第158話 忘れな草賞前のプリンセスミカミと桜花賞前のサクラフィナーレ

 武藤厩舎がサクラフィナーレの仕上げに苦労しているのとは対照的に、太田厩舎ではプリンセスミカミの忘れな草賞出走目前の調教で、しっかりとした手応えを感じていた。


「良い感じだな。プリンセスミカミも漸くレースを覚えて来たのか、今週レースがある事を理解しているようだ」


 浅井騎手を背に追い切りを行っているプリンセスミカミの様子を見て、太田調教師の顔に思わず笑みが浮かぶ。


「3歳になって仕上がって来たと言うには、まだまだ線が細いですが。それでもプリンセスミカミは、真面目な子ですから頑張ってますよ」


 レースが今週末という事で、今週は軽めの調教に終始している。その為、坂路の回数を減らしているのだが、プリンセスミカミは調教が終わると物足りなそうな様子を見せる事がある。


「もう少し早くこの状態まで来ていればな。あと何処かで1勝出来ていれば、桜花賞へ出走も出来ていただろうに」


 今年の桜花賞では、出走申請を行った馬は26頭だった。その為、中々に出走に必要な獲得賞金は高めとなり、もしプリンセスミカミが申請していても出走は駄目だったであろう。


 実際の所、太田調教師としても手応えは感じられるが、それで忘れな草賞を獲れると決まっている訳では無い。それであっても今のプリンセスミカミであれば、重賞はともかくオープン戦であれば確実に賞金を積み上げてくれそうだった。


「浅井騎手との相性も良さそうですね」


「そうだな。これは良い意味で期待を裏切られたな。まだまだ騎乗技術的に拙い所は見られるが、プリンセスミカミが素直に指示に従っているのは大きい」


 騎乗する馬と騎手との相性が悪いと、騎手の指示に反発して馬が従わない事もある。更にはレースで余計な体力を消耗したり、走る気を無くすなど弊害も多い。

 その為、一流騎手は騎乗する馬と意志疎通が欠かせず、馬に自身の騎乗を納得させるといった技術も必要になる。


「浅井騎手だと、まだまだ馬に舐められることも多いからな」


 実際にプリンセスミカミに浅井騎手が騎乗する事となり、太田調教師は普段から浅井騎手の騎乗を確認する様になった。そして、その中で特に古馬と呼ばれる馬に騎乗した際に、浅井騎手の指示に馬の反応が遅れるのを幾度か目にしている。


「まあ、2歳馬や3歳馬が素直に従うかと言えば、従わないんだがな」


 若い馬は若い馬でレースを理解していなかったり、気合が乗りすぎて掛かったりと未熟故に様々な問題行動を起こす事も多い。


 そんな新馬を上手く慣らしていく騎手も勿論いるが、そこにはやはり経験がものを言う。まだ経験の浅い浅井騎手が、問題無くプリンセスミカミを乗りこなしている事に、太田調教師は素直に驚きを感じるのだった。


◆◆◆


 浅井騎手がプリンセスミカミに騎乗している時には、笑顔が零れる時が多い。


 浅井騎手が普段騎乗する馬達に比べ、プリンセスミカミは素直に浅井騎手の指示に従ってくれる為に非常に乗りやすい。この為、その手応えに思わず笑顔が零れ、騎乗自体が楽しくなって来る。


 そして、そんな浅井騎手の様子は、勿論プリンセスミカミにも伝わっている。それ故に、浅井騎手に対してプリンセスミカミは、より懐いて素直に従ってくれるのだ。


「うんうん、良い感じ。これなら今週末も何とかなりそうだね」


 追い切りを終えて並足で息を整えているプリンセスミカミの首を、トントンと優しく叩き落ち着かせていく。そして、浅井騎手は頻繁にプリンセスミカミへ声を掛ける。


 これも、鈴村騎手に教わった事であり、鈴村騎手は実際に騎乗中も自分がこうしたいと思った事を、馬に聞かせながら騎乗していると言っていた。


「馬が本当に理解しているはずはないんだけど、話しかける事で馬との絆が深くなるって。でも、話しかけると耳が動いているから聞いているよね? ねえ、本当に理解してたりする?」


「ブフフフン」


 自分の問いかけに返事を返してくるプリンセスミカミに、浅井騎手は小さく笑い声を上げてプリンセスミカミを撫でる。


 鈴村騎手に教えて貰った事は、だいたい効果があったから。本当に為になるよね。それに、あの録音されていた嘶きの御蔭で、他の馬も不思議と乗りやすくなるし。


 浅井騎手は鈴村騎手から貰ったミナミベレディーの嘶きを、自分が騎乗する馬に乗る際にこっそりと聞かせていた。プリンセスミカミが嘶きを聞く事で、落ち着く様な感じがした為である。そして、まだ落ち着きのない新馬や未勝利馬にも聞かせてみた所、不思議と落ち着いたレースが出来、更に結果も上々だったのだ。


「それでも勝ててないんだけどね」


 そうは言いながらも、8番人気で3着、12番人気で5着と人気よりも上位に付ける事が出来た為に、内心はとても満足していた。


「さて、そうしたらピッチ走法の練習をしに行こうか」


 プリンセスミカミは坂路では器用に走り方を変える。これは、ミナミベレディー、サクラヒヨリ、そしてサクラフィナーレの走りを勉強している浅井騎手にとっては、よく見知った走りだった。


