第140話 タンポポチャの引退式 後編

 タンポポチャさんと一緒に通路で待たされています。


 その間に、鈴村さんとタンポポチャさんの騎手さんが私達に騎乗しました。


 外の声が中まで聞こえてくるので、何となくこの後の流れをイメージできる私と違って、騎手の人が騎乗した途端にタンポポチャさんのヤル気? 闘志? とにかく、何か火がついちゃいけない物に火がついちゃった?


「キュヒヒン」


「タンポポ、ちょっと落ち着け」


「タンポポ、ほら、落ち着いて」


 騎手さんと、手綱を引いている厩務員さんがタンポポチャさんの首をトントンして、何とか落ち着かせようとしています。でも、タンポポチャさんは頭をブンブンしていますね。


「あちゃあ。タンポポチャが、走る気満々になっちゃってるね。ベレディー、この後エキシビションでタンポポチャと走るけど、ゆっくりで良いからね。馬なりで良いからね。タンポポチャに釣られちゃ駄目だよ」


 鈴村さんが、鞍上でそう言いながら首をトントンしてくれます。


 レースじゃないですし、私はタンポポチャさんと一緒に駆けっこみたいな気分でいるのですが、ただタンポポチャさんがですねぇ。


 思いっきり走る気満々ですよ? あの状態のタンポポチャさんを抑えて走れるのかな?


 中々に大変だと思うのですが、仕方が無いのでタンポポチャさんを宥める為にハムハムしてあげましょう。ここで落ち着いているのと、興奮しているのでは後で大変なのは多分私ですよね?


 という事で、タンポポチャさんに横からゆっくり近づいていって首の所をハムハムしにいきます。


「え? ちょっと、ベレディー、近づいて大丈夫なの?」


 騎乗している鈴村さんが、慌てて私の手綱を引きます。でもですね、此の侭で何もしない方が大変なんですよ?


「キュフフフン」


 私が近づいて来ることに、タンポポチャさんは勿論気が付いていて、頭を私へと向けるました。私は、まずは頭をスリスリして宥めます。そして、首の所をハムハムしていると、タンポポチャさんもようやく落ち着いて来たのか、私をハムハムしてくれます。


「ミナミベレディーの御蔭で落ち着いて来たな。いやあ助かった」


 タンポポチャさんに騎乗している騎手さんが、そう言ってホッとした様子を見せますが、そんな中でタンポポチャさんにお声が掛かりました。


「よし、タンポポ、行くぞ。一世一代の晴れ舞台だな」


「キュフフフン」


 騎手の人に答えるかのようにタンポポチャさんが嘶いて、私をチラリと見た後に颯爽と馬場へと歩いていきます。


 でもね、今の視線で気が付いちゃったんです。タンポポチャさんは、やっぱりレースする気ですよ? 多分ですが、この後レースだと思っていますよ?


 私とタンポポチャさんの2頭しかいないのですが、そんな事はタンポポチャさんにとって些細な事っぽいのです。タンポポチャさんの瞳の中では、それはもう、轟々と炎が燃えていました。


「ベレディー、ついて行くよ」


 タンポポチャさんの少し後ろを、鈴村さんに促されながら付いて行きます。そして、通路を抜けるとライトが煌々と灯された舞台が設置されていました。


「キュヒヒン」


 本馬場へと入ったからか、又もやタンポポチャさんが頭を上げ下げしています。


 うん、早く引綱を外してって事だと思うんですよね。私はレースじゃないと判っていますけど、タンポポチャさんは判りませんよね。


「タンポポ、落ち着け」


「ほら、落ち着け、氷砂糖だぞ」


 厩務員の人が、タンポポチャさんに氷砂糖を差し出しています。氷砂糖は美味しいですからね、氷砂糖を食べている間は落ち着くかなと思うんです。


 で、私にも氷砂糖くれても良いのよ? と私の綱を曳いている厩務員さんを見ますが、駄目ですねぜんぜん気が付いていません。


「ブフフフン」(気が利かないのですよ)


