春の天皇賞とオークス
第167話 トッコとヒヨリと北川牧場と
やっと馬見厩舎に戻って来ました。長かったですね!
「ブルルルン」(やっと帰って来れた~)
馬運車を降りて、やっと美浦トレーニングセンターに帰ってきた事を実感した時には、思わず涙が出そうになりました。自分以外のお馬さんの姿とかが見えた。それだけで嬉しくなっちゃいましたよ。
「ブフフフン」(あ、お久しぶりです)
「ヒヒヒヒン」
お隣の馬房にいるお馬さんにも思わず挨拶をします。
あまり交流はしてこなかったのですが、鈴村さんが来ている時なんかには、興味深そうにお隣から覗いてたりしてたんです。
別に仲が悪いとかはないんですよ? ただ、会話する内容が特にないので交流が少ないだけです。
「ブルルルン」(落ち着きます~)
そんな風にまったりモードで馬房に納まるのですが、厩舎の他の馬房からも連鎖する様に、お馬さんの嘶きが聞こえ始めました。
何か皆から、お帰りなさいって言われているみたいで嬉しいですね~。馬語が判らないので、何って言われているのか判りませんけど。
「ブヒヒヒヒン」(帰って来たよ~)
皆さんに合わせるように私も嘶いたら、何か余計に騒がしくなっちゃいました。
「何事だ!」
そのせいで、慌てた様子で厩務員さん達が駆けつけて来ちゃいましたけど。
「う~ん、どの馬房も異常は無さそうですが」
「何だったんだ?」
ご挨拶が終わったからなのか、私も皆さんも平常運転ですね。厩務員さん達は何が起こったのか判らずに右往左往していますね。
「ブフフフン」(私が悪いのかな?)
「ヒヒヒヒン」
私の呟きに、お隣さんがお返事してくれました。でも、何を言っているかやっぱり判りませんね。たぶんそんな事無いよと言ってくれたんだと、そう思っちゃいましょう。
その後の厩務員さん達の会話から、今日はもう遅いので明日から調教が始まるそうです。隔離されていた時と違って、思いっきり走れると思うと楽しみです。でもね、飼葉桶に入っているご飯の量が、ちょっと少なく無いですか?
カランカラン
あっという間に食べ終わって、飼葉桶を鳴らしてお代わりを所望します。
「ん? ベレディー、お腹が空いているのか? すまんなあ、テキから飼葉を減らす様に指示されてんだ」
厩務員さんは、そう言って私と目を合わさないようにして早足で立ち去っちゃいます。
「ブヒヒヒヒヒヒン」(なんと! このままだと、お腹が空いて夜中に起きちゃいますよ?)
帰って来たばかりで、秘蔵のリンゴだって無いのです。それなのに予告なしにダイエットとは! お腹がグーグー鳴りますよ? 寝れませんよ?
あまりのショックに、私は呆然と桶を咥えたままで硬直しちゃいました。
「ブフフフン」(もっと味わって食べるんだったよ~)
先程とは別の意味で泣きそうになりながら、ゴロンと不貞寝する事にしました。
何度も言いますけど、寝藁は食べませんからね!
そして翌日、厩務員さんに連れられて、まずは朝のお散歩です。お腹が空いているのですが、悲しいかな朝のご飯はお散歩の後なんです。
今まで同様の引綱を付けられてのお散歩ですが、久しぶりの美浦トレーニングセンターでのお散歩です。歩き出せば、検疫で隔離されていた時と違って色んなお馬さんとすれ違います。
「ブルルン」(楽しいね)
仲が良いお馬さんが居たという訳でもないんです。ただ、お馬さんがいるというだけ、それだけで何か安心できます。一人じゃ無いと言うのが、これ程までに安心できるとは思わなかったですね。ある意味経験にはなりましたけど、もう海外は行きたくないです。
「ベレディーはご機嫌だな」
厩務員さんが、私の首をポンポンしてくれます。
「キュヒヒヒン!」
そして、お散歩をしていると大きな嘶きが聞こえて来ました。
「ブルルルルン」(この声はヒヨリかな?)