 ただ、問題はあくまでも坂にかかると自分で走りを変えるのだが、坂が終わるとストライド走法に戻ってしまう。浅井騎手の現在の課題は、このピッチ走法を何とか最後の直線に活かせる方法を考える事だった。


「先週はサクラヒヨリがまさかの掲示板外だったからなあ」


 大阪杯のレースを録画で何度も繰り返し見ていた浅井騎手は、幾度か鈴村騎手がサクラヒヨリに走り方を切り替えるよう指示を出していたのには気が付いていた。


「最後のあの走りが無いと、流石に重賞は厳しいよね。だからプリミカも一緒に頑張ろうね」


「ブヒヒヒヒン」


 返事の嘶きを聞いた浅井騎手からは、またもや笑顔が零れるのだった。


◆◆◆


 そして、忘れな草賞の前日、桜花賞へと出走するサクラフィナーレが一日早く栗東トレーニングセンターへやって来た。そして、昨年末の放牧後に親しくなったプリンセスミカミを調教で一緒に走らせる事となる。


「プレッシャーが凄いでしょう」


「ええ、何とか桜花賞へ出走が出来たのでホッとしました。勝ち負け以前に出走枠から外れたとなったらと、ずっと胃が痛かったですね」


 太田調教師と武藤調教師が、それぞれの馬の様子を確認しながら雑談を交わす。


「ほう、プリンセスミカミは良い感じですな。これはうちのフィナーレもうかうかしていられませんなあ」


 武藤調教師が思わずそう言葉にする程に、以前はやや細めであったプリンセスミカミの馬体が大きくなっていた。


「以前はどうしても線が細い感じがしましたが、ここ最近は飼葉の喰いも良く、段々と成長して来ているのを実感していますよ。それにプリンセスミカミの特徴は、何と言っても調教を嫌がりませんから。もっともこれはサクラハキレイ産駒に総じて通じる話ですがな」


 太田調教師が笑顔で答えるほどにプリンセスミカミの調子は良さそうだった。


 武藤調教師が、かつて預かっていたサクラハキレイも真面目に走る馬だった。ただ、どうしても後少しという所で勝ちきれない馬でもあったが。


「あのサクラハキレイの産駒が、まさか此処まで活躍するとは思いませんでしたよ。もっとも、その後が大事ですから私もプリンセスミカミには注目させて貰っています」


 サクラハキレイ産駒が幾ら重賞を取ろうとも、更にその後に続く様な実績が無ければそこで終わってしまう。サクラハキレイを預託されていた武藤調教師としては、ぜひプリンセスミカミには何処か重賞を獲って欲しいと思っていた。


 まあ、サクラフィナーレと同じレースとなれば負けられんがな。


 その肝心のサクラフィナーレも、当初の不安など無かったかのようにプリンセスミカミと元気よく併せ馬を行っていた。


 先行するサクラフィナーレに対し、プリンセスミカミが後方から差すと言ったパターンを幾度か行う。ここで、負けん気を見せ始めたサクラフィナーレが、プリンセスミカミに抜かれない様に速度を上げるのが面白い。


「サクラフィナーレは放牧時にもプリンセスミカミの姉気取りだったと聞きますから、ここは調教でも負けられないという所でしょうかな?」


「プリンセスミカミは、逆に何としてでも抜いてやろうと言ってそうな感じですね。本番前で疲れさせては拙いですから、そろそろ終わらせましょうか」


 そして、二人の指示で戻って来た2頭は、体を洗って貰った後にお互いのグルーミングを始めた。


「このグルーミングですが、これもキレイ産駒の特徴ですかな?」


「さて、ただ何となくミナミベレディーの影響のような気もしますが」


 ともかく、今週末のレースにおいて、2頭共に何とか勝ち負けは出来そうな様子ではあった。


◆◆◆


「ブフフフフン」(リンゴがもう少し多くても良いと思うの)


 無事にドバイから帰国したミナミベレディーは、現在検疫の為に競馬学校の国際厩舎へと隔離されていた。そして、コズミも発生していた為に日々の運動は軽い引き運動に終始している。


 その為、日本に帰国してから又もや食事制限が始まっていた。


「よしよし、コズミも改善してきたみたいだな。これなら調教も始められる。来週からは着地検査に入るから馬場で運動できるぞ」


「ブルルルルン」(着地検査ってなに?)


「ベレディーは落ち着いているから助かるなあ」


 何か良く判らない事を言うので尋ねるのですが、答えが返ってこないので困りますね。


カランコロン


「はあ、ベレディー。運動してないのにそんなに食べたら太るぞ?」


「ブフフフン」(運動するから大丈夫~)


 ウルウル眼で厩務員さんにご飯をおねだりします。そうしたら、厩務員さんが4つに切ったリンゴを持って来てくれました。


「ブヒヒヒン」(わ~い、リンゴだ~)


 私はシャリシャリと貰ったリンゴを食べながら思います。


 この厩務員さんならいける!


 私の面倒を見てくれる厩務員さんは3人いるんですが、この厩務員さんは、おねだりするとリンゴをくれるんですよね。他の人はくれませんけど。

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