第157話 武藤厩舎の大阪杯後と桜花賞前

 武藤厩舎では、大阪杯を走り終えて馬房へと戻って来たサクラヒヨリの状態を、獣医師も交えて確認していた。


「う~ん、これと言って問題はないね。レース後でコズミは出ているようだが、そこまで重い物では無い。骨折なども無いし、すぐに引き運動も出来るね」


「そうですか。一安心しました」


「ミナミベレディーもそうだけど、仕上がりはともかく丈夫な馬だよ」


「あちらは特に、厳しいレースをしても大きな怪我とは無縁ですからね」


 獣医師の診断を受け、武藤調教師は安堵すると共に、今回のレースの敗因が身体的な部分で無い事に今後の難しさを感じていた。そして、獣医師を厩舎の外へと見送った後、事務所に戻った武藤調教師は大阪杯のレース映像を確認する。


 レース後に鈴村騎手から聞き取った話では、サクラヒヨリの強みでもあるミナミベレディー直伝のピッチ走法への切り替えが今回行えなかったとの事だ。


「最後まで頑張って走ってくれていたそうだが」


 サクラヒヨリの強みは、ストライド走法によるスタミナを温存した走りと、最後の直線で追い込み馬達に引けを取らないピッチ走法による末脚だった。しかし、今回の大阪杯では最後の直線で失速しての7着という結果に終わってしまった。


「見る限りでは、何か原因があったという感じではないな」


 映像では鈴村騎手が最後の直線で、幾度もサクラヒヨリの首筋を叩く様子が見て取れた。それによってサクラヒヨリはスピードを上げはするが、一貫して走り方を変える様子はない。


 その後、鈴村騎手はサクラヒヨリの頭の上げ下げの補助に全力を注ぎ、少しでも着順を上げようとするが、追い込んで来たトカチマジック他の差し馬、追い込み馬達に抜かれ、最後は馬群一塊になってのゴールとなった。


「馬場の状況も良馬場だったしな。となると、馬自身の問題としか考えられないが」


 そもそもサクラヒヨリの状態は、決して良くなかった。それでも、出走できない程に悪いかと言うと、レースで勝ち負け出来る所までは回復していたと思う。

 サクラハキレイが厩舎に来てくれたことで、メンタル面で明らかに回復に向かっていた。それ故に、武藤調教師としては勝ち負けは厳しいにしても、掲示板迄は行くだろうと思っていたのだが、まさか掲示板にも載らないとは思ってもみなかった。


「テキ、またレースを見ていますか」


「ん? ああ、流石に今回のレースはショックだった」


 それこそ、2歳の頃に戻ったかのようなレースだった。そして、改めて今までの走りの特異性を再認識する。


「なあ、大阪杯前の調教でも、坂路ではピッチ走法に切り替えていたよな」


「ええ、そこはいつも通りでした。もしそこで何か異常が感じられたならご報告していますよ」


「となるとレースでの問題か。何度も見ているのだが、残念ながら原因らしいものは見当たらないのだが」


 唯一思い当たると言えば、やはりミナミベレディー不在によるメンタル面なのだが。それで走り方が変わるなど有り得るのだろうか? ここ最近は自然と坂になれば走りを変えていたのだ。


「あの走りでは、牝馬限定GⅢクラスなら勝てそうですが、それ以外だと厳しそうですね」


 調教助手が思わずと言った感じで漏らした言葉、その言葉を聞いた武藤調教師は思わず頷こうとして咄嗟に首を傾げる。


「・・・・・・なあ、そこら辺に原因がありそうな気がしないか?」


「え? どこらへんですか?」


 武藤調教師と調教助手は、思わず顔を見合わせたまま黙り込むのだった。


◆◆◆


 長内騎手はサクラフィナーレの最終調整に入っていた。


 サクラハキレイ産駒という事も有り、ミナミベレディー、サクラヒヨリの全妹という点においても、サクラフィナーレの馬体は500kg弱と雄大な体躯になってきている。ただ、やはり血統が同じ故に、芝1600mで争われる桜花賞は中々に厳しいレースを強いられる事を覚悟している。


