プリンセスミカミの騎乗をどうするかであった。


「あの、私なんかが騎乗しても良いのでしょうか?」


 未だに重賞すら未騎乗であり、通算勝利数は33勝。まだまだ殻の付いたヒヨコのような立場であり、浅井騎手自体もその事を理解している。


「良い悪いで言えば、良いとしか言い様は無いですね。プリンセスミカミ陣営からの正式な騎乗依頼です。騎乗したいと言えば問題なく騎乗出来ます」


 そう言葉を返す篠原調教師ではあるが、その表情は普段のような朗らかさは鳴りを潜めていた。


「テキは反対なんでしょうか?」


 篠原調教師の普段の様子を知っているだけに、浅井騎手は篠原調教師の腹の内を探る様に恐る恐る質問をする。


「そうですねえ。本音を言えば、厄介な騎乗依頼を持ってきやがってって所でしょうか?」


 普段の篠原調教師では決して使わないような言葉遣いに、浅井騎手は目を見張って見返してしまう。そんな鳩が豆鉄砲を貰ったような表情に、小さく笑みを浮かべながら篠原調教師は浅井騎手に言葉を返した。


「次走のオークス騎乗を浅井騎手、貴方にお願いしますというお願いであれば良かったんですよ。あくまでも決断したのはプリンセスミカミ陣営、騎乗ミスをしたとしても責任は浅井騎手に依頼したプリンセスミカミ陣営の責任。全てでは無いですが、責任をそう転化する事も出来ます」


「えっと、はい。あまり考えたくないんですが。あの・・・・・・」


「ええ、浅井騎手の将来を気にしてと言うのは間違いでは無いでしょう。ただ、それを考えて判断するのは私なんですよ。太田調教師ではない、ましてや三上さんでもありませんね」


 篠原調教師は怒っているのだろう。篠原厩舎に所属してからすでに4年、その中で篠原調教師が怒鳴り声をあげた姿は一度たりとも見た事が無い。調教師によっては、気性の荒い調教師もいる。良く言えば昔気質、悪く言えば頑固な調教師だっている。それこそ千差万別である。


 そんな調教師達の中において、篠原調教師は穏やかな人ではあるが、一度怒り出すと静かに怒る。そして、実は篠原厩舎では、そんなお怒りモードに入った篠原調教師は実に怖い存在だった。

 なぜなら、全てを理詰めで滔々と、篠原調教師が納得するまで原因と対策を洗い出されるのだ。


 厩舎で働く者達にとって、これが実に厄介だった。


「ああ、申し訳ありませんね。浅井騎手に文句を言っても仕方が無い事です。そうですね、良い機会です。失敗覚悟でオークス騎乗してみましょう。忘れな草賞を勝ったとはいえ、恐らく下位人気でしょう。勝ち負けを其処迄気にせずGⅠに騎乗出来る機会など滅多にありません」


「え? あ、あの、でもGⅠですよ」


「うちの所属馬でしたら、まだまだ乗せませんよ。お預かりしている馬主さんに失礼ですから。ただ、他の厩舎の馬ですから、しっかり失敗してきなさい」


 微笑を浮かべながらも目が一切笑っていない。そんな篠原調教師を、浅井騎手はこの時程怖いと思った事は無いと、親しい友人に語ったとか語らないとか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る