第144話 プリンセスミカミと浅井騎手

 時間は少し戻って、2月中旬の阪神競馬場。


 篠原厩舎に所属している浅井騎手は、阪神競馬場で行われる第5レース、3歳未勝利戦で厩舎所属の5番人気の馬に騎乗し、何とか最後は差し切って勝利を挙げる事が出来た。


 そして、本日の乗鞍はこの一鞍で終わりとなる為に、モニターでその後のレースを観戦し、ベテラン騎手の騎乗を少しでも参考にしようとしていた。


「フェブラリーステークスに立川騎手が騎乗するんだよね。勝てるかな」


 モニターでは、東京競馬場で本日開催されるGⅠフェブラリーステークスのレース前中継を映している。


 その中で、浅井騎手は栗東トレーニングセンターで良くお世話になっている立川騎手が騎乗するコールスローの状態を特に注意して見ていた。


 立川騎手の騎乗するコールスローは、昨年よりダートへと転向し8月のGⅢエルムステークスを勝利、その後もダート路線でシリウスステークスで3着、満を持して出走した12月のチャンピオンカップでは5着となる。


 その後、放牧を経て今回のフェブラリーステークスへの出走するが、陣営としても、立山騎手としても、ダート1600mと今までと比べ距離が短くなる事はコールスローにとってプラス材料だと考えていた。


 じっとモニターの前に立ち止まり、映像を見詰める浅井騎手へ、篠原調教師から声が掛けられる。


「ああ、まだ此処にいましたか」


「あ、すいません。あ、もしかしてモーニングラテに何かありましたか!」


 今日浅井騎手が騎乗した篠原厩舎所属の3歳未勝利馬であるモーニングラテは、出走後も特に何か異常を感じられる様子は無かった。しかし、出走後に何か異常が発見される事は、ままある事である。


「いや、レース後も特に悪い所は無さそうです。馬主の渡邊さんも喜んでいました。良い騎乗でした」


 今年に入ってから中々勝てない状態が続く中で、漸く勝ちを拾う事が出来た1勝である。その1勝が出来た事で、浅井騎手も内心ほっとしていた。もし勝てていなければ、今の様に冷静にモニターを見ていられなかっただろう。


「他に何かありましたか?」


「さっきな、太田調教師から来月に出走するプリンセスミカミの騎乗を浅井騎手にどうかと尋ねられてな」


「え? あの、何で私に?」


 篠原調教師の話では、本来プリンセスミカミの主戦騎手である刑部騎手が、同日に中山競馬場で開催される弥生賞に出走する。

 その為、刑部騎手が騎乗出来ない為、ではプリンセスミカミの鞍上を誰に頼むかという所で、馴染みのある騎手などに打診をする。しかし、残念ながら、どの騎手も都合がつかないかった。そして、今日の段階でまだ依頼する騎手が決まらない状態だったそうだ。


 そして、今日の5レースの騎乗を見て、浅井騎手にも声を掛けてみたというのが真相だった。


「プリンセスミカミはまだ成長途中という事も有り、斤量マイナス4kgも魅力という事だったが、どうする?」


 篠原厩舎に所属する事で安定した騎乗機会を貰えてはいても、デビューして4年目、ここ数年は成績が振るわない故に浅井騎手としても乗鞍は欲しいと言うのが本音だった。


「あの、プリンセスミカミの成績はどうなんでしょう?」


「現在4戦して1勝ですね。前走は白菊賞で6着だそうです。まあレースを見てみないと判らないですが、中々に2勝目が遠いという所かと。ただ、それこそ今人気のサクラハキレイ産駒の血統ですから4歳以降に化ける可能性も0ではないかもしれませんが、3歳の今は厳しいかもですね」


「え? サクラハキレイ産駒ですか?」


「ええ、もっとも、サクラハキレイの産駒でGⅢ1勝のサクラハヒカリとドレッドサインの仔ですが」


 篠原調教師に補足説明を受ける浅井騎手ではあるが、浅井騎手にとってサクラハキレイ血統は、今や憧れの馬と言っても過言では無かった。


「あの、良ければ騎乗してみたいのですが」


「勝ち負けは厳しいかもしれませんよ? あと、もし勝てたとしてもテン乗りで終わる可能性が高いですよ?」


「はい、今は1鞍でも経験を積みたいですから」


 浅井騎手はそう告げて、プリンセスミカミへと思いを向けるのだった。


◆◆◆


『4コーナーを回って、各馬一斉に鞭が入った! 此処で先頭はパインマスカット、その後ろにアップダウンヒル、更に後方からトサノカツオも上がって来た!


 直線、ゴール前、最後の坂で伸びて来たのはプリンセスミカミだ! パインマスカット脚が止まったか! トサノカツオをかわし、先頭を捉えきれるか!


