第103話 秋の天皇賞 前編
ヒヨリと併せ馬をして、秋の天皇賞へ向けて最後の調整に入っています。
ただ、何となく思うのは、ヒヨリの末脚が以前に比べて鋭くなってきています? 油断すると、普通に追い付かれそうになるんです。
姉としては、やはり簡単に負けてあげる事など出来ませんから、表情には出しませんが必死に走りましたよ!
「ブフフフン」(ヒヨリ、速くなりましたね)
「キュヒヒン」
私の褒め言葉に、ヒヨリは体全体で喜びを表現してくれます。
本音では、今のうちにヒヨリを牽制したい気持ちもあるのですが、そこはやっぱりヒヨリの姉ですから! 特にヒヨリは、褒めて育つ子なのです。気を付けて見てあげないと駄目なのは、増長しないように、気を抜かないように、油断は負けにも、怪我にもつながりますよね?
まだまだ、私がしっかり前を走り続けて、お手本になってあげないとですよね。
なので、まずは今度のレースを頑張らないとなのです。ただ、ヒヨリにも出来ればタンポポチャさんみたいな、仲の良いお友達が出来てくれると私が楽になるんですけど。
「ブヒヒヒヒヒン」(仲の良いお友達とか出来ましたか?)
「キュフン」
う~ん、何となくまだみたいです。ヒヨリは引っ込み思案ですからね。良く言われる内弁慶というやつでしょうか? 中々に将来が心配です。
ヒヨリと一緒の調教が済んで、体を洗って貰っています。ここで、厩務員さん達の会話を聞いていると、どうやら明後日がレース本番みたいです。
鈴村さんは前日も騎乗するレースがあるそうで、今日の夕方から競馬場に宿泊するみたい。
「ベレディー、明日はしっかり休養するんだよ。明後日は、牡馬混合のレースだから頑張らないとだよ」
「ブヒヒヒン」(うん、頑張る)
「あと、レースの日は桜花ちゃんも来てくれるからね。レースに勝って桜花ちゃんに褒めてもらおうね」
「ブフフフフン!」(桜花ちゃんが来るの? 絶対に頑張る!)
久しぶりの桜花ちゃんです。夏の放牧以来ですが、その放牧の時も桜花ちゃんは大学と牧場を行ったり来たりして、すっごく忙しそうだったもんね。
「ベレディーは、桜花ちゃん大好きだね」
途端に今まで以上にやる気を見せる私に、鈴村さんがそう言って笑います。
うん、そうですね。やっぱり記憶が戻った時に最初に見たのが桜花ちゃんだからかな? これも刷り込みでしょうか? ただ、別にお母さんとは思っていないのですが、あとは記憶の自分と同年代だからかな?
そう考えると桜花ちゃんも、もう女子大生ですね。時が流れるのは早いです。
若しかしたら、私も女子大生になったりする未来があったのでしょうか? うん、全然実感が沸きません。
もう4年間もお馬さんをやっていると、段々と意識がお馬さんになっていく気がします。といっても、お馬さんの意識ってどんなのかと言われると困るんですけどね。
なにせ、1番の楽しみがリンゴを食べる事ですから。リンゴはやっぱり格別なんです!
そんな事を考えている間に、私は馬房に戻されちゃいました。
「ブヒヒヒン」(リンゴくれても良いのよ?)
リンゴの事を考えていたら、リンゴが食べたくなっちゃいました。
時期的に言っても、今ってリンゴの美味しい時期ですよね?
◆◆◆
『長い歴史のある秋の天皇賞。しかし、今年は例年の天皇賞には無い、牝馬による天皇賞春秋制覇挑戦という、一大イベントが行われようとしています。その偉業達成を自身の眼で見ようと、全国の競馬ファンがこの東京競馬場に集結して来ました。
これまでも、天皇賞春秋制覇した馬は、確かにいました。更には、同一年度における制覇を成し遂げた馬も! しかし、どの馬も牡馬。牝馬にて天皇賞春を制し、春秋制覇の可能性を持つ馬は、今の所ミナミベレディーただ一頭!
