第134話 アメリカジョッキークラブカップ

『第※※回 GⅡ 芝2200mで競われますアメリカジョッキークラブカップが、此処中山競馬場で間もなく開催されようとしております。今年は晴天に恵まれ・・・・・・』


 騎手控室からパドックへとやって来た香織は、他の馬達に混じって周回するサクラヒヨリを見て思わず苦笑を浮かべる。4歳になって初めてのグレードレース、しかも古馬達を相手に、サクラヒヨリが委縮してしまわないか心配していたのだが、そんな香織の心配を他所にサクラヒヨリは堂々とした様子でパドックを回っている。


「とま~~~れ~~」


 合図とともに停止する馬達へ、騎手達は小走りに駆け寄っていく。


 サクラヒヨリは駆け寄って来る香織に気が付いて、明らかにご機嫌斜めだった様子が少し改善した様に見えた。


「キュヒヒン」


「うん、今日は頑張ろうね」


 サクラヒヨリに近づき、何時もの様に突き出された鼻先を撫でる。そして、首を優しくトントンと叩いて、若干興奮気味のサクラヒヨリを宥めてから香織は騎乗した。


「良い感じには仕上がっている。ただ何時もより入れ込み気味なのが気にはなる」


「判りました。ゲートでは注意します」


 ミナミベレディーは、レースで入れ込むという事がまずない。それに対し、サクラヒヨリはちょっと神経質な所が有る。ただ、既に何レースも共にしている為、香織もサクラヒヨリの傾向は把握していた。


「このレースが終われば短期放牧だ。頑張れよ」


 武藤調教師がサクラヒヨリに声を掛ける。レース前にサクラヒヨリがこれ以上入れ込むことが無いように、今日はミナミベレディーの名前は禁句とされている。それを思い出した香織は、思わず苦笑を浮かべるのだった。


「流石に有馬記念を走った馬は出て来てはいないが、サイオウデショウは中々良い仕上げ出来ている。あとは、札幌記念2着のカチドケイが要注意だな。見た感じも悪くはない。しっかりと仕上げてきている。まあGⅠレース経験馬ばかりだから欠片も油断は出来ないがな」


 サイオウデショウは昨年のダービー3着馬で、昨年の鳴尾記念勝利馬だ。そして、カチドケイは一昨年のアメリカJCCの勝利馬であり、昨年にはGⅢ 芝2000mの新潟記念も勝利していた。それ以外の馬も、殆どがGⅠレースを走った事のある実力馬ばかりだった。


「サクラヒヨリも昨年の共同通信杯では牡馬相手に勝っていますし、今もぜんぜん他の馬を気にしている様子はないですね。多分ですが、さっさとレースを終わらせてお姉ちゃんを追いかけるんだって感じかもしれませんよ?」


 サクラヒヨリの馬房にミナミベレディーのポスターを貼っては見たのだが、予想に反してサクラヒヨリは今ひとつ反応が良くなかった。てっきりポスターに擦り寄ったりするのかなと思っていた香織達は、思いっきり予想を裏切られる。


 ただ、ここから武藤厩舎の厩務員達の試行錯誤が始まった。効果が無かったで終わるのではなく、なぜ効果が無いのかの検証に入った所がどこか可笑しい。


「立体ではなく平面だと認識されないとかでは?」


「匂いが無いからでは?」


 それぞれに検証する中で、幾多のポスター達が犠牲になっていった。特に、わざわざ借りてきたミナミベレディーの冬着など、匂いをつけた物などはあっという間にサクラヒヨリにボロボロにされてしまった。


「なあ、このミナミベレディーの冬着をずっと馬房に入れとけばいいんじゃないか?」


「いや、それだと何か負けた気になる」


 武藤厩舎の厩務員は、何と戦っているのだろうか。


 結局、サクラヒヨリの馬房の向かい側に、若干立体的に見せたミナミベレディーのポスターを設置した。これがポスターでは一番効果的であった。


 ただ、ミナミベレディーの馬着がボロボロになって、サクラヒヨリの馬房の隅に置かれていて、馬見厩舎に謝罪及び新しい馬着が贈られた。この時、武藤調教師が馬見調教師に謝罪した話は、それなりの人達には広まったのだった。


 流石に最初のポスター以降は関与していなかった香織は、その後の顛末を聞いてやはり苦笑を浮かべるしか無かった。実際の所、馬房の向かいに貼られたミナミべレディーのポスターをサクラヒヨリがどう思っているのかは判らないが、それでレースまでの間、少しでも落ち着いてくれればと願っていた。


「うん、良い感じですね。勝ち負けは行けそうです」


「みんなの努力の賜物だ。頑張ってくれ」


「はい」


 その後、本馬場へと入り、ゲート前の馬場溜まりで何時もの様にぐるぐると周回する。


「落ち着いてるね。ヒヨリは良い子だね」


「キュフン」


 此処に来て若干の緊張を見せるサクラヒヨリを、何時もの様に首をポンポンと叩いて宥めていく。そしてゲート入りも問題無く進み、スタートが迫って来る。


「最後の馬がゲートに入ったよ」


 香織は、何時もの様に声のトーンを落とし、サクラヒヨリへと声を掛けた。


ガシャン!


