第152話 十勝川と武藤厩舎
ドバイワールドカップデーの熱狂も冷めやらぬ日曜日、日本ではGⅠ高松宮記念が開催されていた。
中京競馬場、芝1200mで開催されるこのレースは、春のGⅠレース開催を告げるレースでもあった。
「昨年の優勝馬テンカイオウドが1番人気ね」
十勝川は所有馬の5歳牡馬トカチビクセスがこの高松宮記念を出走するのだが、8番人気と中々に厳しい評価を受けていた。
トカチビクセスも、昨年8月に行われたGⅢ芝1200m北九州記念を勝利している。ただ、その後はスプリンターズステークスで9着、満を持して11月に行われたGⅢ京阪杯を出走させるも4着と精彩を欠いている。
「はあ、だからと言って1600mで通用する子でもないのよねぇ」
GⅢを一つ勝ってくれている為、馬の将来の為にも更なる上を望みたいところなのだが、現実は中々に厳しい。
「会長、トカチマジックの報告が上がって来ました」
来週日曜日に開催される大阪杯。昨年の優勝馬であるトカチマジックが行った追切の報告を、息子である勝也が持ってくる。
十勝川には息子が二人おり、長男の勝臣は十勝川グループの代表及びトカチファームの代表を務めている。そして、次男の勝也が子会社である十勝川レーシングの代表をしていた。
そして、そのどの会社においても勝子は会長職となっており、仕事中は息子たちも勝子の事を会長と呼んでいる。
「どう? 勝てそうかしら?」
「どうかなあ。タンポポチャもファイアスピリットも引退したから、芝2000mで適距離だし、勝ち負けは行けそうかな」
会長室へ入って来た時とは違い、砕けた口調で勝子へと報告書を渡す。
「芝2000mとなると、ヒガシノルーン、ブラックスパローとオーガブラザー、昨年の皐月賞馬のミチノクノタビも居るわ。決して油断できる訳ではありませんよ。ここでGⅠを2勝しているのと、3勝しているのでは、マジックの将来が大きく変わるのですから頼みますよ」
「判っていますよ。もっとも、引退後の産駒成績が一番重要ですけどね。カミカゼムテキの様に種牡馬引退間近で花開いても、別の意味で大変だろうけどね。そもそも、早めに活躍してくれないと収入がさ」
ミナミベレディーの御蔭で、本来は種牡馬引退を予定していたカミカゼムテキだが、一昨年、昨年と少なくない数の種付けを行った。そして、昨年の種付けを最後に種牡馬引退となっている。
「それでも、そのお陰で牧場の功労馬として残る事が出来たのですから、ミナミベレディーは孝行馬よね」
カミカゼムテキの産駒実績としては、ミナミベレディーとサクラヒヨリを除けばGⅢ勝ち馬が5頭のみ。それ故に、普通であれば引退後はお肉になる可能性が強かった。もっとも、所有している牧場が廃業するとの事で、牧場の功労馬であるカミカゼムテキは余生をのんびりと、その牧場で過ごす事となっていたそうだ。
「そのミナミベレディーがシーマクラシックを勝ちましたよね。これで更に価値が出ると思いますが、出来ればうちの馬との間で産駒が欲しいですね」
本音を言えば、ミナミベレディーに対して優先的に種付けをする権利が欲しい。その為に北川牧場との交流は慎重に、時には大胆に行っている。
「昨年種付けした北川牧場の馬に、良い仔馬が生まれると嬉しいのだけどね」
「そういえば、そろそろ生まれる予定でしたわね」
昨年は、北川牧場の繁殖牝馬4頭に十勝川ファームの種牡馬が種付けを行っていた。
どの牡馬を、どの繁殖牝馬に種付けするかという段階で、北川牧場では、牝馬に相手を選ばせるという有り得ない決断をする。十勝川達を大いに驚かせてくれた北川牧場であったが、それでも今注目のサクラハキレイ系統の馬という事で、特に牝馬が生まれてくれればと期待をしていた。
十勝川としては、徐々にではあったが北川牧場、大南辺との関係は構築されてきている為に、優先種付も決して無理な願いという訳では無いと思うのだ。その為にも、もう1段階関係を強化しないとならないと思っていた。
「ミナミベレディーが繁殖に回ると、それこそ大手が煩そうだよね。大手の実績馬だと血統が近すぎて、次第に種付け相手を選び辛くなってきているからさ」
