第132話 鈴村さんの一日とサクラヒヨリ

「あ~~~、日増しにヒヨリのご機嫌が悪くなってるんですか」


 香織は、ヒヨリが出走するアメリカジョッキークラブカップへ向けて、サクラヒヨリの調教を行う為に武藤厩舎へと顔を出していた。


 昨年のミナミベレディーの失敗を教訓として、武藤厩舎はエリザべス女王杯後にレース間隔を空けすぎないよう短期放牧を行い、1月のレースへと照準を定めた。


 そこまでは良かったのだが、関係者が懸念した通りサクラヒヨリは、ミナミベレディーと会えない時間が長くなれば長くなる程、苛立ちを表に出すようになっていた。


「鈴村騎手がいるときは良いのですが、他の調教助手などだと思うように走ってくれなくなってきていますよ」


 武藤厩舎の調教助手が、苦笑を浮かべながら香織に答える。


 実際の所、香織が調教している時には、それ程に問題行動をとる様子はない。


 サクラヒヨリは、ミナミベレディーに認められている香織を自身より群れの上位者として認識しているからであろう。香織に対しては、以前からも度々甘えるような仕草をする。


 ここ最近では、やはりミナミベレディーに会えないのが寂しいからか、調教が終わり馬体を洗い終わった後で、香織を引き留めるように服を引っ張るような挙動をする。


「ベレディーの音源も、だんだん効果が薄くなって来ていますよね」


「そうですね。ミナミベレディーがいないのに嘶きだけ聞こえるので、逆に怒っている気もします」


 そう告げる調教助手に、香織は苦笑を返すしかない。


 レースなどで一時的に、どちらかが不在の事は良くある。この為、今までも似たような状況は多々あったのだが、サクラヒヨリが美浦トレーニングセンターにいる際はミナミベレディーかサクラフィナーレと調教をする事が普通となっていた。


 2頭共に居ないケースも勿論あったが、此処まで長い期間は初めてだった。


「ミナミベレディーとフィナーレが揃って放牧されていますから。うちのテキも気にはしていましたが、2週目でこれですからね。流石に此の侭で、来週はどうなるか心配ですね」


 調教助手の言葉に、香織も少し心配になって来る。


「今後は、こういったケースも増えていくと思います。だからヒヨリには慣れて貰わないとなんですが。そうですねぇ、いっそのことヒヨリの馬房にベレディーのポスターでも貼っておきます?」


 ポスターが馬の目でどの様に見えるかは判らないが、ポスターと音源の両方を使えば、もう少しヒヨリの気を紛らせる事が出来るかもしれない。


 香織自身も部屋にミナミベレディーのポスターをベタベタと貼っている。そして、日々ミナミベレディーの姿を見て、癒されていたりする。


「確か、馬見厩舎に使用していないベレディーのポスターがあったと思います。馬見調教師にお願いして貰ってきますね」


「馬にポスターって、どう見えるんでしょうか?」


 ポスターの効果に懐疑的な表情を浮かべる調教助手に対し、香織は少し考えて返事をする。


「ちょっと違うかもしれませんが、鏡に映った自分に対し吠える犬もいます。ヒヨリがポスターを見て、ミナミベレディーだと認識してくれる可能性が無くは無いかと。そうですね、どうせ見せるなら牧場にいるベレディーの映像を見せる方が良いでしょうか?」


「いえ、それでベレディーが放牧されていると判ってしまったら怖いので」


 武藤厩舎の面々も、もちろん馬見厩舎の従業員達も、馬に対しての認識がこの1,2年で大きく変化していた。その為、サクラヒヨリが録画された映像を理解出来ても可笑しくないと思っている。ただ、それ故に映像を見せる事で、逆に問題が発生するような気がするのだ。