 ちょっとご機嫌斜めになるトッコさんですよ。


 そんな事を思っているのですが、私と違ってあちらではタンポポチャさんが氷砂糖を拒否したみたいですね。


「ブフフフフン」(慌てなくても後で駆けっこするみたいですよ)


「キュヒヒヒン」


 先程と同様に、タンポポチャさんに声を掛けてゆっくり近づきます。


 興奮しているお馬さんに、不用意に近づくのは危険ですからね。タンポポチャさんも私に返事を返してくれますが、明らかにご機嫌斜めですね。手でタンポポチャさんをナデナデ出来ないので、首の辺りに頭をスリスリします。


 これで落ち着いてくれると良いですけど。


 フンフン、フンフン。


 それでも、私がスリスリしたからか、タンポポチャさんが気持ちを落ち着けようとしているみたいです。


「はあ、ミナミベレディーが一緒で良かったな」


「いえ、ミナミベレディーがいるから此処まで走る気満々な気がします」


「それより、これ先に走らせて気持ちを落ち着かせた方が良く無いですか?」


 何か皆さんが打ち合わせをしていますね。ただ、この状況で走ったらタンポポチャさんが爆走しそうなのは気のせいでしょうか?


 思いっきり不安を感じる私を余所に、私とタンポポチャさんは、先にエキシビションとして駆けっこをする事になりました。


◆◆◆


 うわぁ、タンポポチャは気合が入っているなぁ。


 その日のレースが終わり、タンポポチャの引退式に向けて騎乗服を着替えて来た香織は、通路で待たされているミナミベレディーとタンポポチャの様子を一目見るとそんな事を思った。


「う~ん、うちのタンポポは興奮気味だね」


「ですね。この後のエキシビションは大丈夫でしょうか?」


 今日、ミナミベレディーが招待される事が決まった際に、式典後にエキシビションとして2頭での併せ馬が企画されていた。


 昨日に引き続き、今日も早朝から栗東トレーニングセンターではミナミベレディーとタンポポチャは一緒に曳き運動を行っていた。馬見調教師に聞いた話では2頭ともにご機嫌で運動をしており、終始問題は無かったと聞いている。


「タンポポが、レースと勘違いしていそうだなぁ」


「ありえそうですね」


 立場はすでに違えども、タンポポチャもミナミベレディーも共に大事な存在だ。それこそ、今後の競馬界を引っ張っていく存在と言っても過言ではない実績を残している。そんな2頭に何かあっては大問題であり、騎乗する騎手の責任は大きい。


「安易に併せ馬なんて、了承するべきじゃ無かったですよね」


「だよなあ」


 もっとも、この要望を出したのは競馬協会であり、了承したのは花崎と大南辺だ。磯貝調教師と馬見調教師もあくまで軽く走るならとの条件を付けている。


「大丈夫でしょうか?」


「大丈夫にするしかないだろう」


 鷹騎手の表情も若干強張っている様に見えたのは、恐らく見間違いでは無いだろう。


 そして、遂に表彰台が設置されている本馬場へと案内される。


 少し落ち着いたかと思っていたタンポポチャは、本馬場で明らかに曳綱を外す様にと要求していた。次第に興奮していくタンポポチャに、ミナミベレディーが擦り寄る事で、タンポポチャは少し落ち着きを取り戻す。


 この時、鷹騎手がタンポポチャ達のエキシビションをまず先に行う様に要望を出した。


「まずは走らせてからでないと、タンポポは落ち着きませんよ」


「そうですね。ただ、今のタンポポチャを走らせたら、馬なりどころではすまない気がします」


「ゲートが無いから大丈夫だろう。そもそも、ミナミベレディーとの併せ馬は初めてではない」


 鷹騎手の提案が受け入れられる。その結果、予定を変更してタンポポチャとの併せ馬が先行して行われる事となった。


「大丈夫かなぁ、ベレディー、無理しなくて良いからね。レースじゃ無いんだから」


「ブフフフフフン」(うん、大丈夫。そもそも走れないよ)


