第121話 有馬記念前の鈴村さんとトッコ
「ブフフフフン」(タンポポチャさんと一緒に、歩けないかなぁ)
パドックでそんな事を思いながら歩いていると、止まれの合図と共に鈴村さんがやって来ました。
ただ、私と違って鈴村さんの顔は、此処最近見た事が無いくらい引き攣っています?
「ブルルルン」(鈴村さん大丈夫?)
お祭りなのに、思いっきり緊張してますね。
せっかくのお祭りなんだから、もっと楽しめばいいと思いますよ? ただ、お祭りって聞いたのに、普段のレースとの違いが良く判りません。
みんなで並んでパレードとかするのかな?
花火も上がらないですし、屋台が出ている様子も無いです。お祭りの音楽も聞こえて来ないのですが、お祭りの運営さんが手を抜いているんでしょうか?
でも、花火だと普通のお馬さん達がパニックになる?
それでも、お祭りと言われれば誰でも思い浮かべる? ピーヒョロといったお祭り特有の音楽が聞こえて来ません。一度くらい聞いてみたいんですが、本当に何となくなイメージするだけで記憶には全然出てこないのです。
多分、前世でもお祭りに行った事が無いからかな?
「ベレディーは、相変わらず落ち着いてるね。宝塚記念の時は、何となく雨が降るかもとか、他に気をとられていたんだけど」
私の鼻先を撫でながら、鈴村さんが話しかけてくれます。
そういえば、今回のレース映像で勉強会をしてくれてましたけど、お祭りの映像は無かったですね。走った後に何かあるんでしょうか? それとも走る前なんでしょうか? そこが非常に気になるんです。
でも、お祭りと言えば夜だから、やっぱりこの後なのかな?
「ブフフフン」(リンゴ飴はないの?)
未だにリンゴ飴への思いは捨てきれないんです。リンゴだけでなく、それにお砂糖でコーティングされているなんて、お馬さんに対して最高のご褒美じゃないでしょうか? ぜひ味わってみたいのですよね。
「ありがとう。大丈夫だよ。ベレディーといると安心できるよ。今日も頑張ろうね」
「ブルルルルン」(そうじゃなくてリンゴ飴が欲しいのよ?)
ここ最近はおやつのリンゴも制限されていたから、お祭りの時くらい良いと思うの。お馬さんのいるお祭りなら、リンゴ飴はあっても可笑しくないよね?
「え? ちょっと。ベレディー、涎が凄いよ! どうしたの!」
ん? あ、想像してたら涎が出ちゃってました! 大勢の人の前でちょっと恥ずかしいですよ!
思わず頭をブンブン振って、涎を落とします。
お馬さんだと涎を拭き取る事が出来ないから、本当に大変なのです。出来たらこっそり何とかしたいですけど、流石に鈴村さんの服で拭けないですよね。
「キュヒン」
何か後ろから、タンポポチャさんの呆れたような嘶きが聞こえて来ちゃいました。思いっきり見られちゃったみたいです。
「ブルルルルン」(恥ずかしい所を見られちゃったよ~)
思いっきり動揺しちゃいます。多分ですけど、お顔は真っ赤になっているかも?
「ベレディー、お腹空いたのかな? レース終わったらリンゴあげるからね。頑張ろうね!」
「ブフフフン」(気分はリンゴ飴なの~)
これ以上リンゴ飴に思いを馳せていると、また涎が出そうなので気持ちを切り替えます。
別にタンポポチャさんの呆れたような視線が、気になった訳じゃ無いんだからね!
でも、タンポポチャさん以外のお馬さんからも、視線が結構飛んでくるんです。これは結構鬱陶しいのです。だ、誰だって美味しい物を思い浮かべたら涎くらい出ますよね! 可愛い失敗ですよね!
「ベレディー、行くよ」
色々と考えている間に、何時の間にかトンネルを通過していました。
そして、気が付けば引綱を外されるところです。
「ブフフフン」(何か時間が飛んだよ?)
「うん、行こうか」
思わず鞍上にいる鈴村さんに、そう尋ねました。でも、返事は貰えず促されて本場場へと入ります。
ただ、私の涎の御蔭かな? 何となく鈴村さんの緊張は緩和された様な? うん、あんな事でもプラスになればそれで良いのです。ただ、ゲート前でグルグルしていると、やっぱりタンポポチャさんと視線が合いました。
「ブルルルルルン」(相変わらず、目に炎が灯っていそうですね)
これから走れるのが、嬉しくてたまらない様子のタンポポチャさんです。視線がバシバシ来ることからも、私との久しぶりの競争を、楽しみにしてくれている様に思えます。
そんな感じでタンポポチャさんを見ていたら、枠順が5番なので早めにゲートへと案内されました。
「ベレディー、頑張ろうね。久しぶりに、桜花ちゃんも来てくれているからね」
「ブフフフン」(うん、頑張る!)
