第109話 ヒヨリとタンポポチャのエリザベス女王杯

『今年も好天に恵まれた京都競馬場、牝馬の頂点懸けた激闘が間もなく行われようとしております。芝の状態は良、芝、内回り2200m、昨年の女王ミナミベレディー不在の中、桜花賞、秋華賞と牝馬2冠に輝いた全妹サクラヒヨリ、昨年の姉に続けるのか。


 また、昨年の牝馬2冠馬、GⅠ6勝馬のタンポポチャ。ここはミナミベレディー世代の意地を見せるのか! 更には今年度のオークス馬スプリングヒナノもいます。


 春の天皇賞、惜しくも2着に敗れたプリンセスフラウも虎視眈々と牝馬女王の座を狙っている。それぞれの牝馬達が・・・・・・』


 エリザベス女王杯の出走各馬が、綱を牽かれ、ゆっくりとパドックを回り始める。実況では、そのパドックの様子が映像と共に伝えられていく。


 3番と好枠順を引いたサクラヒヨリは、武藤厩舎の厩務員に綱を牽かれながら、落ち着いた様子でパドックを周回している。しかし、時折顔を上げてタンポポチャの姿を見る。


「落ち着いているのは良いが、思いっきりタンポポチャを意識しているな」


「馬って、鼻もそうですが、記憶力も其処迄良かったでしたっけ?」


 武藤厩舎所属の調教助手と厩務員は、サクラヒヨリを間に挟んで会話をする。パドックへ入ってからは特に、チラチラと視線をサクラヒヨリに向けその様子を窺っている。


 そして、タンポポチャもサクラヒヨリと同様に、時々顔を上げてサクラヒヨリへと視線を向けている様に感じる。その為、タンポポチャを牽引している磯貝厩舎の調教助手と厩務員も、困惑した視線をタンポポチャとサクラヒヨリに送っていた。


「二股かけた本人不在で、何かバチバチやってるぞ」


「いや、それ笑えませんから」


 まだ、こうして雑談をしていられるのは、両馬ともに落ち着いた挙動をしている事と、サクラヒヨリが3番、タンポポチャが9番と離れているからであった。


「一応、鈴村騎手には注意しておこう。これで、レースで掛かったりしたらシャレにならない」


「以前のアルテミスステークスみたいに、タンポポチャが掛かってくれた方が勝率も上がりそうですが」


 二人がそんな話をしている間にも、パドックに止まれの号令が響き渡る。そして、騎手達がそれぞれの馬へと駆け寄って来た。


「うん。ヒヨリは落ち着いてますね」


 エリザベス女王杯へ出発する前に、引き運動とは言えミナミベレディーに会えた。直前まで明らかに気が立っていたサクラヒヨリであるが、ミナミベレディーに会えた途端、急激にメンタルを回復させている。


 その為、鈴村騎手としては移動も大丈夫だろうと思ってはいたが、実際に見るまでは不安だったのだ。


「うむ、落ち着いてはいるんだが。どうやらタンポポチャに気が付いたらしい」


「え? どういう事です?」


 鈴村騎手は、調教助手が何を言いたいのか理解できず、首を傾げる。


「恐らくだが、自分以外にミナミベレディーにマーキングしている相手が、タンポポチャだと気が付いたと思う」


 やたらと重々しく告げる武藤調教師に対し、鈴村騎手はポカンと口を開けた。


「え? まさかですよね?」


「いや、どうやらタンポポチャも気が付いている様子だ。まあ、とにかく騎乗してくれ」


 流石にここで話し込むわけにもいかず、鈴村騎手は急いでサクラヒヨリへと騎乗する。


 そして、サクラヒヨリに乗り本馬場へ向かう最中に、先程までのパドックの様子を聞いた。


「拙いですか?」


「サクラヒヨリは先行するからな。余程の事が無い限りレースには影響しないと思うが、一応は注意しておいてくれ」


 武藤調教師の言葉に、鈴村騎手は大きく頷くのだった。


◆◆◆


 桜川は、サクラヒヨリが本馬場へと入っていくのを感慨深く見ていた。


 父の代でからの付き合いである北川牧場からは、今までに牝馬、牡馬を含め数頭の馬を購入していた。その中で、サクラハキレイ、サクラハヒカリと北川牧場から購入した2頭はGⅢを勝ってくれた。


 北川牧場から今まで購入した馬は、今まで8頭購入し、2頭が残念ながら1勝も出来ず引退したが、どの馬も一生懸命走ってくれる馬達だった。


 サクラハキレイが引退し、その産駒のサクラハヒカリが重賞を制覇してくれた時、持ち馬という以上にその産駒が重賞を取ったという事が嬉しかった。


 ブラッドスポーツ、血統を如何に繋いでいくかが重要な世界。残念ながらサクラハヒカリの産駒は未だ重賞勝利が無く、中々実績が残せていない。そんな中で、サクラヒヨリを購入し、自身初のGⅠタイトルを齎せてくれた。ましてや、既に2勝し、今もエリザベス女王杯へと出走をしようとしている。


