第142話 ヒヨリの帰還とチューリップ賞前の武藤調教師

 ミナミベレディーが美浦トレーニングセンターへと戻って来て、本格的に調教が開始された。


 3月末に行われるドバイシーマクラシックへ向けて、まずは放牧で増えた体重を無理なく絞り込んでいく。その為に、飼葉やリンゴなど食事量も厳重に管理される事となった。


「タンポポチャの引退式で、あそこ迄走らないとは」


「お腹がポッコリしてましたしね。あの時点で有馬記念出走時と比較して20kg増ですから」


 蠣崎の言葉に馬見調教師も苦笑を浮かべる。


 そもそも、ミナミベレディーの馬体重は出走時でだいたい500kgある。そう考えると20kg増加したとしても僅か4%増でしかない。


 ただ、その4%が非常に大きく、50kgの女性の体重が2kg増えたと言われれば、その重要度がご理解いただけるでしょうか? 何となくご理解いただけないような気もしないでも無いので、例えを変えまして、斤量を20kg増やした状態、これでまともにレースなど出来ないと言われた方が判りやすいでしょうか?


「サクラヒヨリがいれば、もう少しミナミベレディーも走っていたんだと思うのですが」


「前も北川牧場の放牧の際に仔馬と遊んでたら、運動量不足で太ってたからなぁ」


「まあ、放牧明けは毎度毎度似たような状況なので、我々も慣れていますがね」


「調教自体は嫌がらんからな」


「食事制限は思いっきり悲しそうに啼きますから、あれが辛いですよね」


 ドバイへ向かうまでにしっかりと減量させ、更にミナミベレディーのピークを持って行かなければならない。中々の難題ではあるが、試されるのが関係者のメンタルという所が普通の厩舎とは違う。


 そんな事をお互いに思いながら、蠣崎調教助手と馬見調教師は、顔を見合わせて再度苦笑を浮かべるのだった。


 そして、ミナミベレディーの調教も順調に進んでいる2月中頃、早々にサクラヒヨリが美浦トレーニングセンターへと戻って来た。近年増えて来た短期放牧だった。


「キュヒヒン」


「ブフフフン」


 戻って来て早々に、ミナミベレディーとサクラヒヨリは併せ馬でコースを走らせた。まだまだ調子は上がってきていないミナミベレディーとの併せ馬である為、この調教は何方かと言えばサクラヒヨリのメンタルケアの一環の意味合いが強い。


 勿論、武藤厩舎から頼まれた事である。ただ、サクラヒヨリと一緒での調教という事で、ミナミベレディーもサクラヒヨリに負けまいとするかのように頑張る。その効果を期待して、馬見厩舎としても可能な限りサクラヒヨリとの調教機会を増やしていた。


「漸くベレディーも引き締まって来ましたね。これでドバイへ向けて希望が持てました」


「本来なら何処かで一叩きする方が良いのだろうが、1レース毎に疲労を溜める所は変わらないからな」


 以前程では無いとはいえ1レース毎にミナミベレディーが体調を崩すのは相変わらずだった。今までの実績から考えれば非常に強いイメージを持たれているミナミベレディーだが、限界以上のレースをして漸く掴んでいる勝利であるのは今も変わりはない。


「放牧で思いっきり太るのもベレディーならではでありますが、もう少し節制という言葉を覚えて欲しいですよね」


「おいおい、馬にか?」


 そう言って笑う馬見調教師であるが、今回の海外遠征を前にしてミナミベレディーの仕上げには普段以上に神経を尖らせていた。


「滞在先の厩舎も決まったが、検疫や予防接種など色々と大変だな」


「ミナミベレディーも注射嫌いですからね」


 先日に予防接種の注射を行った際も、ミナミベレディーは目を閉じて決して注射を見ようとしない。筋肉痛などの治療で幾度も注射を打ってきているというのに、未だに慣れる事が無いようだ。


「うちの厩舎で、初の海外遠征ですからね」


「ああ、我々が経験を積めることはありがたい。ただ、どうせなら何処かのレースで使ってからにしたかったな」


 有馬記念出走後の状態を見て、距離的にも良いかと考えていた京都記念は断念した。2月2週目に行われるためにミナミベレディーの準備が間に合わないと判断したのだ。2月末に行われる中山記念は距離が1800mという事で、此方も無理して走らせる必要は無い。その為に結局はドバイへ直接向かう事になった。


「まあエキシビションとはいえ、タンポポチャと走った事でベレディーも拙いと思ったみたいですし」


 そう言って笑う蠣崎調教助手の言葉ではないが、美浦トレーニングセンターに戻って来たミナミベレディーは何時も以上に真面目に調教を受けている。


「あっという間に3馬身置いて行かれたからな。それまでの道中も一杯一杯だった。まあ、あそこ迄太ってしまったら仕方がないだろう」


 あの時の映像を見ると、ミナミベレディーが必死にタンポポチャに追従している様子が判った。


「競争後にタンポポチャにも叱られていました。ファン達の間では、あの走らないベレディーが可愛いと、更に人気が出たみたいですが」


 蠣崎調教助手の言葉に、馬見調教師も笑い出した。


「まあタンポポチャは無理だが、サクラヒヨリとの併せ馬で出来るだけ調子を上げておかないとだな。ドバイへの輸送でベレディーにどんな影響が出るかもわからん。そもそも、空輸は初めてだからな」