そのミナミベレディーが、天皇賞春秋制覇を成し遂げられるのか! その歴史的瞬間を期待して、20万人近い競馬ファンがここ東京競馬場に集まっています!』
天皇賞の実況が始まっている。近年の競馬人気の陰りを払拭させるが如く、競馬協会はこの天皇賞をテレビコマーシャルで大々的に行ってきた。
また、競馬関係の番組のみならず、スポーツ番組においても異例の特集が組まれ、ミナミベレディーの知名度が爆発的に全国に広まったのだ。
そして、その結果がこの東京競馬場の許容できる収容人数いっぱいの、来場者数となって表れていた。その人数は、間もなく19万人に達しようとしている。
「これは凄いな。ここまでの観客数は久しく見ていないぞ」
まさに20年以上前の競馬全盛期を彷彿させる光景に、その頃を思い出した立川騎手は、思わず感動の声をもらす。
「これは、1番人気じゃ無くて良かったですね。これで1番人気の馬に騎乗するなんて、どれだけのプレッシャーになるか」
立川騎手の横で笑いながらそう話すのは、宝塚記念に引き続きキタノシンセイに騎乗する鷹騎手。現在の所、キタノシンセイは5番人気だった。そんな鷹騎手ではあったが、前走でミナミベレディーにあっさりと逃げ切られたが故に、今日どういったレースを行うのが良いか必死に考えている。
「鈴村ちゃんの様子はどうよ? それこそ、前みたいにガチガチになってるんじゃねぇ?」
立川騎手の言葉に、苦笑を浮かべて鷹騎手が視線を向ける。その先には、立川騎手の言葉通り顔を引き攣らせて実況を聞いている、鈴村騎手の姿があった。
「こんな時は、実況なんか見ない方が良いのですけどね。ただ、ここまで圧倒的に1番人気になると、どうしても気になるんですよね」
今日のミナミベレディーの単勝オッズは1.1倍。
誰もが儲けようと言う思いではなく、この歴史的な快挙を一目見たい。一生の自慢にしたい。そんな思いが詰まった応援馬券だった。そして、それ故に騎手に掛かるプレッシャーは、凄まじい物となる。
「こりゃ、今日は貰ったかな」
そう言ってニヤリと笑う立川騎手。彼が騎乗するのは2番人気のファイアスピリット。とは言っても、3番人気シニカルムールとの差は僅かであり、投票締め切り時には逆転しているかもしれない。
「ここ最近、私はシルバーコレクターと言われていますから。此処は勝っておきたい所なんですがね」
鷹騎手としては、此処最近GⅠ勝利から遠ざかっている。秋華賞でも結局3着に終わった。何とか2着にはと思ったのだが、僅かに届かず3着。タートルラビットより前にいたサクラヒヨリとカラフルフルーツは審議対象外であり、2着は変動なくカラフルフルーツとなっていた。
「こうなってくると、注意しないとならないのは、なあ?」
「何が、なあですか。まあ、ファイアスピリットは十二分に注意させて貰いますけどね」
苦笑を浮かべて答える鷹騎手。その鷹騎手に、ニヤリと人の悪い笑みを見せる立川騎手。そのすぐ後、騎手達は係員に呼ばれパドックへと向かうのだった。
◆◆◆
なんか、何時もより凄い人だなぁ。
思わずそう思ってしまう程に、パドックの周りにも人が溢れていた。そして、驚いたのは、パドックに掲げられた応援の横断幕。なんと私の応援が5か所もありました。
「ブフフフン」(私って人気者?)
まだ競走馬としてデビューする前に、最悪はアイドル馬とかでも良いかな? と考えた事を思い出しました。思わず尻尾がブンブンしちゃいますよ?
そんな私の引綱を手にした調教師のおじさんと、厩務員のおじさんは何時もと違い、すっごく緊張しているのが判ります。
何でしょう? 人の多さに驚いているんでしょうか?
「ベレディーは、いつもと変わらないな」
「まあ、馬ですから。ただ、雰囲気に呑まれてる馬もいますね」
「ブヒヒヒン」(鈍感みたいに言わないで!)
二人に抗議しながらパドックを回るお馬さん達を見ていると、確かにイライラしているお馬さんがチラホラ。うん、やっぱり周りにこれだけ人が居ると、気になるのでしょう。お馬さんは繊細ですからね。
止まれの合図で、騎手さん達がゾロゾロと現れました。そして、此処にも繊細な人が居ましたね。
「ブルルルン」(鈴村さん大丈夫?)
いつぞやのレースを彷彿させるような、もう顔色は真っ白で手足が震えているのが判ります。
「鈴村騎手、大丈夫か?」
「は、はい。頑張ります」
「う~ん、緊張するなと言うしかないんだが、ベレディーを見てみなさい。普段のレースと何ら変わりが無いよ」
調教師のおじさんにそう言われるんですが、持久走でなくなったのは大きいのです。もしこれが持久走だったら、絶対にテンションが落ちてました。そこは自信がありますよ!
「トッコ~、頑張って~」
周りの人達の声に紛れて、私を呼ぶ桜花ちゃんの声が聞こえて来ました。
「キュヒヒーーン」(桜花ちゃんだ~!)
声のした方向を見ると、私の応援横断幕の所に桜花ちゃんと、お母さんの姿が見えます。
ブンブンと頭を振ってお返事しますよ!
「桜花ちゃんが応援に来てくれてるね。頑張らないとだね」
「ブフフフン」(うん、頑張る!)
私の鼻先を何時もの様に撫でてくれた鈴村さんも、桜花ちゃんの御蔭で少し落ち着いた感じです。
「うん、鈴村騎手。ベレディーを信じて頑張りなさい」
「はい、前のようなミスはしません」
鈴村騎手は、私に騎乗して本馬場へと向かいます。
その間にも、鈴村さんは自分を落ち着けるかのように、私の首をトントンと叩きながら話しかけて来ました。
「ブフフフン」(大丈夫だよ)
でも、此処まで緊張している鈴村さんを見るのは、久しぶりですね。ちょっと心配ですよ?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます