第107話 秋の天皇賞 その後
レースが終わって、私は今、なんと! 憧れの温泉に来ていますぅ?
レースが終わってコズミが酷いのは何時もの事ですが、それに加えて何か調子が戻って来なくて。そうたら、福島にあるリハビリセンターの温泉に、連れて行ってもらえる事になったのです。
「プールは時期的に閉鎖されていますが、温泉施設は使用可能です。ウォータートレッドミルで負担を少なく歩かせ、その後は温泉で休ませるのも悪くは無いかと。今回は何と言っても筋肉の疲労が大きいですから、ここで温泉療法を試みてみるのも良いのではないでしょうか?」
「ブフフフン」(温泉に行けるの!)
私を治療してくれている獣医の先生から、唐突に温泉療法の提案があったのです。私は私で温泉という言葉に、思わず痛みを一瞬忘れちゃいました。
「キュヒヒン」(温泉行きたいなぁ)
寝藁に寝そべっている状態から、頭を起こして上目遣いに調教師のおじさんを見ました。
「う~ん。ただ、馬運車の移動もありますし、今の状態で移動は」
調教師のおじさんが躊躇うのですが、流石に私も前みたいに仮病ではないのです。その為、本当に、がっつり痛いのです。起き上がって、大丈夫パフォーマンスなんか出来ませんよ。
でも、憧れの温泉ですよね? かけ流しですよ? 温泉に浸かりながら、リンゴを食べるんですよ?
もう気持ちは、露天風呂に向かっていました。
その後、相変わらず寝返りも中々出来ない、起き上がるのも一苦労、食欲も回復しないの3重苦が続いたんです。それでも、もう少し良く成れば温泉に連れて行ってもらえる、その思いで頑張りました。
そして、夢にまで見た温泉にやってきたんですが・・・・・・あれ、温泉?
確かに、脚の部分まで足湯のように温かいのです。そして、上からはシャワーで、温かいお湯を浴びれます。その後、ホカホカの状態でマッサージして頂けるので快適なんです。
快適なんですが・・・・・・これじゃない感が・・・・・・。
「ブルルルン」(温泉の風情がないの)
大体15分くらいで、温泉からは出るんです。あまり長く入っていると蹄に良くないそうです。
お風呂に長く入っていると、爪が、ふにゃふにゃになっちゃいますもんね。蹄って爪ですよね? そう考えると判る気はします。でも、風情が無いんですよね。
初めの頃は、そう思っていたのですが、2日目、3日目と温泉に入るようになると、やっぱり日本人? 日本馬? とにかく温泉が癖になりそうです。やっぱり温かいお湯に浸かるのって、良いですよね。
「ブヒヒヒン」(温泉来てよかったです)
もっと何日も泊まっていたいなって思うのですが、そろそろヒヨリがエリザベス女王杯に出走する為に、競馬場に出かけるんですよね。私は、ヒヨリが出発する前日に会えるよう、帰る日が調整されているのです。だから、今日の夜には帰る事になっています。
「ブルルルルン」(2泊3日の短い湯治でした)
ただ、ヒヨリ達と一緒に来ても、みんなでゆっくり出来るようなイメージは無いんです。温泉の風情がヒヨリ達に判る判らないではなく、温泉と言うより銭湯とかのイメージなのでしょうか? 銭湯も行った事無いですが、温泉というよりは近い気がします。
◆◆◆
「ベレディーの気分転換も兼ねて温泉療法を試してみたけど、悪くなさそうだね」
馬見調教師は、温泉に入って洗われているミナミベレディーの様子を見ながら、安堵の笑みを浮かべていた。
本来であればもう少し長く滞在させても良いのかもしれないが、今回はあくまで様子見という事で短期の予約しか入れていない。それでも、目に見えてミナミベレディーの様子が回復してきたのには驚く。
「最初は、恐々と温泉に入っていましたが。ベレディーはプールが嫌いですから、そう考えると意外ですね」
蠣崎調教助手が、笑いながらそう答える。何と言っても、三日目となると率先して温泉施設へ向かうのだから面白い。
「脚に負担なく、歩かせられるのは良いな。特に今回のように、疲労が蓄積している場合には効果的だ。今後はもう少し活用を考えようか」
ミナミベレディーは、温泉も気に入ったようだが、それ以上に温泉後のマッサージを楽しみにしている様にも見える。併せて、食欲も回復してきており、馬見調教師達はその事に安堵していた。
「前回のレースは、課題が多かったな。心肺機能の限界と言われてもなあ」
「ベレディーは元々心肺機能が優れているそうですが、流石に先日のレースは、そのベレディーの許容量を超えたと見る方が良いでしたか? それ以上に問題なのは、それでもベレディーが走り続けた事ですが」
「馬は限界を超えても、走り続けると言われているからな。私達はそこを見極めないとならないし、決して馬を死なせるような走りをさせてはならない」