嘶きが聞こえた方向を見ると、ヒヨリが厩務員さん二人を引きずるようにして此方へとやって来ます。
「ヒヨリ、判ってるから! ちゃんと行くから!」
「ヒヨリ、落ち着いて!」
何か頭をブンブンして、このままだとヒヨリか厩務員さんが怪我しそうですよね。という事で、私からもヒヨリの方に近寄っていく事にしました。
「ブルルルルルン」(ヒヨリ、落ち着いて、怪我しちゃうよ)
「キュフフフン」
漸く私の傍に来たヒヨリは、引綱を邪魔そうにしながらも私に頭をスリスリします。
「キュフフン、キュフフン」
「ブフフフフフン」(寂しかったね~、私も寂しかったよ~)
私達が久しぶりの再会に喜んでいると、厩務員さん達が何か話をしていました。
「やはり、こうなりましたね」
「ヒヨリの気が済むまで待つと、凄い時間が掛かりそうだな」
「ベレディーを先に歩かせましょうか?」
うん、意図するところは判るんですが、今は私も動けませんよ? ヒヨリの勢いがすごいです。ある程度落ち着いてからじゃ無いと、これで動いたらカプッってされますよ。
「ブヒヒヒン」(まだ駄目よ?)
「キュヒヒン」
ほら、多分ヒヨリも、まだ駄目って言ってますよ? 今動かそうとしたらカプッっとされますよ?
案の定ヒヨリを動かそうとしたら、ヒヨリがイヤイヤと首を振ります。
そして、私を先に動かそうとすると、厩務員さんを威嚇しました。
「ブフフフン」(ヒヨリ、落ち着いてね)
「キュフン」
ヒヨリを落ち着かせる為に、私は首の部分をハムハムしてあげます。
「あ~~~、グルーミング始めちゃったな」
「ヒヨリは気が高ぶっているみたいだから、ミナミベレディーはヒヨリを落ち着けようとしているみたいだな」
しばらくすると、漸くヒヨリが落ち着いて来ました。
「ブルルルン」(この後、駆けっこしようね)
「キュヒヒヒン」
私は、ヒヨリを先導する形で歩きはじめます。すると、ヒヨリもすぐに私に並んで歩き始めました。
「ああ、ベレディーが動きましたね。ちょっと急ぎましょうか、この後に併せ馬を予定していますから」
「ええ。ただ、うちのベレディーが何処まで走れるのか。ちょっと重いですから」
「ブヒヒヒン」(重く無いですよ!)
「キュフフン」
ほら、ヒヨリだって変わらないよって言ってますよ!
◆◆◆
馬見厩舎にミナミベレディーが戻り調教が始まった頃、北川牧場では出産ラッシュが訪れていた。
「どう? サクラハヒカリはそろそろ産まれそう?」
「馬房内でウロウロし始めましたから、そろそろかと」
北川牧場の面々は、事務所のモニターで馬の様子を確認している。
「何かあれば、獣医さんを呼ばないとならんからな」
毎年のように経験している出産ではあるが、無事に生まれるまでは安心する事が出来ない。
すでに、ミユキガンバレは無事に牝馬の幼駒を出産している。無事に生まれてくれる。それ自体が喜ばしい事ではあるが、やはり北川牧場では牝馬の方が歓迎される。
「プリンセスミカミがオープン馬になってくれたからな。今年はサクラハヒカリ産駒も注目を集めそうだ」
「だよね! プリンセスミカミはオークスを走るんでしょ? 万が一があるよね!」
今日も牧場の手伝いに呼ばれている桜花は、サクラフィナーレのみならず、プリンセスミカミもGⅠに出走するとの連絡に大喜びしていた。
「そうねえ。プリンセスミカミには頑張って欲しいわね。GⅠはともかく、何処かのGⅢは勝って欲しいわ」
サクラハキレイ産駒の繁殖牝馬が生んだ仔馬は、いまだに重賞勝利をした馬はいない。それ故に、恵美子としては、どこか重賞を勝って欲しいとの思いは強かった。
