第110話 ヒヨリとエリザベス女王杯

 普段以上に、サクラヒヨリは好スタートを切った。


「最高のスタートだよ!」


 香織が思わずそう声を出す程に、素晴らしいスタートだった。


 枠順が3番という事も有り、好スタートを切れた事で、香織はこのまま先行するつもりでいた。しかし、外から一頭の馬が駆け上がって来る。


「え? プリンセスフラウ?」


 横を見て上がって来た馬を確認すると、プリンセスフラウが勢いそのままに先頭に立ち、後続を突き放しに入る。


「え? エリザベス女王杯で逃げって」


 エリザベス女王杯は、京都競馬場の芝外回りのコースで行われる。このコースは、向こう正面から3コーナーにかけて大きく坂を上る形となる。そして、4コーナーからは一転、緩やかな下りとなり、最後は平坦な直線勝負となる。


 この為、最後の直線上がりタイムが勝負となる事が多い。恐らくタンポポチャは、最後の直線勝負を挑んでくるだろう。


 香織は、昨年ミナミベレディーに騎乗した時と同様に、4コーナーからスパートを掛けて、最後の粘り勝負をするつもりであった。


 恐らく、タンポポチャはタンポポチャで、昨年に近いレース展開で、サクラヒヨリに勝つつもりだと香織は考えている。サクラヒヨリにミナミベレディーほどの粘りが期待できないが、昨年のミナミベレディーに比べれば末脚の鋭さはサクラヒヨリに軍配が上がる。


 最後の直線、タンポポチャを凌ぎ切れれば勝てる。そう考えていた香織は、レースをミドルペースになると想定していた。


 そんな思惑を、プリンセスフラウの逃げが完全に壊してくれた。


 その為、香織はプリンセスフラウを追いかけるべきなのか、それともこのまま4コーナーまで控えるのか、その判断に悩む。


「スタミナはある馬だし、そのくせ、末脚も結構鋭いよね」


 今まで幾度も戦った相手だからこそ、今回の逃げに驚かされた。ただ、末脚ではタンポポチャに敵わないからこその逃げなのだろう。


「ヒヨリ、3コーナーの坂を利用して前に出るよ。ピッチ走法であれば、十分に距離を詰めれるからね」


 1コーナーから2コーナーへ抜けて、向こう正面に差し掛かった段階で、先頭を走るプリンセスフラウと2番手を走るサクラヒヨリとの差は、目測でも10馬身以上に広がっている。


 前の馬との差が此処まで広がった事で、サクラヒヨリは、息を入れることなく追走しようとする。


「ヒヨリ、まだだよ。ここは一旦息を入れないと、最後まで持たないよ」


 香織は、そう言って数回手綱を引いて、サクラヒヨリの速度を落とす。


 すると、早くも後ろからタンポポチャが上がって来て、サクラヒヨリに並びかけ、追い抜いて行く。


「え? ここで前に行くの?」


 後方に控えていると思われたタンポポチャが、この段階で2番手に上がって来るとは思っても居なかった。慌ててタンポポチャの後ろを追走する香織だったが、混乱している間に早くも3コーナーへの登りに差し掛かる。


「ピッチ走法」


 今までのストライド走法から、サクラヒヨリはすぐに走り方を変え、坂を上り始める。


 この段階で、香織は先頭を走るプリンセスフラウへ迫っていく予定でいた。そのサクラヒヨリ以上に早いステップで、タンポポチャが前との差を縮め始めた。


「ヒヨリ、ついて行くよ」


 タンポポチャの後ろからでは、とても差し切れる自信は無い。ただ、ここで脚を使えば、流石のタンポポチャも最後の直線の切れは鈍ると思う。


 前を走るタンポポチャの後ろにつけながら、3コーナーを上り切り、4コーナーへと入った所で、香織は予定通りにサクラヒヨリを追い出しにかかる。


「ヒヨリ、行くよ!」


 坂の下りを利用してのスパート、先頭を走るプリンセスフラウも同様に、此処でスピードを上げている。


 前を走るタンポポチャをすんなりと交わし、サクラヒヨリが再度2番手に上がった。そして、そのまま最後の直線へと入るが、まだ直線は400mはある。


 先頭を走るプリンセスフラウとの差は、まだ4馬身から5馬身はあった。


「ヒヨリ!」


 ヒヨリに声を掛け、ポンポンと2回首を叩く。


 サクラヒヨリは、一気にスパートを掛け前を追いかける。その差が4馬身、3馬身、2馬身と縮まって行く。あと少しで捉えられると思った時、プリンセスフラウが鋭い末脚でスパートし、逆に2馬身、3馬身とゆっくりであるが突き放しに掛かった。


「ヒヨリ、頑張って!」


 香織は声を掛けながら、サクラヒヨリの頭を押す。


 ゴールまで残り200mとなった所で、後方から一気にタンポポチャが追い上げて来た。そして、鎧袖一触と言って良い程に、あっさりとサクラヒヨリへと並びかけ、半馬身程前に出る。


 しかし、タンポポチャが並びかけて来た段階で、サクラヒヨリはハミをしっかりと噛み締め、必死に加速するのが判った。


「ヒヨリ、頑張って! ベレディーが来るよ! 頑張って!」


 サクラヒヨリは、ベレディーの名前で更にスピードを上げる。しかし、タンポポチャは鋭い差し脚で、サクラヒヨリを引き離す。そして、前を走るプリンセスフラウに並びかけて行く。


