第166話 馬見厩舎と武藤厩舎
武藤厩舎と太田厩舎が、それぞれ所有馬の次走に奔走する中、馬見厩舎では、また違った悩みが発生していた。
「検疫も終わるが、これも海外遠征の落とし穴だなあ」
「そうですね。検疫で隔離される事は判っていましたが」
馬見調教師と蠣崎調教助手の視線の先には、検疫で隔離されていたミナミベレディーが昼間から馬房で爆睡していた。
「馬ってこんなに寝るんですね」
「いや、普通は一日3時間くらいしか寝ない」
二人の常識を覆すミナミベレディー。もっとも、二人が問題にしているのは昼間から爆睡しているからでは無く、その体形にあった。
「思いっきり太りましたね」
「調教量が圧倒的に少なすぎたからな」
検疫中に行える調教は限られる。また、他の馬への感染を憂慮し、行ける場所も限定されていた。その為、1頭での軽い調教に終始していたミナミベレディーは、馬見調教師達の想定以上に丸々としてしまっていた。
「検疫期間的にはギリギリ天皇賞春も行けるが、やはり回避しておいて良かったな」
「この状態だと走れませんよ」
そんな二人の会話が聞こえたのか、ミナミベレディーが頭を上げて二人を見る。
「ブフフフン」(わ~~い、検疫終わったの?)
検疫期間中には、消毒などの手間がある為ミナミベレディーの世話は専属厩務員が行っていた。馬見調教師と蠣崎調教助手は、それこそ3週間近くミナミベレディーには会えていなかったのだ。
ミナミベレディーは、その事を厩務員達の会話から理解していた。その為、馬見調教師と蠣崎調教助手の姿がある事から、検疫期間が終了した事を理解したのだった。
「ベレディー、久しぶりだな。疲れもとれたようで良かったな」
「ブルルルン」(早くお家へ帰ろ?)
馬見調教師達を確認したミナミベレディーは、起き上がって馬房から顔を出してきた。そんな風に甘えて来るミナミベレディーに対し、馬見調教師は優しく鼻先を撫でる。ただ、視線はその胴回りに注がれているのだが、撫でられて目を閉じているミナミベレディーは気が付いていなかった。
「珍しいですね、ベレディーは確かに人懐っこいですが、テキには此処まで甘えて来た事は無かったですよね」
「そうだな。此れだけ長い間、一頭で隔離された事は無かったからな。寂しかったのかもしれんな」
「ブフフン」(寂しかったの~)
自身の掌に鼻先を押し付けてくるミナミベレディーに、馬見調教師は思わず微笑を浮かべる。日頃から馬見調教師自身がミナミベレディーに直接関わる事は少なく、鈴村騎手や蠣崎調教助手、専属厩務員に比べ、今一つ懐かれていない自覚があった。
その為、珍しく自分に擦り寄って来るミナミベレディーに、馬見調教師の表情には思わず笑みが浮かぶ。
そんな小さな幸せに浸っている馬見調教師に、蠣崎調教助手が声を掛けた。
「宝塚記念までには、何とか絞らないと駄目ですね。トモの張りも落ちていますし、運動量と食事量、体調管理をしながら仕上げないとですから、是は大変ですよ」
「そうだな。下手に減量するだけでは更に体力も落ちてしまう。ただ、是だけ蓄えていたら、多少は大丈夫な気もするがな」
馬見調教師は、そう答えながらベレディーの胴回りを改めて見る。
「ブヒヒン」(ダイエットは嫌ですよ!)
今まで甘えていたミナミベレディーが突然一啼きした後に、掌を返した様に馬房の中へと戻って行ってしまった。
「・・・・・・え?」
絶句している馬見調教師に、蠣崎が苦笑を浮かべて声を掛ける。
「まあ、ベレディーに減量やダイエットは禁句ですから」
「馬だぞ?」
「まあ、ベレディーですから」
そう返事を返す蠣崎だが、馬見調教師はミナミベレディーと自身の掌を何度も見返しながら、中々ショックから立ち直れなかったのだった。
そんな馬見厩舎の面々も、すぐに気を取り直して引綱を持ってミナミベレディーを馬房から引き出す。そして、軽く引き運動をさせながらミナミベレディーの状態を確認していく。
「歩行等に異常はありませんね」
「ブヒヒヒン」(太ってないよ、たぶん)
馬見調教師達の視線を意識してか、ミナミベレディーは軽やかな歩みを再現しようとしているのだろう。ただ、残念ながら今一つ成功しているとは言いがたいが。
「何か、歩き方が変になっているな」
「そうですね、やたら上下に跳ねますね」
「ブヒヒヒン」(違うの! 軽やかなの!)
馬見調教師達が何かを言えば、ミナミベレディーが返事を返す。中々に賑やかな引き運動になった。
「どこか故障している感じではないし、喜んでいるようですから大丈夫でしょう」
「まあ、喜んでいると飛び跳ねるからなあ。ほら、落ち着いて歩くぞ」
そう言って、馬場の外周を2周ほど回って様子を見る。
「すまんが、もう少しベレディーを運動させておいてくれ。馬運車も、そろそろ来るだろうから、私は事務所で手続きをしてくる」
そう言って馬見調教師は事務所へと向かう。
蠣崎調教助手は、引綱を引きミナミベレディーを運動させながら、今後の調教方法を思案する。
「なあベレディー、もうちっと節制しないと引退したらあっという間にズンドンズンになるぞ?」
「ブヒヒヒン」(そんな事無いです!)
