第155話 サクラヒヨリと大阪杯

 4月、気温も漸く20度を超える暖かい日が出始めた週末、阪神競馬場では既に熱気が溢れていた。


 阪神競馬場の芝2000mで争われる大阪杯は、春における芝2000mのGⅠとして、そして春の天皇賞への優先出走権と共に、春の天皇賞、宝塚記念と3レースを同一年で勝てば、更に追加で賞金が贈られる事で人気を博していた。


 今年は昨年の大阪杯優勝馬トカチマジック、一昨年の秋の天皇賞を制したヒガシノルーン、昨年の皐月賞馬ミチノクノタビ、ダービー馬オレナラカテルなど、昨年の牝馬2冠馬サクラヒヨリ以外にも錚々たる馬達が出走する。


『春の温かな陽気に誘われて、桜花賞まで日にちはありますが、既に桜が満開を迎えております阪神競馬場。本日は古馬GⅠ大阪杯が開催されます。昨年はダービー馬トカチマジックが見事な差し切り勝ちを収めたこのレース、GⅠへと格上げされてまだ歴史は浅いですが、春の芝2000mとして近年活況を見せ始めております。


 それを象徴するかのように今年は出走馬18頭、出走登録時には29頭と中々に狭き門を潜り抜け・・・・・・』


 テレビで大阪杯の解説が始まる中、桜花は春休みにも関わらず、帰国後は大学の学部で飼育している家畜の世話などで、とても阪神競馬場へ駆けつけることは出来なかったのだ。


「う~、ヒヨリは大丈夫かなあ。だいぶん気が立っているって言ってたけど」


 北川牧場から態々サクラハキレイを貸し出す必要がある程にサクラヒヨリのメンタルが悪化しているとの話で、桜花は気になって競馬サークルにあるテレビで大阪杯を観戦していた。


「有力馬が目白押しだからな。やっぱり1番人気はトカチマジックかあ。2番人気がミチノクノタビで、サクラヒヨリはAJCCを勝っているのに4番人気かあ」


 競馬サークルの代表である3年生の村松が、オッズを見ながら悩んでいる。桜花からサクラヒヨリの様子を聞いているト村松は、結局トカチマジックを軸に手堅く流す事にした。そして、そこで絡める馬の選択に悩んでいる。


「桜花ちゃんは、またサクラヒヨリの単勝?」


「うん、応援馬券だからね」


 一緒に来ている未来の言葉に桜花は答えるが、それでも今回は1000円しか賭けていないのは、純粋に桜花の懐事情故である。


「ドバイシーマクラシックで儲けたんじゃないのか?」


「ドバイへ行くのでバタバタして、こっちで馬券買い忘れたんです。あんなに早く販売が始まっていたのも知らなくって」


 日本でのレース感覚でいた桜花は、現地のドバイに着くまで、馬券の事は頭の片隅にも残っていなかった。そもそも、現地で買えば良いかと思っていたのだが、まさかドバイでは賭け事が禁止されていて勝馬投票券がそもそも販売されていないとは思っても居なかったのだ。