実際に全ての馬がそうだという訳では無いが、ミナミベレディーは最初から限界を超えて走る馬だった。
「アルテミスステークスの後に話した事を覚えているか?」
唐突に馬見調教師が蠣崎調教助手に尋ねる。すると、蠣崎調教助手も、その問いに頷く。
「引退時期を見誤らないように、でしたね」
「ああ。あの時すでにベレディーは、普通より無理をする馬だという事に気が付いていたからな。あれから、桜花賞、エリザベス女王杯、天皇賞春秋制覇、宝塚記念、気が付けばGⅠをすでに5勝だ。もう十分では無いかという思いがな」
複雑な表情で、温泉を出てマッサージを受けているミナミベレディーを見ている。
「ミナミベレディーが早熟な血統であれば、タンポポチャのように今年で引退も有り得るのでしょうが」
ここで、ミナミベレディーが何方かと言えば、晩成の血統である事が問題になって来る。
馬主である大南辺はもちろん、馬見調教師自身も、そして今やミナミベレディーの偉業達成をその目で見た、競馬ファンの多くが更なる偉業を求めている。
「今度は有馬記念、来年は天皇賞、宝塚記念などの連覇、切りが無いな」
まるで何か苦い物を噛み潰したような表情を馬見調教師は浮かべる。
「一応、大南辺さんと話し合いましょうか」
「そうだな、ベレディーは十分に頑張ってくれた。ベレディーに悲劇は似合わない。そう思うよ」
何処か疲れたような表情を浮かべ、馬見調教師は関係者控室へと向かうのだった。
◆◆◆
「タンポポチャの調子はどうだ?」
「良い手応えですね。スプリンターズステークスを走って、次は芝2200mでのレースという事で、少し心配しましたが問題なさそうですね」
磯貝調教師の問いに、鷹騎手は笑顔で答える。
実際に調教を行っていても、4歳で引退させるのが惜しいくらいの手応えを返してくる。
「先日の秋華賞が不完全燃焼なレースになったからな。挙ってエリザベス女王杯に参戦してくるな」
「サイキハツラツは回避して、マイルチャンピオンを選択しましたがね」
自身が主戦を務める3歳馬のサイキハツラツだが、エリザベス女王杯でタンポポチャに騎乗する為に乗り替わりになるかと思われた。
しかし、エリザベス女王杯の出走メンバーを見たサイキハツラツのオーナーは、早々にエリザベス女王杯を諦める。そして、マイルチャンピオンシップへの出走に切り替えたのだった。
「今年のメンバーも、乗り替わりで勝てるメンバーでは無いだろうからな」
そう言って苦笑を浮かべる磯貝調教師だが、だからと言ってマイルチャンピオンシップで勝てるのかと言えば勿論そんなに甘くは無い。牡馬も交えてのレースである故に、掲示板に載る事を考えればエリザベス女王杯の方が可能性は高いかもしれない。
「ミナミベレディーが出走しないだけでも大きいですからね」
先日の秋の天皇賞、あのレースはまさに衝撃的なレースだった。
最後の末脚だけをとれば、ミナミベレディーよりタンポポチャの方が上だと思っていた磯貝厩舎の面々も、ミナミベレディーが見せた最後の伸びを見て、タンポポチャで必ず勝てるという自信を持てなくなっている。
「毎度毎度、あの馬には驚かされるな。ただ、馬見調教師も分かっているだろうが、あんな走りをもう二度とさせちゃあいかん。よくあれで故障なく済んだもんだ」
「最後の伸びは、後ろから見ていても背筋が凍りましたね」
先日のレースを思い出し、鷹騎手はあの瞬間にミナミベレディーを化け物だと思った。
それ程までに、最後の伸びは想定外だった。
「あの馬は恐らく、他の馬よりも頭が良いのでしょう。レースの勝ち負けという物を理解している。そうで無ければあんな走りが出来る訳が無い」
「タンポポチャもそういう所があるな。だからこそあの2頭は仲が良いのかもしれん」
磯貝調教師の言葉に、鷹騎手は思わず肩を竦める。
「流石に、私はあんな騎乗はしませんよ。去年獲り損ねたエリザベス女王杯、今年は何としても獲ります。タンポポチャも、ミナミベレディーの妹などに負けるわけにはいかないですからね。何せミナミベレディーを間に挟んでのライバルですしね」
「そう言って、2頭揃ってこけるなよ」
鷹騎手の言葉に苦笑を浮かべる磯貝調教師だが、ふと真顔に戻って鷹騎手に尋ねる。
「なあ、鈴村騎手が持っているミナミベレディーの嘶き、あの媒体をコピーして貰えないか? 欲を言えば、エリザベス女王杯までに欲しいんだが」
「・・・・・・善処します」
相変わらず無理難題を押し付けて来るなこのおっさん、思わずそう思う鷹騎手だった。
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