 そのスピードに必死について行こうと、サクラヒヨリはピッチ走法に走りを変える。しかし、それでも、タンポポチャとの差は広がっていく。


 ただ、ここでプリンセスフラウを捉えるかと思われたタンポポチャも、プリンセスフラウが更に加速した為に差し切るどころか並ぶ事すら出来ない。


 そして、その先がゴールだった。


 プリンセスフラウに続き、半馬身程遅れてタンポポチャが、そして更に1馬身あとにサクラヒヨリがゴールを駆け抜ける。


 先頭で駆け抜けたプリンセスフラウの鞍上で、夏目騎手が高々と腕を上げるのが見える。


 その後方では、脚を止めたタンポポチャが、普段とは違い落ち着いた様子でいるのが見えた。それとは対照的に、騎乗しているサクラヒヨリは、負けた事を理解しているのか、しょぼんとしたように頭を下げ項垂れている。


 ただ、チラチラと視線がタンポポチャに向いている事から、レースに負けたことよりも、タンポポチャに勝てなかった事を悔やんでいるようにも見える。


「参ったね、ミナミベレディーばりの走りをしたな。まさか此処でタンポポチャが負けるとは思わなかったよ」


 タンポポチャを歩かせながら、ちょっと距離を取って立ち止まった鷹騎手が、香織に話しかけてきた。


「私も、ライバルはタンポポチャのみと思っていました。でも、レースの最初から最後まで、プリンセスフラウに振り回されてしまいました」


 香織としては、思い描いた騎乗に近いレースが出来たように思う。しかし、最初からプリンセスフラウについて行けばどうだったのか、そんな事を思わないでもない。


 ただ、それもすべてレースが終わってから思う事で、レース結果が変わる訳でもない。


「タンポポは、エリザベス女王杯は相性が悪かったのかな。ちょっと距離が長いのはあるけれど、それでも2着なんだけどね」


 そう言って苦笑を浮かべながら、検量室へと馬首を返す鷹騎手だったが、タンポポチャは負けた事を気にした様子もなく、終始落ち着いた様子を見せている。


 そして、終始チラチラと、サクラヒヨリを気にしている様子が感じられた。そんなタンポポチャの様子が気になった鷹騎手は、さっさとサクラヒヨリから距離を取ったのだろう。


「ヒヨリ、お疲れ様。ごめんね、勝たせてあげられなくて」


 明らかに負けた事を理解して、しょぼくれているサクラヒヨリの首をトントンと優しく叩く。そして、引き続きサクラヒヨリを宥めながら、香織も検量室へと向かうのだった。


◆◆◆


『各馬、ゲートに納まりまして、今スタート! 3番サクラヒヨリ好スタート! このまま先頭を窺うが、11番プリンセスフラウ出鞭が入り一気前に出る! 更に加速して、早くも後続を突き放しにかかる!


 3番手にはココアプリン、その後ろにスプリングヒナノ。その半馬身横にカラフルフルーツ、すぐ後ろ6番手に、1番人気タンポポチャがいました! そこから・・・・・・。


 2コーナーを回りまして、先頭はプリンセスフラウ。2番手サクラヒヨリまで、10馬身以上離れているか! その後方、早くもタンポポチャが上がって来た。


 プリンセスフラウ独走! 春の天皇賞、ミナミベレディーの大逃げが決まったレースを彷彿させる展開。しかも、その天皇賞で2着に入ったのは、このプリンセスフラウだ。


 プリンセスフラウの逃げを警戒したのか、早くもタンポポチャが上がって来た。サクラヒヨリを交わし、2番手に! サクラヒヨリは3番手、更に後方から、スプリングヒナノも上がって来る。


 レースはまだ中盤に差し掛かった所、早くも各馬の駆け引きが始まっている!


 先頭は依然変わらずプリンセスフラウ、4馬身程後方にタンポポチャ、すぐ後ろにサクラヒヨリ、そこから1馬身後ろにスプリングヒナノ、ココアプリンと続きます。


 プリンセスフラウ、早くも3コーナーへと差し掛かりました。京都競馬場、芝外回り、緩やかながらもコースの高低差4.3mの登り! この後の展開にどう影響を及ぼすのか。先頭を走るプリンセスフラウ、軽快なリズムで駆け上がっていく。


 サクラヒヨリがタンポポチャを外から交わし、2番手に上がって来た。先頭は依然プリンセスフラウ。4コーナーからの下り坂を利用し、スピードを上げる! サクラヒヨリも加速をするが、前との距離は中々縮まらない!


 サクラヒヨリ、前を走るプリンセスフラウに3馬身、2馬身と距離を詰めて来た! ここでプリンセスフラウ、後続を突き放しに入った! 逆に3馬身、4馬身と後続を突き放す!


 最後の直線、タンポポチャ、凄い加速で上がって来た! プリンセスフラウを捉えきれるか!


 スプリングヒナノ、ココアプリンも鞭が入るが伸びてこない!


 タンポポチャ、サクラヒヨリをかわし、現在2番手。更に、前を走るプリンセスフラウを追走!


 サクラヒヨリ、必死に前を追走! タンポポチャ、サクラヒヨリ、2頭並んでプリンセスフラウへ迫るが、その差は縮まらない!


 プリンセスフラウ粘る! プリンセスフラウ粘る! これはプリンセスフラウで決まりか! プリンセスフラウだ! プリンセスフラウだ! プリンセスフラウ、先頭でゴールを駆け抜けました!


 プリンセスフラウ、エリザベス女王杯を制し、念願のGⅠタイトルを手にしました!


 ミナミベレディーを彷彿とさせるレース展開を見せ、華麗に逃げ切りました。タンポポチャは昨年に続き2着! またしてもエリザベス女王杯の勝利を逃しました!』

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