第108話 姪っ子ちゃんとトッコと鈴村騎手

 栗東トレーニングセンターにある太田厩舎では、サクラヒヨリの牝馬2冠達成、ミナミベレディーの天皇賞春秋制覇、そしてなにより調教が遅れていると聞いていたサクラフィナーレの新馬戦勝利を受けて、焦りを感じていた。


「プリンセスミカミの様子はどうだ?」


「先日の紫菊賞で疲労が出ていますので、11月末以降になるかと」


 太田調教師は、調教助手の言葉に思わず顔を顰める。


 プリンセスミカミは7月の新馬戦に出走するも、2着と惜しくも勝利を得る事は出来なかった。しかし、その動きは決して悪くはなく、太田厩舎の面々も直ぐに1勝出来るだろうと考えた。


 ただ、問題は新馬戦出走後に発生した。レースを終えて厩舎に戻ったプリンセスミカミは、コズミが酷く回復するのに2週間近くも掛かったのだ。その為、未勝利戦へ出走出来たのは、8月も終わろうかという時期であった。


 その8月に行われた未勝利戦に出走し、出走馬が全7頭という事も有り無事に勝利を収める。


 この勝利を受けて、これからの出走計画をと思った矢先、プリンセスミカミは又もやレース後に調子を崩した。そして、漸く3戦目となる2歳1勝馬対象の紫菊賞へと出走するも、先行し、最後の直線で差され4着に終わった。


「刑部騎手からは、まだ成長途中でムラがあるとの事でしたが」


「確かに、昨年のサクラヒヨリも今頃は苦戦していたな」


 とりあえず1勝出来ている故の安心感はあるが、どうにも馬自体に幼さがある。レースにおいても周囲の変化に弱く、他の馬に気後れをする。そして、競り合いになると、どうしても引いてしまう所が見られた。


「サクラハキレイ産駒の殆どが4歳以降に開花していますから、プリンセスミカミが2歳で1勝出来ているのは上出来かと」


「判っているんだが、どうしてもなあ。調教時は走るんだがな」


 太田調教師が今後のレースを悩んでいると、調教助手が、何かを言おうか、言うまいかといった表情を浮かべている事に気が付いた。


「なんだ? 何かあるのか?」


「はあ、実は磯貝厩舎に同期が居るんですが、その同期がサクラヒヨリが強くなったのは、ミナミベレディーと一緒に放牧したからだと。あと、磯貝調教師がですね、ミナミベレディーの嘶きが入った音源を欲しがっているって言ってまして。まあ酒の席での話ですが」


「そりゃあ、担がれたんだろう。まあ笑い話などには良いが、特定の馬と放牧して強くなれるんだったら苦労はしないぞ? ましてや、馬の嘶きなぁ。まあ、武藤調教師の奇行は有名だが」


 ここ最近では、例のGⅢなら獲れるだろうという言葉の他に、武藤調教師の馬の嘶きを再生させ馬に聞かせるという奇行も、栗東トレセン内では話題になっている。


 ただ、それで実績を出している為に、一部の調教師が効果の程を検証するとかしないとか、実際に何処かの大学に頼んだとか、噂に尾鰭胸鰭がついて広まっている。そんな噂の一旦は、太田調教師の耳にも入っていた。


「美浦の調教師は、独創的な発想をする者が多いな。だがな、競馬は地道に調教するしか無いんだ。何かに頼って勝てるなんぞない。まあ、運の要素も強い。言葉の通じない馬が相手では、レース前に如何にリラックスさせるか、そう言った意味で試行錯誤をするのは悪い事ではないし、その努力は認めるがな」


 実際、馬にクラシック音楽を聞かせるなどの逸話には、事欠かないのが競馬の世界だった。誰もが勝つために、ある意味努力を惜しまない。


「さて、プリンセスミカミの次走をどうするかだな。白菊賞だと調教が間に合わんかなぁ」


 太田調教師は、改めて次走のスケジュールを考えるのだった。


◆◆◆


 武藤厩舎では、今週末に行われるエリザベス女王杯へ向けて、サクラヒヨリの調教に余念がない。


 秋華賞をそれ程無理なく勝利したサクラヒヨリは、エリザベス女王杯へ向けて好調な状態を維持している。体調面のみを語るならだが。


「そうか、ミナミベレディーは今日戻って来てくれるか。これで何とかなるな」


 先週末、天皇賞へと出発したミナミベレディーは、レース後に体調を大きく崩した為に、そのまま福島の競走馬リハビリセンターへと向かってしまった。


 この為、日を追ってサクラヒヨリのご機嫌は下降線をたどり、頻繁にベレディーの嘶きを聞かせていても、馬房を出るとキョロキョロとミナミベレディーを探すような挙動をする。


