第105話 秋の天皇賞 実況と桜花ちゃん
『各馬、順調にゲートへと入りました。ゲートが開き、スタートしました! 5番ミナミベレディー好スタート! 3番ブラックスパロウも良いスタートだ。外から14番オーガブラザー出鞭が入って先頭へ躍り出るか! 2コーナーへ向け、先頭争いが熾烈を極めます。
ここで、やはり先頭に立つのはミナミベレディー! コーナーを回って向こう正面に、しかし、ほぼ並んでブラックスパロウ、前2頭は未だに競り合っている。
前2頭から、2馬身程遅れて3番手にオーガブラザー、そのすぐ後ろにキタノシンセイ、半馬身後ろにコニシルンバ、更に半馬身ほど離れてファイアスピリット、ファイアスピリットは此処にいました。
そのすぐ後ろにシニカルムール、ダンプレンと続き、更に後方にトカチマジック、その後方に・・・・・・。
例年早いレースになる秋の天皇賞、今年も、先頭に立つミナミベレディーがレースを引っ張る。
逃げ馬不利と言われるこのレース、果たしてミナミベレディー、このまま逃げれるのか! 1000mの通過タイムは57.9、これは早い! このペースで逃げ残れるのか! 此処でオーガブラザーが先頭を窺う! ミナミベレディー、速度を上げて内へ入れさせない。2頭、並走のまま3コーナーへ!
先頭は変わらずミナミベレディー、そのすぐ後ろにオーガブラザーとブラックスパロウ、やや遅れてキタノシンセイ。3コーナーを過ぎて、4コーナーから間もなく直線へ向かう所、後続の馬も動いて来た。
一気に上がって来たのはファイアスピリット! トカチマジックも上がって来る! キタノシンセイ、ダンプレンに鞭が入った!
直線に入って、先頭は依然ミナミベレディー、此処で最後の坂が牙を剥く! オーガブラザー足が止まったか! ブラックスパローも伸びない! キタノシンセイ必死にミナミベレディーに追いすがる!
伸びて来たのはトカチマジックだ! これは末脚の切れが違う! 前を走るファイアスピリットを交わし、一気にミナミベレディーを捉えた!
勢いが違う! トカチマジック、ミナミベレディーに半馬身の差をつけ、坂を駆け上がる! しかし、ミナミベレディー再度伸びて来た! ミナミベレディーが再度スパート!
トカチマジックに離されるどころか、ジワジワと差を詰めている!
並んだ! ここで2頭が並んだ! 残りは100m、ミナミベレディーとトカチマジックどちらが勝つのか! 正に意地と意地のぶつかり合い!
ミナミベレディー、更に加速! 抜けた! 突き抜けた! 首、いや、半馬身差をつけてゴール! 勝ったのはミナミベレディー! 凄まじい勝負根性!
最後の直線、一旦は差されながら、再度差し返し、最後に半馬身の差をつけてゴール!