 そんな話をしていると、テレビではパドックに入った馬達が一頭一頭と映し出され、追い切りの状態などの情報が話される。


「うわ! 思いっきり入れ込んでる?」


 普段はあまり気合が乗った様子が見られないサクラヒヨリであるが、今日は周囲にいる馬達を気にしているのか、頻りに首を振っているのが判る。


「騎手が必死に宥めてるなあ」


「珍しいですね」


 生産牧場が桜花の家という事で、競馬サークルの面々もサクラヒヨリの事は注目している。その為、普段のパドックの様子もしっかりと覚えていた。


「勝ち負けは厳しそう?」


「どうかなあ? 鈴村さん次第だと思うけど」


 未来の質問に、桜花は顔を顰めて答えるのだった。


◆◆◆


「ヒヨリ、大丈夫だよ。落ち着いて」


 鈴村騎手は、サクラヒヨリの首をトントンと叩いて何とか宥めようとしていた。


 美浦トレーニングセンターを出て、栗東トレーニングセンターへと連れて来られ、母馬のサクラハキレイと離された事でまたサクラヒヨリは神経質になっていた。


「キュヒヒヒン」


「うんうん、怖いね。でも大丈夫だよ。落ち着いてね。ヒヨリは良い子だね」


 鈴村騎手は、ミナミベレディーが帰国すると早々に、検疫の為に隔離されている競馬学校へと訪問していた。

 そこで、サクラヒヨリの為に新たな嘶きの音源を作成する。そして昨日からその音源を使用し、サクラヒヨリの集中力を高めようとしていた・・・・・・のだが。


「はあ。まさかベレディーの新しい音源を聞かせたら、すっごくやる気に満ちちゃって。ベレディーは何て言ったんだろう?」


 レースへの向けて、集中力が維持できない様子のサクラヒヨリを気にした鈴村騎手は、ミナミベレディーの所へ訪れた際にサクラヒヨリがやる気になるような嘶きを頼んだ。


「ベレディー。ヒヨリが今週レースなんだけど、頑張って走るような嘶きをお願い。ベレディーに会えなくて拗ねちゃってるの」


「ブフフフフン」(ヒヨリは寂しがり屋ですからねぇ)


「何時もの様に録音するからね」


「ブルン」(は~い)


 鈴村騎手の指示で、何通りかの嘶きを録音した。そして、美浦トレーニングセンターへと戻るとすぐにサクラヒヨリの馬房へと訪れた鈴村騎手は、録音して来た嘶きをサクラヒヨリへと聞かせたのだ。


『ブヒヒヒヒン』(頑張るんですよ~、もうすぐ帰りますから)


「キュフフフン」


『ブルルルルン』(今週のレースでも、無理しちゃ駄目ですよ~)


「キュヒヒヒヒンン」


 ミナミベレディーの嘶きに合わせて、サクラヒヨリが返事を返す。その様子を見ながら、鈴村騎手はこれで何とかなってくれればと願うのだった。


 そして、パドックから本場場入場を経て、各馬のゲート入りが始まる。


 サクラヒヨリはこのレースで6番、奇数馬に続きサクラヒヨリがゲートへと収まるが、ここでもサクラヒヨリは今ひとつ落ち着きがない。


「ヒヨリ、大丈夫だよ。ヒヨリは良い子だね」


 鈴村騎手はサクラヒヨリに声を掛けながら、各馬のゲート入りを待つ。


 しかし、最後の馬がゲート入りを嫌って中々ゲートへと入らない。その待ち時間の間にも、ミナミベレディーと違いゲートが得意とまでは言えないサクラヒヨリは、頻りに地面を掻く様な仕草を見せた。


「大丈夫だよ。ヒヨリ、もうすぐだからね」


 そう言ってサクラヒヨリを宥めながら、漸く最後の馬がゲートへと入るのが見えた。


「ヒヨリ、スタートだよ」


 声色を変えてサクラヒヨリにゲートを意識させる。


ガシャン!


 大きな音を立ててゲートが開く。


 しかし、サクラヒヨリはタイミングが合わず、スタートが遅れてしまう。


「うん、大丈夫だよ!」


 まだ大丈夫、大きく出遅れたと言うほどではない。焦る必要は無い。


 鈴村騎手は今の状況を冷静に判断し、サクラヒヨリの位置取りに集中する。


 その中で、好スタートを切ったファニーファニーがハナを切って進んで行く。同じく好スタートを切った12番のキタノフブキが、サクラヒヨリの前を過る様に内に入って来た。


 前を行く2頭から、やや後方最内に1番ブラックスパロウが着け、そのやや後ろに、並びかけるようにサクラヒヨリが位置取る。


「何とか内に寄せれたね」


 スタート直後が坂の為に、スピードが乗り切らない馬がいる。そのお陰で、なんとか4番手の位置へとサクラヒヨリを導くことが出来た。前2頭とは2馬身程離れた状態ではあるが、位置取りとしてはそれ程悪くない。

 ただ、後方にはトカチマジックを含め、有力な追い込み馬達が控えているから油断は出来ない。


「仕掛け処を間違えると厳しいかな」


 前2頭の動きを頭に入れながら、鈴村騎手とサクラヒヨリは最初のカーブへと入っていった。


 1コーナー、2コーナーと特に大きな動きも無く向こう正面へと入ると、この段階でサクラヒヨリと先頭を走る2頭との差は4馬身程に離れていた。


 2頭は当初よりハナの獲りあいをしている。この為に、レース自体のペースも若干ハイペースとなっている。


 しかし、先頭から2馬身程後方を走るブラックスパロウは、前の争いを気にする事無く平均ペースでタイムを刻む。そんな前3頭を見ながら、鈴村騎手もサクラヒヨリに息を入れさせた。