「トッコと同じ走り方をする様になったみたいだし、GⅢなら余裕で勝ってくれそうだよね。でも、今度のオークスは誰が騎乗するんだろ?」
馬主である三上からは、次走がオークスになったとの連絡は貰っている。ただ、その電話を受けたのは峰尾であり、鞍上が誰になったのかを聞きそびれていた。
「どうかしら? やっぱり刑部騎手かしら?」
「え~~~、相性が良くなさそうだよ? せっかくだから立川騎手とかにすればいいのに」
「貴方は相変わらずねえ」
「でも、浅井騎手は悔しいよね。ここ2戦せっかく頑張ったのに」
「この世界ではよくある事だから、でも三上さんは浅井騎手にしたそうだったわ」
「え! でも、やっぱり浅井騎手は厳しくない?」
そういう面ではドライな判断をする桜花である。そんな二人の会話に関わる事無く、峰尾や他の社員はモニターでサクラハヒカリの様子を注視していた。
「お、始まったぞ」
峰尾の言葉に、恵美子も、桜花も、息を呑んで画面へと視線を向ける。
その後、サクラハヒカリは1頭の仔馬を無事に出産する。
そして、仔馬が立ち上がり母馬から授乳を受け始めるのを確認して、桜花達は足早に馬房へと向かう。
「やった! 牝馬だよ!」
「無事産まれて良かったな」
サクラハヒカリの馬房では、生まれたばかりの仔馬が元気よく母乳を飲んでいる所だった。
峰尾や桜花達は、母馬を刺激しないように静かに見守る。
「ヒカリは、そこまで神経質じゃないから大丈夫だと思うが」
「そうね。でも、注意するに越したことは無いわ」
小声で会話をしながらも、仔馬が無事に生まれた事で皆が笑顔を浮かべている。そんな中、相変わらず恵美子だけがちょっと考え込んでいた。
「お母さん?」
「ん? 無事に生まれて良かったわ。あとはヒダマリガンバレとトチワカバだけね。あ、そういえばキタノオジョウサマとモコモコを十勝川さんが購入したそうよ」
「え? モコモコも?」
地方競馬で頑張っているキタノオジョウサマはともかく、モコモコはすでに12歳、しかも中央でデビューし3歳の10月までに1勝もできず引退したのだ。
ただ、幸いにして気性も穏やかであり、乗馬として引き取ってもらう事が出来た。ある意味、幸運な馬と言っても良いのかもしれない。
「ええ、サクラハキレイ産駒という事で、十勝川さんが繁殖牝馬として購入したそうね。トッコ達の御蔭なんでしょうけど、産駒達が走ってくれるか不安だわ」
「今年の産駒達も、まだまだ判らないからな。ただ、この仔は立ち上がるのも早かったし、期待できるぞ」
峰尾の言葉に皆が顔を見合わせて笑う。実際には、立ち上がる早さで走るかどうかは判らない。それでも、少しでも良い要素を探したくなるものだった。
「う~~ん。あ、そういえば先日ね、学校でサクラハキレイの事を良血って言われた。そんな馬を持ってて凄いねって。え? 何言ってるの? って吃驚した」
最近マスメディアの報道では、サクラハキレイ産駒の活躍が大々的に取り上げられている。その為、今まであまり競馬に興味のなかった同級生などは、サクラハキレイを良血馬と勘違いしている人達が増えて来たのだ。
「あら、それは凄いわね」
「まあ、3年連続で桜花賞を勝利した馬を産んだんだからな。そんな馬は、今までいなかったから、そう言われても可笑しくはないのかもな。改めて考えると、キレイは重賞馬を6頭も産んでくれた凄い馬だ。凄い馬なんだが、血統が良血と言われると、違うのだがなあ」
「今後の産駒しだいよね。この仔達が走ってくれると良いわね」
必死に母馬のお乳を吸う仔馬を見ながら、北川一家は仔馬の未来が明るい事を祈るのだった。
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