 音と共にゲートが開き、サクラヒヨリは綺麗なスタートを見せる。


「よし! 最高のスタートだよ!」


 何時もの様に好スタートを切ったサクラヒヨリを褒め、香織はそのまま加速させ先頭に躍り出るのだった。


◆◆◆


 桜川はレースが中山競馬場という事も有り、家族を連れてのレース観戦となった。


「お父さんのお馬さんが1番人気なんだぞ」


 息子と娘にそう言って連れて来たのだが、子供達はすでにポニーに乗ったり、キッズ広場の雲の絨毯などで思いっきり遊んだ後であり、完全にお疲れモードだった。


「今日は天気が良かったので、子供達も思いっきり遊べましたから」


 そう言って笑う妻を尻目に、娘を見ると今日も又ターフィーショップで買って貰った、タンポポチャの以前とは別バージョンのぬいぐるみを胸に寝息を立てていた。


「僕は起きているよ」


 明らかに眠そうな様子を見せる息子だが、ここは空気を読んで必死に眠気と戦っているようだ。


「レースまでもう少しだからな」


 その様子に苦笑を浮かべながら、桜川はターフビジョンに映る馬達のゲート入りを見た。


「頑張って欲しいですね」


「そうだな、何と言ってもGⅠを2勝してくれているからな」


 GⅠ馬であるから故に、ついつい期待してしまう。サクラヒヨリの場合はそれこそ全姉であるミナミベレディーの活躍があるが故に、自身も、周りの期待も非常に高い。そのプレッシャーに武藤調教師など胃薬が手放せなくなったなどの話も漏れ聞こえてくる。


「まあ、3姉妹での桜花賞勝利など、別のプレッシャーもあるからな」


 桜川から見て、現状のサクラフィナーレで桜花賞となるとかなり厳しいように思える。昨年の同じ時期のサクラヒヨリを知っているだけに、どうしても2頭を比較してしまうのだ。


「フィナーレで共同通信杯は、無理だからなあ」


 思わずそんな言葉が零れてしまう。


 そんな桜川の視線の先では、馬達が無事にゲートへと収まり、ゲートが開いて各馬が一斉に走り出したのだった。


「よし! 良いスタートだ!」


 4番のゼッケンを着けたサクラヒヨリが、好スタートを切って先頭を窺う。しかし、外枠で好スタートを切った11番の馬がサクラヒヨリに並びかけて来る。


「11番はキンメッキかあ。持久力のある馬だが、末脚が弱いのだったか? 逃げ狙いだろうか」


 11番のキンメッキの鞍上で、騎手の手が動いているのが判る。そして、そのままキンメッキを先頭に馬達は1コーナーへと入って行った。


「お父さん、どうなっているの?」


 息子が今の状況を尋ねてくる。レースの展開を幼い子供に判断しろと言っても、やはり其処はまだ難しい。


「ほら、前から2頭目にいるお馬さんが見えるかな? ゼッケンに4番と書いている。あれがサクラヒヨリだぞ」


「あ、判った!」


 まだ先頭付近にいるから判りやすいが、馬群に入ってしまったりすれば中々に判りにくいだろうな。


 桜川はそんな事を思いながら、レースの展開を見る。


 先頭のキンメッキが後続に4馬身程差をつけて逃げを打っている。その後ろではサクラヒヨリ、そのすぐ後ろに6番サイオウデショウ、2番ツキノミチビキが続き、向こう正面へと入る。


「いいか、この中山競馬場は3コーナーの入りが重要なんだぞ。だから後方の馬がここで動くかもしれん」


 息子にレース展開を説明すると、息子も真剣な表情でターフビジョンを見ているのが微笑ましく感じる。


 私もこれくらいの頃に、良く競馬場に連れて来て貰ったからな。


 かつての自分を思い出しながら、そして懐かしく思いながら、息子とレースを観に来るような年齢になった事を感慨深く感じていた。そんな桜川の見ている前で、3コーナーへ入ったサクラヒヨリが一気に前との距離を詰めに入るのが判った。


 そのサクラヒヨリの動きに釣られるように、他の馬達の動きも一気に慌ただしくなる。


 中団に位置していたカチドケイがじわじわと前に上がって行くのが判る。そして、3番手に控えていたサイオウデショウが、サクラヒヨリに被せるかのように外から馬体を合わせに行く。


「これは、直線でキンメッキが邪魔にならないか?」


 サイオウデショウが外から被せている為に、サクラヒヨリは外に振り辛くなっている。恐らく騎手の狙いはそこにあるのだろう。


 ただ、最後の直線へと入った時に、少し膨らんだキンメッキと、内ラチとの間に開いた僅かな隙間へサクラヒヨリが飛び込んでいく。そして、そのまま後続を突き放しにかかった。


「おお、鈴村騎手も成長したなあ」


 思わずそんな感想が漏れるくらいに、危なげない騎乗に見えた。


 そして、サクラヒヨリはそのまま先頭でゴールを駆け抜けるのだった。


「すごい! お父さん、勝ったよ!」


 傍らで拳を握りしめながらターフビジョンを見ていた息子が、満面の笑みで自分を振り返って喜びを表す。その姿を見ながら、息子もきっと競馬に魅入られていくのだろうなあと、そんな事を思うのだった。

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