第138話 なぜかまだタンポポチャの引退式の前です

 タンポポチャさんは、私の正面の馬房で落ち着きがなくウロウロしていますね。


 馬房の中をくるくる回ったかと思うと、頭を突き出して私を見るんですが、なんでしょう。


「ブルルルン」(ご機嫌は如何ですか?)


「キュフフフフン」


 うん、ご機嫌は悪くなさそうですが、何か落ち着きがありませんね。こんなタンポポチャさんは初めて見ます。ただ、タンポポチャさんの厩務員さん達は、落ち着かない様子にちょっと微笑ましそうです?


「う~~~ん、これはミナミベレディーと曳き運動でもさせて、少し落ち着かせた方が良さそうなんだが」


「まもなく獣医の先生が来ますよ。移動後のベレディーの診察をして貰って、問題が無ければ曳き運動に行きましょうか」


「そうして頂けるとありがたいです。タンポポも、まさかミナミベレディーが来るとは思っていなかったんだと思いますよ」


 成程、お家で寛いでいたら突然お友達がお家にやって来ちゃったみたいな感じでしょうか? ただ、お馬さんだと急いで隠さないといけない物とか無いので、特に慌てる必要も無さそうなんですが。


「ブフフフフン」(この後一緒にお散歩出来るみたいですよ)


「キュフフン」


 うん、話しかけたら尻尾がバサバサ動いているので喜んでくれているのかな。もっとも、私が話している内容を理解しているかは不明なんですが。何せ私が馬語を理解できないですからねぇ。


 その後、獣医さんが来て診察してくれています。馬運車で移動した後は必ず診察があるんですよね。馬運車の移動で体調を崩したり、どっかをぶつけて怪我をするお馬さんもいるそうです。


 私は馬運車での移動は苦にしませんし、何処も異常なしとなりました。


「キュフフフフン」


「ブルルルン」(ご機嫌そうで良かったですね)


 そして、待ちに待ったタンポポチャさんとのお散歩です。


 引綱をつけられて馬房を出された途端に、タンポポチャさんがフンフンと思いっきり私の匂いを嗅ぎ始めます。


「ブルルルン」(臭くないですよ?)


 私に会うと、ヒヨリも匂いを嗅ぐんですが、何ででしょう? 乙女としてすっごく気になるんですよ? 良い香りであれば良いのですが、匂いを嗅いだ後に必ずハムハムしようとするのです。


 グルーミングですよね? お掃除ですよね? という事は、臭いんでしょうか? 今回も今までと同様にタンポポチャさんがグルーミングに入ろうとするのを、慌てて厩務員さん達が止めてのお散歩です。


「キュヒヒヒン」


「ブフフフン」(ご機嫌ですね~)


 タンポポチャさんとのお散歩は、放牧前のレースの時以来ですね。相変わらずタンポポチャさんが私の前を歩いて、私が付いてきているか確認する様にチラチラと此方を見ます。


「ブルルルルン」(ちゃんとついてってますよ)


「キュフン」


 タンポポチャさんのお返事が短いですね? 何と言っているのか気になる所です。


「本当に仲が良いですね」


「タンポポは、昔は気性が荒いと言われていたんです。それがミナミベレディーと仲良くなった以降から、不思議と荒いと言うほどではなくなったんですよね。まあ穏やかかと言えば違うんですが」


 タンポポチャさんの所の厩務員さんがそんな事を言っていますが、そう言えばタンポポチャさんって最初はすっごくフンフンしてたかな? 今も別の意味でフンフンされていますけど。


「ブルルルルン」(本当に引退しちゃうんですか?)


「キュフフン」


 こうやって一緒に歩いていると、何かタンポポチャさんが引退するなんて気がしてきません。


 それどころか、タンポポチャさんは今週レースにでも走りそうな意気込みを感じます。


 あれ? タンポポチャさんもレースが終わって放牧されていたんですよね? あまり体型にお変わりがありませんね。


 でも、そういえば引退式って何をするのでしょうか? お相撲さんは髷を切るとかあった気がしますが、お馬さんは良く判りませんよね。


 花束とか貰っても食べれませんし。食べれる花束とかでしょうか?