「ヒヨリ、まだ大丈夫だからね」


 今日のレースでは、スタート直後よりサクラヒヨリが行きたがる素振りを見せていた。


 しかし、前2頭は明らかにペースが速く、並びかけると最後まで脚が持つとは思えなかった。その為、鈴村騎手はサクラヒヨリを宥めながらも、スパートするタイミングを4コーナー直前と見定めていた。


 そんな思惑の鈴村騎手に対し、早くも3コーナー手前で各馬に動きが出る。


 中団に位置取りしていたヒガシノルーンが、早くも前へと進んでくる。そして、それに合わせてオーガブラザーや、他の馬達も位置取りを上げて来た。


「んんん、よし、前に出るよ」


 後方から並びかけて来る馬達を意識しながら、3コーナーから4コーナーへと差し掛かったところで鈴村騎手はサクラヒヨリの首を叩き、手綱を軽く扱く。

 それを待っていたかの様に、サクラヒヨリが前へと押し出していった。


 先頭を走るファニーファニーとキタノフブキの2頭に、直線へと入ると同時に鞭が入る。そして、その後方を走るブラックスパロウは、前2頭の更に内側から、ジワジワと前へと迫っていく。


 そんな中、鈴村騎手は速度を維持したまま、サクラヒヨリを直線へ入る所で若干外へと振り、ここで再度手鞭が入って一気に前を追い抜こうと速度を上げる。


 しかし、前3頭へ並びかけるように速度を上げるサクラヒヨリの脚が、最後の坂で勢いを失う。


「え? ヒヨリ! ピッチ走法だよ!」


 鈴村騎手の2度目の手鞭によって、今までのサクラヒヨリであればスムーズに坂の手前でピッチ走法へと切り替える。そのサクラヒヨリの走りが、坂に差し掛かってもストライド走法から変わらない。


「ベレディー、ベレディーが来るよ!」


 今までの様にベレディーの名前を出しても、サクラヒヨリは必死にストライド走法のままスピードを上げようとする。


「ヒヨリ、ピッチ走法!」


 声を上げ、再度手鞭で首の所を叩くのだが、サクラヒヨリは依然走り方を変える事無く、前へ前へと走って行く。


「拙い!」


 鈴村騎手はサクラヒヨリを補助する為に必死に首の上げ下げを行う。しかし、この時後方から勢いのある馬の蹄の音が近づき、並びかけ、ゴール直前で抜き去っていった。


 結局、サクラヒヨリはストライド走法からピッチ走法に変わる事無く、馬群に囲まれてゴール板を駆け抜ける事となる。


 鈴村騎手は、ゴールを駆け抜けた所で手綱を引いてサクラヒヨリの歩みを緩めた。


 そして、歩みを止めたサクラヒヨリは、興奮が収まらないのか頭を上下に振っている。未だにレースの興奮を引きずっているように見えた。ただ、幸いどこか故障をしているようには見えない。


「よしよし、落ち着いて、頑張ったね。でも、何が問題だったんだろう」


 首をトントンと叩いてサクラヒヨリを宥めながら、鈴村騎手はサクラヒヨリの状態を確かめる。検量室へと向かうように手綱を捌いて誘導するが、サクラヒヨリの歩みに問題は無さそうだった。


 ふと電光掲示板を見上げる鈴村騎手は、5着までの番号にサクラヒヨリの6番が無い事を確認し、思わず溜息が零れそうになった。しかし、ここで溜息を零せばサクラヒヨリが気にする可能性を案じ、サクラヒヨリの首をポンポンと叩きながら進むのだった。


 今日のヒヨリはやる気はあったように見えたんだけど、なぜ最後の坂で何時もの様にピッチ走法にならなかったのか。


 今日のレースを頭の中で振り返りながら、鈴村騎手は次のレースへ向け原因究明の方法を考えるのだった。

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