 プリンセスミカミだ! プリンセスミカミだ! 坂を一気に駆け上がり、先頭で駆け抜けたのは、何とプリンセスミカミ! 10番人気のプリンセスミカミが、まさかまさかの番狂わせ! 先頭でゴール! 2着にトサノカツオ、3着にパインマスカット……』


「おやまあ、勝っちゃいましたね」


 篠原調教師は、浅井騎手の騎乗をモニターで見ていた。


 浅井騎手のデビューは6月までに5勝を上げた事で。一見順調な滑り出しに見えた。篠原調教師も可能な限り騎乗機会を与え、また久しぶりの女性騎手誕生という事も有り、当初は騎乗依頼もある程度あった。


 しかし、それでも騎乗出来るのは新馬戦、未勝利戦などが多く、特に新人女性騎手のマイナス4kg目当ての依頼が多い。斤量特典の無いオープン馬への騎乗では、6歳などの既にピークを過ぎた馬が殆どだった。


 浅井騎手には告げていないが、本来プリンセスミカミの騎乗は他の騎手へと打診されていた。


 ただ、今でこそサクラハキレイの血統が注目され始めているが、ミナミベレディーより前の産駒は、牝馬がGⅢを勝てるかという血統だった。

 更には、そのサクラハキレイ産駒達の繁殖実績では、未だに重賞未勝利なのが現実。太田厩舎と懇意である騎手達は、他の騎乗を断って迄プリンセスミカミに騎乗するかと言えば、残念ながら其処迄魅力のある馬では無いと判断された。

 それ故に、依頼した騎手揃って都合が悪いという状況だった。そこで太田厩舎としても、今年の新人騎手なども併せて検討に入っていた。


 そんな中、たまたま太田調教師の観戦しているレースで、浅井騎手が見事に差し切り勝ちを収めた。そのレースを丁度並んで見ていた篠原調教師は、太田調教師の「浅井騎手でも良いかもな」そんな呟きを聞く事が出来たのだった。


 恐らく本気では無かったであろう太田調教師に、篠原調教師が斤量マイナス4kgという点を強調し、頼み込む形で浅井騎手の騎乗許可を貰ったのだった。


「前走と比べ馬も精神面で成長していましたし、これはと思っていました。さて、浅井騎手もしっかりと騎乗していましたし、祝福に行きましょうか」


 浅井騎手の成長を喜びながら、表彰式の会場を見る為に移動するのだった。


◆◆◆


「うわ、3歳にしては馬体が大きいですね」


 浅井騎手は、太田厩舎へとやって来て初めてプリンセスミカミを見た感想がそれだった。


 サクラハキレイ産駒の特徴である雄大な馬体、ただ恐らくドレッドサインの血が入っているからか、そこまでステイヤーという感じは受けない。


「キュヒヒン」


 恐らく初めて会うであろう浅井騎手に対し、警戒した様子を見せるプリンセスミカミに対し、浅井騎手はそっと手を開いて手袋を鼻先に持って行った。


フンフンフンフン


「キュフフン」


 明らかに警戒した様子から一転、プリンセスミカミは手袋に鼻先を擦り付けるような仕草をする。


「よかった、鈴村騎手の言ったとおりだ」


 ゆっくりとプリンセスミカミの鼻先を撫でながら、浅井騎手は鈴村騎手の言葉を思い出していた。


 プリンセスミカミへの騎乗が決まったその日、浅井騎手は思い切って鈴村騎手へと電話を掛けた。


 以前に立川騎手の紹介で、鈴村騎手と連絡先の交換を行ってはいた。しかし、切っ掛けが中々掴めずに連絡出来た回数は、僅かに数回。それも浅井騎手が関東へ遠征に行く際のごあいさつ程度で終わっていた。

 何度か競馬場で会う機会もあったのだが、いまや女性騎手としては遥か高みに登った鈴村騎手に浅井騎手は緊張し、親しくなるかと言えば片言の挨拶だけに終始していたのだった。


「あ、あの、栗東の浅井です」


 思い切って電話をし、鈴村騎手に今度プリンセスミカミに騎乗する事を伝え、何か良いアドバイスは無いかを尋ねる。すると、驚く事に鈴村騎手は放牧時のプリンセスミカミを見ていたとの事で、幾つかのアドバイスを受ける事がっ出来た。更には、後日小さな荷物が送られてきた。


「鈴村騎手のグローブで、こんなに警戒心が解れるなんて」


 プリンセスミカミはミナミベレディーに非常に懐いている為、鈴村騎手はミナミベレディーの匂いの付いている自分のグローブを送ってくれたのだ。


 併せて、ミナミベレディーの嘶きを入れた音源まで送ってくれた。浅井騎手は調教時にその効果を実感出来た為、一応録音機に嘶きを入れて競馬場へと持参してはいるが、中々に周りに人がいる状況で使う勇気が出ない。


「音源は、人が居ない時に試してみようかな」


 勝つ為には、周りの視線など気にもならない。その境地に達するには、まだまだ浅井騎手は若かったのか、常識人過ぎたのか。ただ、レース前に僅かに聞かせた嘶きで、プリンセスミカミは普段以上に落ち着いた様子を見せるのだった。

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