 その後、タンポポチャさんとお散歩後にお互いにハムハムをして、なぜか私だけ普通に坂路で調教がありました。どうせならタンポポチャさんと一緒にしてくれれば良いのに、思いっきり旅行気分だったので思いの外に疲れちゃいました。


 決して、体重が増えていたからじゃ無いですよ!


◆◆◆


 ついにタンポポチャが引退か。


 まだ今日騎乗するレースが残っていると言うのに、鷹騎手はこの後に行われるタンポポチャの引退式について考えてしまった。引退式を行う場合、近年ではその馬の最終レース直後に行われるのが主流となって来ていた。ただ、今回はファイアスピリットが同じように有馬記念で引退する為、レース後にはファイアスピリットの引退式が行われた。


 さすがにタンポポチャの引退式を、他の馬と同時には出来ないからな。


 馬主である花崎の意向と、競馬協会の思惑もあり後日改めて開催される事となった。もっとも、せっかく後日に開催するのだからとタンポポチャのみならず、ミナミベレディーまで招待してのイベントとなった為、日程調整に時間を取られてしまった。


「協会も上手くやったよな」


 タンポポチャの引退式。更には其処にミナミベレディーがやって来る。CMなどで異例の宣伝が行われ、タンポポチャとミナミベレディーが共に並ぶ姿を一目見ようと、多くの競馬ファンが京都競馬場へと集う事になった。

 特に重賞レースなどが行われない日としては、有り得ない程の入場者数になっているようだ。


「タンポポとすれば、ミナミベレディーに会えるのだから文句はないだろうがな」


 騎乗レースのある騎手はレース前日の夜までに競馬場に入らなければならない。その為、残念ながら栗東トレセンでタンポポチャとミナミベレディーが出会った所を見ることは出来なかった。


 磯貝調教師からの連絡では、ここ最近周囲の様子が違う事を敏感に感じ取っていたタンポポチャは、次第に苛立った様子を見せ始めていた。しかし、そんなタンポポチャのご機嫌は、ミナミベレディーに会った途端に急回復したらしい。


「タンポポに、もう無理はさせられないからな」


 ミナミベレディーはタンポポチャと一緒に行われた曳き運動の後、更に坂路の調教を行ったそうだ。放牧に入って約1か月、その間に十分休養を取れたようで、馬体重は兎も角、ミナミベレディーの調子も悪くないとの事だった。


「ドバイ挑戦と聞いているが、あれなら惨敗という事は無かろうよ」


 相変わらず口の悪い磯貝調教師の言葉ではあるが、今の段階でも勝ち負けまでは行けそうなくらいには仕上がっているという事だろう。


「騎手は、このまま鈴村騎手で行くそうですね。馬見厩舎としても初の海外遠征らしいので、てっきり乗り替わりがあるのかと思っていました」


 実際の所、ミナミベレディーの馬としての実力はともかくとして、厩舎自体の経験や実績、騎手の経験や信頼度などを加味すれば、今回のドバイシーマクラシックでミナミベレディーが勝つのは厳しい。


 競馬関係者達は、一様にそう判断していた。そして、鷹騎手の評価も同様だった。


「そうだなぁ。しっかし、タンポポも海外レースを経験させてやりたかったが」


 磯貝調教師としては、昨年秋のエリザベス女王杯と有馬記念出走は不本意な選択だった。決まった事、終わった事を蒸し返して何か言う人ではないが、余程に不本意だったのかタンポポチャの話をしていると時々ポロリと思いが零れる事がある。


「そろそろ切るぞ。土日に不甲斐ないレースをするんじゃないぞ」


「ええ、頑張りますよ。私が騎乗する馬に磯貝厩舎の預託馬はいませんがね」


「うるせえ、切るぞ」


 結局、磯貝調教師が何のために自分に電話してきたのか良く判らないまま、昨晩の電話は終わった。


 そして、一夜明けて今日、最終レース後にタンポポチャの引退式が開催される。


「タンポポに馬鹿にされない様、今日の残り2レースも頑張りますか」


 せっかくのタンポポチャの引退の日だ。どうせなら良い結果で終わらせ、タンポポチャに騎乗したいと鷹騎手は思うのだった。

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