「馬運車は苦にしませんが、空輸だと判りませんからね」


 蠣崎調教助手は表情を一転させる。


 その後、武藤厩舎からも可能な限りミナミベレディーとサクラヒヨリの併せ馬を依頼される。馬見厩舎としても断る理由は無く、ミナミベレディーが検疫前の隔離に入るまで共に調教を行う事になった。


 馬見厩舎では、初めての海外遠征に向け、少しずつ準備が整っていくのだった。


◆◆◆


 3月第一週の土曜日、阪神競馬場では桜花賞トライアルであるGⅡチューリップ賞が開催されようとしていた。


「出走馬が13頭か。何とか3着までに入ってくれれば」


 武藤調教師は、競馬新聞を手に改めて出走馬を確認しながらそんな事を呟く。


 サクラフィナーレは、2歳の内に何とか2勝を上げ、どうにかこのチューリップ賞へと出走する事が出来た。


 例年、フル出走になる事はまず無い為、問題無く出走できるとは思っていた。それであっても、無事に登録出来た事には安堵する。


「そういえば、プリンセスミカミは明日がレースだったか」


 1勝馬限定レースである為に、競馬新聞の隅に小さくではあるがプリンセスミカミのレース組み合わせなどが書かれていた。記事を読んでいくと、出走馬11頭とそこそこの数の出走馬達の中で、プリンセスミカミを本命に上げる人は残念ながら一人も居ない。唯一、一人がダークホース的な扱いの黒三角マークを付けるのみだった。


「確かサクラハヒカリとドレッドサインの仔だったな。ドレッドサインはマイラーだったか」


 記事を読む限りでは、プリンセスミカミに触れた内容は無く、1戦1勝で上がって来た上がり馬や、前走で好走した馬などがさらりと書かれているのみだった。


「聞いた所、今週の追い切りは悪くなかったようなんだが。まあ、注目を集めるような馬が居なければ取材もこないか」


 サクラフィナーレとプリンセスミカミが一緒に放牧されて以降、今まであまり接点のなかった桜川氏と三上氏との間で交流が増えたそうだ。


 そんな桜川氏から聞いた話では、放牧から帰ったプリンセスミカミは、今までと違い同歳の馬に気後れする事が無くなったらしい。これがレースに好影響を齎して欲しいと三上氏が言っていたそうだ。


 プリンセスミカミとの放牧で成長したのは、サクラフィナーレも同様だった。それこそ姉達と同様に先行するサクラフィナーレに必死に追い付き、追い抜こうとプリンセスミカミが追いかける。そんな走りを牧場では良く行っていたそうだ。


 サクラフィナーレは、やはり姉達と同様に先行、または逃げからの粘りが持ち味だろう。まだまだ馬自体が幼くレース中に遊ぶところがあるが、放牧後の調教ではしっかりと集中する様になってきている。


「接戦での粘りが、何処まで出来るかが勝負だよな」


 調教でも疲れてくると途端に手を抜く癖は未だに残っている。ただ、それもサクラヒヨリと一緒に調教する事で少しずつ改善してきた。


「問題は、2歳代表牝馬のライントレースか。あとはウメコブチャもだな。アルテミスステークスを勝っているし、2歳牝馬優駿は3着だ。花崎さんの所有馬だが、タンポポチャとは血統が違うな」


 レース表を見ながら、チューリップ賞出走馬の内容を再度確認していく。先に述べた2頭以外にも中々に強そうな馬達が数頭いるが、この時期の馬は、まだまだ未知数の馬も多い。


「長内騎手も気合が入っているからな。ここを3着以内で行ければ次は桜花賞だ」


 長内騎手としても、ここで是非とも実績を出したい所だろう。そして機会さえあれば、サクラヒヨリの主戦として復帰したいという思いが犇々と感じられる。


 実際の所、長内騎手と鈴村騎手、二人の騎乗技術としては、今もって長内騎手の方が総合力では上になると思ってはいた。


「鈴村騎手に限って言えば、先行策や逃げに特化している所があるからな」


 馬群に囲まれた際の判断力、対応力、そして鞭を使用しての最後の追い込み力などは、継続して鈴村騎手の課題だろう。もっとも、ミナミベレディーとサクラヒヨリの2頭に限って言えば、一流騎手に引けを取らないとも思っているのだが。


「ああ、あとあの良く判らん発想力と行動力もだな」


 結果を出しているが故に質が悪いというか、周りの視線を気にして欲しい事も多々あったな。武藤調教師は思わずそんな事までも思い出すのだった。

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