「とにかく来週末がレースですから、何とかレースまで気持ちを維持させないとですね」


「はい、そこは我々が。ただ、無理を言うようですが、鈴村騎手も出来るだけ調教に来ていただけると」


 そう言って香織に頭を下げるのだった。


 そして、香織は調教の為にサクラヒヨリの所へと向かった。すると、すでに引き運動などを終えたサクラヒヨリが、遠目にも頭をブンブンと振ってご機嫌斜めなのが判る。


「ヒヨリ~~~、どうしたの~~~」


 香織はサクラヒヨリへと声を掛ける。すると、香織に気が付いたサクラヒヨリは、態度を一変させる。


「キュヒヒン、キュヒヒン」


 尻尾をブンブンさせながら香織を出迎えるサクラヒヨリに、香織は思わず笑顔が零れた。


「ヒヨリ、今日も元気そうだね」


「キュフフン」


 香織が近づいて行くと、更に尻尾をブンブン回し香織へと鼻先を突き出していく。その鼻先を優しく撫でてあげると、サクラヒヨリは目を細めて気持ちよさげな表情を浮かべる。


「寂しかったかな? でも頑張らないと勝てないからね。頑張ろうね」


「キュヒン」


 香織の言葉に返事をするサクラヒヨリを撫で、そのまま騎乗して調教コースへと向かっていく。


「今日も坂路を2本だからね。あとでゆっくりお散歩もしようか」


「キュフフフン」


 香織の言葉が判る訳ではないんだろうけど、ベレディーが返事を返すから自然とサクラヒヨリも返事を返すようになったなあ。


 そんな事を思いながら、首筋を優しく撫でコースへサクラヒヨリを誘導していく。


 そして、コースへと入ると、サクラヒヨリは明らかにご機嫌な様子で軽やかに走りだす。その走る様子を鞍上で慎重に探っていくが、特に問題となるような様子はない。


「うん、良い感じだね」


 サクラヒヨリは香織と走る事にご機嫌で、ペースに気をつけないと速度を速めすぎてしまうくらいだった。


「ヒヨリ、もっとゆっくりで良いからね。まだウォーミングアップなんだから」


 香織の声に耳をピクピクさせるサクラヒヨリ。ただ、判っているのか判っていないのか、ペースはやはりやや早めで駆ける。その為、香織はペースを維持するのに苦労するのだった。


 その後、坂路へと向かい此処も馬なりでいくが、サクラヒヨリはここでも手を抜くことなく駆け上がっていく。


「ヒヨリも坂路を嫌がらないから助かるわ」


 ミナミベレディーやサクラヒヨリなどは、鞭を使えないという問題点はあるが、騎手の指示に従い最後まで真面目走ってくれる。ただ、勿論そんな馬はこの2頭のみで、日々他の馬の調教では香織も苦労させられていた。


 その後、サクラヒヨリをクールダウンさせる為に、ゆったりと外周を一周する。


「ヒヨリ、良い感じだよ。ヒヨリは良い子だね」


「キュフフン」


 優しく声を掛けながら、調教後の状態を確認する。


「うん、大丈夫そうだね。全体的に見ても、良い仕上がりだね」


「キュヒヒン」


 馬は元々群れを作る生き物だし、あれだけベレディーに懐いているんだから、会えなければ寂しいよね。私に懐いてくれているのは有難いけど、来週のレースまで調子を崩さない様にしないと。


 ミナミベレディーの代わりだろうと、甘えてくれればより可愛く感じるものだ。もっとも、ここでミナミベレディーの名前を出せば、余計にサクラヒヨリが寂しがる気がする。その為に、ここ最近の香織は、あえてサクラヒヨリの前ではミナミベレディーの名前を出さないようにしていた。


 その後、調教を終えたサクラヒヨリの馬体を綺麗に洗い、軽くマッサージをして馬房へと戻す。


「キュヒヒヒン」


「また明日も来るから大丈夫だよ」


「キュフン」


 明らかに香織を引き留めようとするサクラヒヨリの鼻先を優しく撫で、そう声を掛けて馬房を後にする。


 若干後ろ髪が引かれるような気持ちになりながら、香織は武藤厩舎へと顔を出し今日の報告をする。その後に、今度は馬見厩舎へと向かった。


「こんにちは」


 そう言って香織が厩舎へと入っていくと、馬見調教師と蠣崎調教助手が顔を合わせて打ち合わせ中だった。


「鈴村騎手、調教終わりですか?」


「はい、ヒヨリの調教を最後に持ってきましたので遅くなりました」


 ミナミベレディーの様子の確認や、今後の予定などの打ち合わせを行う為に来たのだが、訪問時間が予定より遅くなったことを謝罪する。


「いえ、鈴村騎手も忙しい中ありがとうございます」


 香織の騎乗機会は、昨年の活躍で確実に増えていた。その為、レース前調教を行わなければならない馬も増え、以前のようにサクラヒヨリやミナミベレディーだけに時間を割く事は難しくなっていた。


 馬見調教師達は勿論その事を理解していた為、逆に毎日のように馬見厩舎へと顔を出してくれる事に恐縮している。


 もっとも、ミナミベレディーの様子が気になっている香織は、声を掛けられなくても情報を求めて訪れるのであろうが。


「ベレディーは、今日ものんびり放牧されていたそうです。まあ、サクラフィナーレと牧場内を駆けまわっているそうで、そのお陰か状態は悪くないそうですね。

 あと、栗東の太田厩舎から、サクラハヒカリ産駒のプリンセスミカミが牧場に到着したそうです。ベレディーに非常に懐いている様子だったと連絡が来ています」


 毎日のようにミナミベレディーの様子を聞きに来る香織に対し、馬見調教師は煩がる事も無く、その日の様子を教えていた。そして、何時もの様に情報交換をして香織は帰宅しようと席を立ちあがった時、馬見調教師に頼みごとがあったのを思い出した。


「あ、馬見調教師、ベレディーが天皇賞を出走した時のポスター余ってませんでした? 出来れば2本程分けていただきたいんですが」


「え? ええ、大南辺さんに頂いて貼る所が無く、そのまま置いていますが。入用ですか?」


「はい。ベレディーがいなくてヒヨリが寂しがっているので、馬房に貼ってあげようかと」


 苦笑を浮かべそう告げる香織を、馬見調教師と蠣崎は不思議な物を見るような表情で眺めるのだった。

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