「なんというか・・・・・・幸せだね」


 隣にいる夫の言葉に、微笑みを浮かべながら幸恵は見返す。


「あら? まだレースは始まってもいないわよ? 結果が出る前から変な人ですね」


「ははは、結果じゃ無いんだよ。ここに、こうして居られる。その事が幸せな事なんだ。GⅠレースがある度に、そこに出走する馬と、その馬主達を憧れの目で見ていたんだからね。


 僕が所有していた馬の産駒が、2度もGⅠを勝ってくれた。そして、もしかすると更に勝利を積み重ねてくれるかもしれない。もう此処まで来たら、勝ち負けじゃ無いんだ。ただ、最高峰のGⅠを走ってくれる。それだけで嬉しいんだよ」


 まさに、子供のような表情を浮かべる夫に、幸恵は苦笑を浮かべる。


「お金の掛かるお遊びですね。でも、ヒヨリちゃんには感謝です。今までの貴方の負け分を大きく減らしてくれましたから。そういう意味ではフィナーレちゃんにも期待しますわ」


「フィナーレも新馬戦を勝ってくれたからね。周りは期待しているみたいだけど、武藤調教師が言うには桜花賞は厳しそうだね。ヒヨリと違って気性が大人しすぎるらしい」


「あら、そうなんですね。それでも、GⅢくらいは獲ってくれるんじゃないですか?」


 妻の言葉に、思わず苦笑を浮かべる桜川だった。


◆◆◆


「よしよし、タンポポは落ち着いているな。で、サクラヒヨリが気になるかい?」


 鞍上で手綱を握る鷹騎手は、パドックにいる時から、タンポポチャがサクラヒヨリを意識している事に気が付いていた。


「キュフフフン」


 ちょっとイラついたような嘶きをするタンポポチャを宥め乍ら、ミナミベレディーの音源が手に入っていたら、もう少しタンポポチャも落ち着いていたのかと思う。


「此処の所、レース前にはミナミベレディーに会えていたからね。今回も会えると勘違いしちゃったかな」


「キュヒヒン」


 首をポンポンと叩いて宥めながら、鷹騎手もサクラヒヨリへと視線を向ける。


「ミナミベレディーはともかく、その妹には負けられないよ?」


 タンポポチャの状態は、引き続き好調を維持している。スプリンターズステークスを走った疲れを微塵も感じさせる事無く、今日のレースに出走する事が出来た。


 唯一の誤算が、どうやらレース前にミナミベレディーに会えるとタンポポチャが勘違いしていたみたいな事だろうか?


 磯貝調教師が言うには、馬運車が到着した先が、美浦トレーニングセンターで無い事に気が付いたタンポポチャは、それまでのご機嫌な様子が一変したそうだ。


 もっとも、パドックでサクラヒヨリを見た途端、タンポポチャは落ち着きを取り戻したらしいが。


「さて、ゲート入りだよ」


 今日のレースは、中団へ位置取り、最後の直線勝負とする予定だった。展開によっては、3コーナー手前からマクル事も考慮しているが、それも状況次第だ。


「サクラヒヨリは逃げ、または先行するだろうな。プリンセスフラウはどうするかな? サクラヒヨリと競ってくれると楽なんだが」


 最後の末脚勝負をするつもりではいる。ただ、能力上位であるタンポポチャではあるが、展開のみならず、レース前に変にサクラヒヨリを意識していた事に不安を感じる。


 タンポポは、気性がキツイからなあ。


 気性難とまでは言われなくなったタンポポチャではあるが、それでも、何かと難しい馬である事に代わりは無いのだ。


 ゲートへ入り、係員の動きを視界の端に収め、スタートのタイミングを計る。


ガシャン!


 まさにゲートが開く瞬間に、タンポポチャへとスタートの指示を送った。


 そして、タンポポチャがゲートから駆け出すと、すぐ横ではサクラヒヨリがタンポポチャ以上に好スタートを切っているのが見えた。


「焦るなよ、まだ行く時じゃ無いからな」


 軽く手綱を引き、タンポポチャの行く気を抑える。その間に、各馬がそれぞれに位置取りを行うが、プリンセスフラウが早くも手綱を扱いてサクラヒヨリを交わして先頭に立った。


「サクラヒヨリを押さえるつもりか?」


 その動きに追従することなく、自然とサクラヒヨリは2番手につける。しかし、プリンセスフラウはそのまま加速を続け3馬身、4馬身と後続との距離を広げていく。


「まさか、逃げるのか!」


 ミナミベレディー不在のエリザベス女王杯。その為、サクラヒヨリと先行争いをする可能性は考えていたが、まさかプリンセスフラウが逃げるとは想定外だった。


 そして、サクラヒヨリは、プリンセスフラウに追従することなく2番手に控えるようだった。


 芝3200Mを経験しているプリンセスフラウが逃げるか。向こう正面で息を入れるとして、持つのか?


 ミナミベレディーであれば、警戒するであろう逃げだ。しかし、相手はGⅠ未勝利、しかし、春の天皇賞では2着に入っている。紫苑ステークス、ダイヤモンドステークスと重賞を2勝している実力馬だ。


「せめて、サクラヒヨリが競りかけて行ってくれれば違うのだろうが」


 最後の直線で捉えきれるか。タンポポチャの位置取りに悩む鷹騎手であった。

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