「坂路でも良い感じに切り替えが出来ているな。調子も悪くない。何とか掲示板迄は行けそうだが、出来れば勝ちたいな」


 昨年、サクラヒヨリが桜花賞を勝利した時、長内騎手はもし自分であれば勝てただろうかと自問自答していた。


 今でこそ判るが、サクラフィナーレは非常に難しい馬だった。姉2頭と比較しても、何方かと言えば調教では手を抜くタイプであり、また非常に気分屋でもある。


 それ故に、実際に騎乗しての調教においても、良い時と悪い時の落差が激しい。


「何とかレースにはなりそうなんだが」


 今日の調教を終え装鞍所へとサクラフィナーレを連れて来た長内騎手は、鞍を外した後にサクラフィナーレを洗う為に水場へと向かう。


「キュフフン」


 一日の調教を終えた事を理解しているサクラフィナーレは、体を洗って貰いながら終始ご機嫌な様子だった。


「長内騎手、どうだ。勝ち負けまで行けそうか」


 武藤調教師が、サクラフィナーレの様子を気にして装鞍所まで足を運んできた。そして、そんな武藤調教師に対し長内騎手は厳しそうな表情を見せる。


「どうでしょうか? 掲示板迄はと思うんですが、勝ち負けまでとなると厳しいかもしれません」


「ふむ、やはりまだ早いか?」


 馬体的には大きくなってきているサクラフィナーレだが、まだまだ成長期であり未成熟な部分が多い。


「勿論そこもあるのですが、何と言いますか馬自身が幼いです。調教にも集中せず遊んだり、手を抜こうとするところがあります」


「成程、以前であればサクラヒヨリがそこをカバーするのだが、ここ最近は併せ馬もしていなかったな」


 気が立っているサクラヒヨリを前にすると、サクラフィナーレが明らかに怯えた様子を見せる。この為、大阪杯前から2頭同時の調教を控えていた。


 代わりに武藤厩舎所属のオープン馬と併せ馬を行ってはいたのだが、ミナミベレディーやサクラヒヨリと併せ馬をしていた時程には追い込まれた様子はない。


「鈴村騎手からサクラフィナーレ用の嘶きも貰っているのだが、ヒヨリほどには効果が無いからな」


「いえ、そもそも他の馬の嘶きに効果を求めるのも、どうかと思いますが」


 武藤調教師の呟きに、長内騎手は聞こえない様に小さく呟く。武藤調教師はその呟きに気が付かず、置かれていたブラシを手にサクラフィナーレをブラッシングしていく。


「参ったな。ここに来て躓くとは予想していなかったぞ」


「あの、サクラヒヨリに何か問題があったのですか?」


 先日の大阪杯は、長内騎手も勿論観戦していた。そして、アメリカンジョッキークラブカップまでとは明らかに違うサクラヒヨリの様子に故障を心配していた。


「いや、怪我や故障は確認されなかった。ただなあ、なぜ何時もの様に最後の直線で伸びなかったのか、その原因が判らん」


 敗因はだけは判っている。ピッチ走法へと切り替えなかったが故に、直線で伸びなかったのだろう。問題は、なぜピッチ走法に変えなかったのかの原因が判らない事だ。


「サクラフィナーレは、坂になればピッチ走法に切り替えるよな?」


「ええ、そこはもう姉達に仕込まれていますから」


 実際には有り得ないような話ではある。それ故に思わず苦笑してしまう長内騎手だが、武藤調教師はサクラフィナーレはまだ走り方を変えると聞いて少し安心する。


「であれば最後の直線、伸びは期待できるか」


「恐らくは。ただ、サクラフィナーレは粘りが今ひとつなので、其処が気になります。何と言っても鞭が使えませんから、どうしても最後の攻めが弱くなります」


 実際の所、手鞭では馬の根性頼りな面が強い。馬に走る気が無くなった際に手綱を扱いても、幾ら手鞭をしても効果は無いと思われた。


 幸いな事にミナミベレディーもサクラヒヨリも負けん気が強いのか、今までは最後の粘りを心配する事は無かった。その2頭に比べサクラフィナーレとなると、残念ながらそこまでの粘りや勝負根性などは感じられない。


「そうなると相手次第なんだろうが、ライントレースがいるからな」


「そうですね。芝1600mとなると勝ち筋が厳しいです」


 先日のチューリップ賞を勝ったライントレースは、少なくとも余裕をもって勝てるような馬ではない。サクラフィナーレが限界いっぱいまで走って、漸く勝てるかどうかだと思われるのだ。その為には、今以上の何かが欲しい所だが、その最後の1手が思いつかない。


「サクラフィナーレが限界まで走った所は見た事ありませんよね?」


「いや、放牧時にサクラヒヨリとミナミベレディーに追われている時は、良くコズミを起こしていた」


「えっと、レースでは?」


「・・・・・・あそこまでの疲労は無いな」


 その時の武藤調教師の表情は、それこそチベットスナギツネの様だと長内騎手は思ったのだった。

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