蠣崎調教助手を鼻先でつつきながら、思わず自分の胴回りを見る。
「ブルルルルルン」(お、お姉さま方よりはマシよね?)
そもそも、引退している繁殖牝馬と比較する事が間違っている気はするのだが、それを指摘してくれる人は誰もいなかった。
◆◆◆
ミナミベレディー戻る!
この一報は、瞬く間に武藤厩舎に齎された。と言うのは大袈裟すぎるが、武藤厩舎ではミナミベレディーが戻ったら連絡を貰えるようにお願いしていたのだった。
「ミナミベレディーが戻ったか」
「はい。先程、馬見厩舎から連絡がありました。明日からさっそく調教に入るようですが、連絡をくれた深津君が言うには、馬体を絞るのに結構時間が掛かりそうだと笑っていましたよ」
調教助手の言葉に大きく頷く武藤調教師だ。サクラフィナーレの桜花賞勝利に沸き立つ武藤厩舎であったが、その裏では大阪杯で大敗したサクラヒヨリが、その後に大きく体調を崩してしまった。次走が春の天皇賞と定めていた為、武藤厩舎が一丸となって世話をし、ここ最近になって漸く調子を上げて来た所だった。
「飼葉の量も回復してきたのですが、まだ前走からマイナス8kgです」
調教を行っている故に、絞り切ったと言えなくもない。サクラヒヨリ自体は、体重減による影響は感じられず、特に調教を嫌がる素振りは無い。しかし、武藤調教師は調教を受けているサクラヒヨリ自体に余裕が感じられないような気がしていた。
「今の状態のまま天皇賞は走らせたくないな」
何といってもGⅠ2勝馬だ。更に重賞勝利数で言えば5勝。血統的にも更に重賞勝利が見込め、その後繁殖に回ったとしたら産駒にだって期待が出来る。
そんな大切な馬を不安が残る状態で出走させて、万が一の事が有ったとしたら責任云々よりも武藤調教師自身が自分が許せなくなるだろう。
「馬が此処までレースを引きずるとは思わなかったな」
「それもありますが、やはりミナミベレディーと会えていないと言うのも大きいかと。ミナミベレディーが引退したらどうなるのかと不安になるぐらいの依存度ですよ」
大阪杯の敗因の一つは、明らかにミナミベレディーと会えていない期間が長かったからだと思われた。最後の直線で、なぜピッチ走法に変わらなかったのかはさておき、サクラヒヨリのメンタル面への影響は、明らかに大きかった。
それ故に武藤厩舎としては、今後は親離れならぬミナミベレディー離れを少しずつでも行わなければという結論に達していた。
このまま、親離れの様にミナミベレディーから引き離す事も考えたんだがなあ。
約一か月近くミナミベレディーから離れていたサクラヒヨリは、ここ最近は漸くミナミベレディーを探すような仕草はしなくなってきた。また、武藤厩舎でも敢えてミナミベレディーの音源などの使用を取りやめ、ミナミベレディー離れを促進しようとした。
「その結果が大幅な体重減か」
ただ、武藤調教師としては体重減以上に心配しているのは、サクラヒヨリのメンタル面であった。
「坂路ではピッチ走法になるんだよな?」
「はい、調教は今まで通りです。あと、先日から引き運動ではサクラフィナーレと一緒に行っています」
「うん、で、どうだ?」
サクラフィナーレも漸く引き運動が出来るようになった為に、桜花賞前には行わなかったサクラヒヨリとの引き運動を行ってみた。
そして、幸いにも桜花賞前にはサクラヒヨリに怯えるような素振りを見せたサクラフィナーレは、嫌がる素振りを見せず無事に2頭での引き運動をする事が出来た。
「以前の様にお互いにグルーミングを行っていますし、そういう意味ではサクラヒヨリも落ち着いたのではとは思いますが」
「ただなあ。どうもサクラヒヨリに余裕が感じられないんだ。今までも気性のきつい所はあったが、そういう感じとも違う」
長年調教師としてやってきた勘としか言いようがない。今朝見たサクラヒヨリは、馬体的に決してガレているような様子はない。見る人によっては馬体も絞れており状態は良いと判断するかもしれない。
「ミナミベレディーと一緒の調教をお願いしますか?」
「天皇賞を走らせるとしたら、時間的に見てもギリギリの所だよな」
馬にレースを勝たせる為に最善の方法を模索する。その為に今できる最善の方法は、ミナミベレディーと調教を行うという選択になるだろう。
ただ、それが本当に最善なのか、そこに迷いが発生していた。
「鈴村騎手は一昨日調教に騎乗してくれていたな」
「はい。ただ鈴村騎手と我々では全然反応が違います」
「そうなんだよな」
武藤調教師は、しばらく考え込んだ後、結局は馬見厩舎へミナミベレディーと一緒に調教を行わせてもらいたい旨を伝えに行く。
「何が正解かわからんが、急ぎ過ぎない事か。サクラヒヨリも少しずつ大人になって来た。将来の為にも、まずは天皇賞だ」
そう呟きながらも、未だ悩む武藤調教師だった。
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