 こんな時も変わらずのんびりとしたミナミベレディーの嘶きに、香織は漸く落ち着きを取り戻すのだった。


◆◆◆


 タンポポチャさんを落ち着かせる為に、コースを軽く一周する事になりました。


 曳綱を外されて、さてどうしましょうという所で、タンポポチャさんと目が合います。それが合図となったみたいで、まずはタンポポチャさんが駆け出して行きました。そして、私もそれに追従します。


「馬なりにしては、ちょっとペースが速いね」


 鞍上の鈴村さんがそう言いますし、私もそんな気がします。だってね、結構真面目に走らないと置いて行かれそうですよ。


 タンポポチャさんの後ろに着く感じで、何とかコーナーを回っていきます。前を走るタンポポチャさんが、チラチラと此方を意識しているのが判りました。


 ただ、こんな事なら昨日からもう少し食事量を減らしておくんだったと、今更ながらに後悔してるのです。


 お腹が何か重いんですよね。可笑しいですよね? お昼のご飯がまだ消化されていないのでしょうか?


 もうそろそろ夕方のご飯の時間なので、消化されていても良い頃だと思うのです。


 前を走るタンポポチャさんは、私と違ってお腹が重そうな感じはしません。良く考えれば、昨日から一緒に食事をしているのですが、タンポポチャさんの食事量は私より少なかったような。


 夜のご飯なんかは、てっきり夜中にお腹が空いた時に食べれるように残しているんだと思っていました。でも、若しかしたら今日走る事を予想していたのでしょうか?


 タンポポチャさんの策に嵌められました! これは拙いのです。お腹が重いですよ。


 動揺が激しい私を余所に、タンポポチャさんは私の前を軽やかに走って行きます。


「ベレディーは相変わらず休養明けは走らないわね」


 鞍上の鈴村さんも、私の様子に気が付いているみたい? ただね、お腹がいっぱいなの! そんな状態だと走れないのよ?


 そう訴えたい私ですが、嘶く余裕すら無いのです。


 そして、3コーナーを回って、4コーナーへと入りました。


「う~ん、馬なりってなんなんだろう?」


 鈴村さんが何か変な事を言っています。でも、私はとにかく余裕が無いんです。そして、スパートするタイミングも、余裕も失った状態で、最後の直線に差し掛かりました。


 タンポポチャさんは、明らかに此処からスパートする気満々ですね。騎乗している騎手さんが終始手綱を引いて押さえています。一向に効果が出ていない気がしますけど。


 そしてタンポポチャさんが此方へと視線を投げて、何時もの様にスパートします。


 ・・・・・・ただですね、私にはそんな余力が無いのです。お腹がタポタポさんで、今一つ力が出ないと言いますか・・・・・・。


 そんな私の気持ちを余所に、何時もの併せ馬の時の様にタンポポチャさんがスパートします。私もタンポポチャさん走法で追いかけるのですが、1馬身、2馬身と離されて行きます。


 ああ、これがタンポポチャさんだったなぁ。


 かつて追い付こうとして、並ぶことも出来ずに置いて行かれた時の事を思いだしました。ある意味、私が頑張らないとと思った原点のような光景です。そんな事を思っていたら、レースのゴール板を越えていました。


「う~~~ん、幾ら本気じゃなくって、休養明けだったとしても、3馬身差」


 鈴村さんが何か言っていますが、私は結構疲れちゃってますよ?


 お鼻で必死に息をしていると、私同様にお鼻で荒い息をしているタンポポチャさんがこっちへと戻って来ました。


「ブフフン」(疲れたよ~)


 私は甘える様にタンポポチャさんにスリスリしようしました。そうしたら、タンポポチャさんが私の首の所を・・・・・・カプっとしたんです!


「キュヒン!」(噛まれたよ!)


「キュフフフン」


 う・・・・・・、タンポポチャさんを見ると、すっごいお冠でした。

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