「そうね。あそこの馬は今主流の馬となら血統的には問題は無いのよね。出来ればマジック辺りはどうかと思っているのだけど、適正距離が2000mのマジックとなら良い仔が生まれそうだと思わない?」
「芝1600mから3200mを勝っている女帝だからねぇ。と言っても実際は、2200m以上が適距離っぽいから良いんじゃないかな? そうなると、まずはマジックに大阪杯を連覇して貰ってインパクトを付けたいかな」
「ええ、あそこまで実績が出来ちゃうと、実績が弱いと周りが煩いわよね」
勝子と勝也は北川牧場との提携の先を、思いっきり皮算用しているのだった。
◆◆◆
その頃、武藤厩舎では武藤調教師が思いっきり寝不足の頭を何とかコーヒーで目覚めさせながら、来週末に行われる大阪杯へ向けサクラヒヨリの調整に四苦八苦していた。
翌朝、目が覚め厩舎にやってくると、それこそ厩務員も含め皆が武藤調教師と同じ様に目を擦りながら仕事をしていた。
「昨日のレースは凄かったですね」
「ミナミベレディーもですが、プリンセスフラウの動向も今後は注意が必要ですね」
厩務員達は皆、今年は幾度かは同じレースを走る事になるであろうミナミベレディーやプリンセスフラウの走りに、今更ながらに脅威を感じていた。
今までの調教で見る限りにおいて、サクラヒヨリも展開次第ではミナミベレディーに勝てるのでは、そんな思いを厩舎では持ってもいた。
しかし、今回のドバイシーマクラシック、合わせて昨年の有馬記念でミナミベレディーが見せた最後の伸びに、その思いが脆くも崩れ去ったような気になっている。
そんな厩舎内の空気を感じ取りながらも、武藤調教師はいつもと変わらない雰囲気を装いながら調教助手へと声を掛ける。
「それで、肝心のサクラヒヨリの調子はどうだ。多少は何とかなって来たか?」
「最悪とまでは言いませんが、なかなか厳しいですね。どちらかと言うと、日に日に悪くなっています」
長期にわたるミナミベレディーの不在、サクラヒヨリの調子が落ちる事をある程度は覚悟していた武藤厩舎の面々ではあったが、何と言っても昨年末よりミナミベレディーとサクラヒヨリはすれ違いが多かった。
それ故に、ミナミベレディー不在に慣れてくれる事を厩舎としては期待していたのだが、サクラヒヨリは絶賛ご機嫌斜めの状況が続いていた。
「唯一宥められる鈴村騎手も、ドバイへ行っているからなあ」
「明後日には来てくれると思いますが」
事前に新しいミナミベレディーの嘶きは勿論、ポスターも使用している。ミナミベレディーが使用していた新しい馬着なども態々馬見調教師に頼み込んで用意していた。
しかし、その肝心の嘶きは使用しはじめて数日で効果が無くなり、追加投入した馬着も、とっくにヒヨリの馬房でボロボロになってしまっていた。
「フィナーレとの併せ馬も効果が薄いな」
「フィナーレが思いっきり怯えてますから」
サクラフィナーレは、調教に出た後にサクラヒヨリを見ると、そのまま馬房に帰ろうとする。そこを何とか宥めながらの調教に、厩務員のみならず馬の疲労も並ではない。
「こっちのメンタルが鍛えられそうだ」
思わず自棄になる武藤調教師ではあるが、そうは言っても何とかサクラヒヨリの状態を上げて行かなければならない。特に、サクラヒヨリの出走可能なGⅠレースにおいて、多少なりとも期待できるレースは少ないのだ。
「ポスターも駄目、音源も駄目、馬着も駄目、困りましたね」
「レースが無ければ北川牧場に放牧に出す所だ」
思わずそう呟く武藤に対し、ふと調教助手はその発言から思いついたことを口にする。
「そういえば、北川牧場でヒヨリは母馬に甘えていたんですよね? サクラハキレイは繁殖牝馬を引退していますから、頼めばこっちへ連れて来て貰えませんかね?」
調教助手の言葉に武藤調教師は、ギギギといった音が聞こえて来そうな様子で調教助手を振り返った。
「えっと、すみません。馬鹿な事を」
「それだ!」
「え?」
調教助手の謝罪の言葉に被せるように、武藤調教師は思わず叫んでいた。そして、戸惑う調教助手をよそに、急いで北川牧場へと電話を入れるのだった。
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