牝馬による天皇賞、春秋初制覇! 逃げ馬が最後に差し返しての壮絶なレース! 凄まじい末脚! 恐るべき勝負根性! 正に、記憶に残る壮絶な一戦、私達は歴史的な・・・・・・』
ゴールを駆け抜けた瞬間、騎乗していた香織は、素早く手綱を引いた。そして、立ち止まったミナミベレディーの首を撫でながら、必死に呼びかけている。
ゴール前にミナミベレディーが見せた最後の加速。それは、手綱を握っていた香織からしても、背筋が凍るような加速だった。
ハッキリ言って、ゴール前でミナミベレディーは既に一杯一杯だった。明らかに香織の騎乗ミスであり、レース全体を通してミナミベレディーは終始ペースを崩されてしまった。
香織は、最後の直線でのスパートを可能な限り遅らせようとした。直線に入った所で、既にミナミベレディーの頭は上がりかけていたのだ。しかし、本来は息が切れ、頭が上がり、脚が止まるはずなのに、ミナミベレディーは加速を続けた。最後の坂でトカチマジックに差されながらも、そこから再度伸びて行った。
有り得ない。勝負根性がどうこうという領域では無い。
それ故に、ゴールラインを超えた瞬間、香織は必死に手綱を引いたのだ。
早くミナミベレディーを止める為に、この加速がミナミベレディーの命を削っているような気がした為に。無事だとしても、この後の競走馬としてミナミベレディーに影響が出るかもしれない。そんな予感に、勝利した高揚感など欠片も感じられるはずがない。
「ベレディー、ベレディー」
普段であれば、すぐに返事を返してくれるミナミベレディーは、必死に酸素を取り入れようと呼吸をしている。その音が鞍上の香織に迄聞こえてくる。ただ、ミナミベレディーは何処か意識が無いような様子で、頭をふらつかせる。
反応の無いミナミベレディーに対し、聞こえてくる呼吸音だけが、ミナミベレディーの生きている事の証明のように思えた。
「ベレディー、ベレディー、大丈夫?」
私が必死に呼びかけると、漸く少し呼吸が整ったのか、ミナミベレディーはキョロキョロと周りを見回す様に視線を動かす。
その意図が判らず、私は慌てて下馬し、ミナミベレディーの正面へと回り、顔と瞳の様子を見る。
「ブフフフン」
ここで漸くベレディーが返事を返してくれるけど、未だに何か挙動がおかしい。
「ベレディー? 本当に大丈夫?」
首をトントンと叩きながら、ミナミベレディーの様子を窺う。しかし、ミナミベレディーは未だに凄い勢いで呼吸を行っていて、何処かおかしい気がする。
「ブヒュヒュヒュン」
それでも、更に返事を返してくれる。ただ、明らかに嘶きがおかしい。
呼吸が整っていないから?
まさかと思い、鼻から鮮血が出ていないかを確認する。しかし、幸いにしてその様な様子はなかった。
「大丈夫ですか? 故障ですか?」
協会の係員が慌てて駆けつけて来る。ただ、私は係員に返事を返すことなく、ベレディーの様子を調べる。
「ベレディーは大丈夫か!」
そこへ、今度は馬見調教師が引綱を手に慌てた様子で駆けつけて来た。
「歩かせていないので、脚などの異常は判らないんですが。ベレディーの反応が変なんです。視線が先程から彷徨うような感じがして」
「移動は出来そうですか? 馬運車を呼びますか?」
協会の係員が尋ねてくる。その為、馬見調教師が引綱を付けて移動を促してみる。
「ベレディー、歩けるか?」
馬見調教師が優しく移動を促すけど、ベレディーは未だに凄い勢いで呼吸をしていて動く様子が無い。
「動きたくないみたいだが、どうだろうか?」
再度、引綱を引くと、そこで漸くゆっくりとではあるけど、ベレディーは歩き始めた。
「ブヒュン」
歩き出したミナミベレディーが、此処で小さく嘶いた。
「ベレディー? 何処か痛い?」
ミナミベレディーの歩く様子を、後ろから確認しながら声を掛ける。しかし、私の問いかけに返事は返ってこない。
「う~ん、これは拙いな。脚を今にも引き摺りそうな感じだ」
「何処かが痛いと言った様子ではないです。だから怪我ではないと思うのですが・・・・・・」
馬見調教師に、私は後ろから見た感想を述べる。
ミナミベレディーの様子は、まるでとても重い荷物を背負っているかのような歩き方だった。
そして私達は、ゆっくりとミナミベレディーを検量室へと誘導していった。
◆◆◆
いつも大騒ぎをする桜花の為に、恵美子は一般の指定席を初めから予約して貰っていた。
レースが始まると、自分の選択が間違っていなかった事を痛感する。