そうですよね、今年のレースでは、桜花ちゃんとは中々会えなかったのですよね。受験だって聞いていたから、仕方が無いんですけどね。
それでも、冬は雪が凄いので、桜花ちゃんの牧場に行けないのです。そうなると、また暫く会えませんよね。
今年もいっぱい走ったなあ。でも、よく考えたらタンポポチャさんとは走れてないし、桜花ちゃんは見に来てくれてないし、持久走は疲れるし、天皇賞は呪われているし、何か今年は今一つな年だったかも?
むぅ、来年は良い年になると良いなぁ。
そんな事を思っていたら、最後のお馬さんがゲートに入ったっぽいです。そこで、鈴村さんからも声が掛かりました。
「ベレディー、そろそろだよ」
私は何時もの様に、グッと体を沈ませてスタートに備えました。
ガシャン!
何時もと変わらず音を立てて、ゲートが開きました。
そのゲートが開くと同時に、私も一気に飛び出します。
「うん、最高のスタートだよ!」
だよね! 私もそんな気がするくらいに、綺麗にスタートが出来た気がしました。
◆◆◆
有馬記念の当日、香織は6レースの2歳新馬戦で騎乗していた。そして、勝てないまでも5番人気3着と悪くない順位でレースを終えている。それでも、肝心の11レースの有馬記念が近づいて来ると、次第に緊張が増し、体が震え始めていた。
「初めてのGⅠの時みたいに、緊張してきちゃったな」
手足が震えているのが自分でも判る。ただ、明らかにあの時と違う事も実感していた。
ミナミベレディーに騎乗して、初めてのGⅠ阪神ジュベナイルを出走。そのレースで大失敗をしながらも、次走の桜花賞で初めてのGⅠ勝利。普通では有り得ない騎乗であり、ミナミベレディーの御蔭で勝てたレースだった。
その後も、幾度とミナミベレディーには秋華賞、エリザベス女王杯とGⅠレースを騎乗させて貰い、2つ目のGⅠ勝利まで経験させて貰った。更に今年は、天皇賞春秋制覇と宝塚記念の勝利。
少し前の自分に話す事が出来たとしたら、何を馬鹿げた夢を見ているんだと笑われるだろう。
今年は其れだけでは無く、サクラヒヨリに騎乗して、桜花賞と秋華賞の2冠を達成する事も出来た。
また、今日の段階で勝利数78勝、リーディングで9位にいる。
今年一年で、以前の10年分に近い勝利数を稼いだのだ。まさに飛躍の年と言っても良いだろう。常に引退の恐怖におびえていた自分が、まさかリーディングで10位以内に入る事など、以前では考える事すら出来なかった。
「みんなベレディーの御蔭だよね」
初めて会った時は、その2歳馬らしからぬ馬体の良さに驚かされた。ただ、明らかにステイヤー寄りの馬体故に、走るレースは限られるとも思った。
それでも、その年待望の1勝目をミナミベレディーで飾る事が出来た。あの時の嬉しさは今も覚えている。
何と言っても、これでまだ騎手を続けられると思ったんだ。
「そっからアルテミスステークス迄3連勝だもんね、決して楽なレースじゃ無かったけど」
今よりもまだ幼いミナミベレディーは、レース毎に体調を大きく崩し、いつも心配していた事を思い出す。もっとも、心配の度合いや内容は違うけど、それは今も変わらないのだけど。
「はあ、そうだよね。いつもベレディーに助けられてきたんだよね」
その後一緒に走ったレースが、次々と頭を過ぎって行く。やはり強烈なのは、初めての、自分が獲れるとは思いもしなかった桜花賞。そこからエリザベス女王杯。春の天皇賞、雨の中の宝塚記念。そして、死闘とも呼べる激戦だった秋の天皇賞。
勿論、その後のサクラヒヨリと走ったレースもある。でも、常に頭に浮かぶのはミナミベレディーの姿だった。
「うん、だいぶん落ち着いて来た。私だけで勝てるレース何て、一つも無かったんだよね。少しはベレディーの力になれるよう頑張るしかないね」
決して自分の力で勝てて来た訳では無い事を改めて思い出し、そこで少しではあるが緊張が緩和された。
「そろそろ、お呼びがかかるかな」
10レースに騎乗していない騎手達が集まっている中、香織はモニターで10レースの結果を確認し立ち上がる。そして、集合の合図でパドックへと移動していくのだった。
香織がパドックへとやって来ると、蠣崎調教助手に引かれながら回るミナミベレディーの姿が視界に入る。
ミナミベレディーはどうやら桜花ちゃんに気が付いたようで、頭と尻尾を振ってご機嫌な様子だった。
「ベレディーは変わらないわね」
小さくそう呟くと、私はミナミベレディーの傍へと向かう。そして、今年最後のレースが始まるのだった。
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