「フィナーレと一緒に調教できれば、また違うのかもしれませんが。引綱運動だけでは、ミナミベレディーに会えない不満を解消できないようです」


「それでも、フィナーレが引き運動出来るまで、回復してくれて助かったな。放牧での調教が功を奏したか?」


 そう言いながらも、放牧での調教という言葉に思わず苦笑を浮かべる。


「フィナーレの次走もどうするか。12月の葉牡丹賞で考えているが、どう思う?」


「中山ですし、遠征は無いので良いのではないでしょうか? 阪神にしろ、中京にしろ、単独の遠征ではちょっと心配です。精神面ではまだ幼いですから」


 前走においても、移動がミナミベレディーと一緒だったというのは大きい。馬運車で移動中のサクラフィナーレは、ミナミベレディーが真横にいた為に緊張とは無縁で移動する事が出来た。


「毎回、ヒヨリやミナミベレディーと同じ開催日を選ぶわけにはいかないだろう。それに、常にどちらかと一緒だから精神面で幼いのかもしれん」


「まあ、有り得ない話ではありませんね。親離れ出来ていないってやつですかね。ただ、フィナーレほどじゃないですが、ヒヨリもそんな感じですね」


「そうだな、何にせよミナミベレディーが戻って来てくれる。今日午後の調教は、ミナミベレディーと引き運動だ。鈴村騎手も午後から調教をつけに来る。まず軽めに流して、その後だな」


 明日の夜にはエリザベス女王杯へ向けて出発するサクラヒヨリだが、どうやら今日と明日は、ミナミベレディーと会わせられる事にホッとする武藤調教師だった。


◆◆◆


 香織は、ここ数日の状況に非常に困惑していた。


 女性騎手で初のGⅠ勝利から始まって、桜花賞を2年続けて勝利。春の天皇賞、宝塚記念、秋華賞、そして止めの秋の天皇賞と、女性騎手とは思えない記録を更新し続けている。


 今後、この記録を超える女性騎手は出ないのでは、そこまで言われ始めていた。また、海外からも注目を浴び、自身を取り巻く状況は刻々と変化している。


「テレビ番組なんて出ても、何を話していいのか判らないよ」


 そもそも、テレビで顔を売る事など欠片も考えてもいない香織にとって、競馬に集中できない今の状況は、非常にイライラとするものだった。


 それ故に、今では可能な限り美浦トレーニングセンターへと足を運ぶ。それでも、牝馬による天皇賞春秋制覇の影響は大きく、各メディアは香織を追いかけて来る。


「今は目の前のエリザベス女王杯! 何と言ってもタンポポチャがいるから油断できない」


 3歳牝馬で2冠を達成したサクラヒヨリといえど、香織の感じではタンポポチャと比較すると厳しいと言うのが本音だった。


「今日ベレディーが帰って来るって聞いてたし、もう戻っているかな? 大丈夫かな? 元気になってくれてるかな」


 レース後に見たミナミベレディーは、今まで以上に消耗という言葉が当てはまる程、力が感じられなかった。


 表彰式の時には、桜花ちゃんが居たからか元気に見えたベレディーだったが、厩舎に戻った途端に倒れ込むかの様に横になった。その後は、食事もあまり摂らず、眠って回復を図っているように見えた。


 香織が満を持してミナミベレディーの馬房へと向かうと、飼葉桶に顔を突っ込んで食事をしている姿が見える。


「ベレディー、どう? 元気になった?」


 ミナミベレディーに声を掛け近寄ると、飼葉桶から顔を上げ香織を見返してきた。


「ブフフフン」(鈴村さんお久しぶり?)


 そこには、今までの心配が何だったのかと思うほどに、のんびりとした何時ものミナミベレディーの姿があった。


「よかった、ベレディー、よかった」


 大きな怪我は無いとは聞かされていても、あの疲れ切った様子で横たわるミナミベレディーの姿は衝撃的だった。普段見る、ピスピスと横になって寝息を立てて眠っているミナミベレディーとは明らかに違った。


 それが、前のように元気な様子で、ミナミベレディーは目の前に立っている。


「ブルルルルルン」(あのね、私思ったの。もう天皇賞は走るの嫌よ?)


「うんうん、元気になって良かったね」


「ブフフフン」(違うの! 天皇賞は縁起が悪いの)


「うん、ベレディーは良い子だね」


 この後も香織はミナミベレディーと会話をしながら、その鼻先を撫で、首をトントンとしてあげるのだった。


「ブヒヒヒヒン」(うう、天皇賞はやっぱり病気になる!)


 この後、香織が立ち去った馬見厩舎で、ミナミベレディーの嘶きが大きく響き渡ったのだった。

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