「え~~~、秋天で逃げる! マジで! うわ! うわ!」
天皇賞の秋は、逃げ馬は勝てないと言われていた。今までも多くの逃げ馬が走って来たが、ここ十数年勝てた馬はいなかった。先日のオールカマーでは、ミナミベレディーが不利を受けながらも、最後は差し切り勝ちを収めている。
この為、我が家では金鯱賞で馬群に沈んだ事はあったが、それでも先行差しを狙うのだろうと思っていた。それが、まさか逃げを打つとは、桜花と同様に恵美子も驚いていた。
「逃げて勝てる自信が、あるのかしら?」
春の天皇賞とは違う。東京競馬場の芝2000mは、スピードが出やすく、ハイペースになりやすい。更には、最後の直線で魔の坂が待ち構えている。その坂を越えても、此処から直線は300mも続く。
ここで、今までも逃げ馬は捉えられ、追い抜かれてしまうのだ。
「う~~~ん、いくらトッコでも、無理じゃない?」
変な所で冷静な桜花は、既にレースは終わってしまったかのように椅子に凭れていた。
「うわぁ、前3頭、絶対に残らないよ」
1000mの通過タイムを見て大きな溜息を吐く桜花だが、走っているミナミベレディーと鈴村騎手は、未だにレースを諦めた様子は無い。
「息を入れる場所も無いわね。このままゴールを目指すのかしら」
「う~~~、とにかく怪我さえしなければ。秋天は来年もあるんだし、トッコが無事に走り終えてくれれば、それだけでいい。トッコって無理するから怖い」
普段の様子とガラリと変わり、桜花は祈る様にモニターを見つめている。
その間にも、レースは進んでミナミベレディーは4コーナーを回って、最後の直線に入った。そこで、ミナミベレディーは更に加速していく。ただ、危惧していたように、追い込み馬達の勢いが凄い。
「うわぁ、トカチマジックと、ファイアスピリットの末脚が凄いよ」
それまで開いていた距離を一気に詰め、坂に差し掛かったところでトカチマジックがあっという間にミナミベレディーを追い抜く。それに続くように、ファイアスピリットも上がって来る。ここで恵美子も、桜花も、予想のしていなかった展開が始まる。
「うそ! トッコがまた加速した!」
鋭い末脚と言われるトカチマジックに引けをとらない速度で、離されるどころか先頭に立ったトカチマジックに、じわじわとであるが追い付き始めている。ここまで凄い末脚を、ミナミベレディーが持っているなんて今まで聞いた事も無かった。
「これ、差し返すんじゃない?」
「・・・・・・」
恵美子の問いに返事を返す事も無く、桜花は両手を握りしめてモニターを見続けている。
「あ、勝った!」
自身の言葉を裏付けするように、競馬場全体で凄まじい歓声が沸き上がっている。
この指定席のみならず、眼下に見えるスタンド全体がまるで揺れているかのような錯覚すら覚える。
最後の50mくらい手前からだろうか、ミナミベレディーが更に加速して、半馬身程トカチマジックに差をつけてゴールへと駆け込んだ。
その瞬間を目の前で見ていた恵美子は、それでも、ただ勝ったとしか言葉に出来なかった。
今まで見て来たミナミベレディーのレースは、ハナ差などもあり、厳しいレースも多かった。ただ、今日のレースは今までのレースとは違い、ミナミベレディーが苦しんでいるようにすら見えた。
トッコは無事よね? 大丈夫よね?
競馬場のターフビジョンに、ゴールの先で立ち止まっているミナミベレディーと、騎乗したままミナミベレディーを労っているような、鈴村騎手の姿が映る。恵美子は、そこでやっと安心が出来た。
「桜花?」
普段なら大騒ぎをする桜花が、静かな事に恵美子は漸く気が付いた。まさか気絶してないでしょうね? と思いながら横を見ると、そこには涙をボロボロと流している桜花が居た。
「桜花、どうしたの?」
「トッコが、トッコが、死んじゃうかと、思った」
今のレースで何を感じたのか、桜花がボロボロと涙を流しながら、ゴールした先で立ち止まっているミナミベレディーを見つめていた。
「大丈夫よ。ほら、鈴村さんがまだ騎乗しているでしょ? モニターも見てみなさい、トッコは大丈夫よ」
「うん、うん」
ハンカチを取り出して、自分の涙を拭き取る桜花を見ながら、恵美子は桜花の頭を撫でるのだった。
「ほら、表彰式でトッコをいっぱい褒めてあげましょうね。いっぱいいっぱい頑張ったんだから」
コクコクと頷く桜花を連れて、恵美子は表彰式の会場へと向かうのだった。
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