第100話 秋華賞
『秋の彩が日々色濃く、深く、移り変わる季節。気温も次第に肌寒くなって来ておりますが、この京都競馬場では、そんな肌寒さを吹き飛ばすかの様な熱気が立ち込めています。
間もなく開催される第※※回秋華賞。3歳牝馬限定、芝2000mで競われる牝馬3冠レース、その最後の一戦。今年も競馬ファンにとっては、残念ながら3冠馬を目指す馬は誕生しませんでした。
しかし! 桜花賞をサクラヒヨリ、オークスをスプリングヒナノが勝利し、その両馬の何方かが秋華賞を制し2冠とするのか、それとも他の馬達が残りの1冠を制するのか。
特に、このレースの勝敗如何によって、最優秀3歳牝馬の行方が決まる。そんな別の楽しみがあります!
2冠を獲れば最優秀3歳牝馬の称号に王手をかける秋華賞。芝の状態は良、オークスでは雨によって2冠を逃したと言われるサクラヒヨリ、今日のレースでは、どういった展開を見せてくれるのか。
最優秀2歳牝馬のスプリングヒナノ、オークスに続きこの秋華賞を制し新たな称号を手に入れるのか! まだまだ今年の3歳牝馬・・・・・・』
テレビでは、秋華賞のレース実況が始まる。その画面を見ながら、騎手控室では各騎手達がパドックの馬達の状態を見ていた。
そして、同じように画面を見ながらも、鷹騎手は鈴村騎手へとそっと視線を向ける。
その視線の先には、以前に見た様な、初のGⅠ出走を前にガチガチになっていた姿は既にない。しっかりとした視線を、モニターへ向けている鈴村騎手の姿があった。
重賞の勝利数で言っても、GⅠ出走回数でいっても、まだまだ緊張して可笑しくは無い。それが僅か2年程で、ここまで成長するのかという驚きがある。
当たり前だが、GⅠレースを前に緊張しているのだろう。画面を見ながらも両手を握りしめている。ただ、そこには騎乗する事に対する怯えなど欠片も無かった。
「はぁ、さてさて、どうやって勝つか」
鷹騎手の騎乗するサイキハツラツ。左程に層が厚くない今年の3歳牝馬であれば、GⅠの一つも獲れる才能は有ると思っていた。しかし、蓋を開けてみれば桜花賞は2着、オークスでも2着。そして、まさかのローズステークスもスプリングヒナノに負け2着だった。
「シルバーコレクターは勘弁してほしいなぁ。悪い馬じゃないんだけどな」
それこそ、サクラヒヨリと比較すれば、サイキハツラツの方が明らかに上だと今も思っている。
それでも、サクラヒヨリの紫苑ステークスの勝ち方は、レース後に録画で見た鷹騎手にとって衝撃的であった。明らかに末脚の鋭さが、春に比べて数段上になっているように見えた。
出走メンバーが、ローズステークスより一段下だったのは確かだ。それでも、サクラヒヨリがあの不利な状況で勝てた事は、今後のレースにおいて要注意だ。何より、春には見る事の無かった末脚に警戒が必要だった。
「ミナミベレディー程に極端な感じは無いんだが、逆に芝2000mだと侮れないな」
スプリングヒナノは大体の傾向が見えてきている。その対策は十分に練っていた。もっとも、その通りにレースが進んで終われば苦労は無いのだが。
「GⅠでの1番人気のプレッシャー、鈴村騎手の判断に迷いが出てくれるとありがたいんだが」
騎手達が呼ばれ、鷹騎手は大きく深呼吸をした後に、立ち上がってパドックへと向かうのだった。
◆◆◆
止まれの合図と共に、香織はパドックへと入っていく。
目の前には2番のゼッケンを付けたサクラヒヨリが、武藤調教師達に手綱を持たれ立ち止まって香織を待ち構えていた。
「ヒヨリ、調子は良さそうだね」
「キュヒヒン」
鼻先を撫でながら声を掛けると、特に苛立った様子も無く、ご機嫌な様子のサクラヒヨリが返事を返してくる。
「今日はやる気十分といった感じだね」
再度鼻先を撫でて、その後サクラヒヨリへと騎乗する。
「サクラヒヨリの調子は、これ以上ないくらい良いよ」
武藤調教師も満面の笑みを浮かべている。
「あとは私次第という事ですね。頑張ります」
秋華賞という事で、当たり前に緊張していた。自身もそれを自覚しているし、手綱を握る手も小刻みに震えている。
一昨年は憧れのGⅠに初騎乗し、翌年には思いもかけず勝利する事が出来た。勿論、騎乗している馬の能力の御蔭である。そんな事は判っている。
しかし、その肝心の馬であるミナミベレディーとサクラヒヨリの評価は、依然として今ひとつの評価だ。そこは血統のせいなのか。そんな評価に反し、香織の騎乗は先行と逃げに関してのみは高い評価を受けている。
勝てたのは、ベレディーの御蔭なんだけどね。
実績を出せば評価が上がるのは当たり前だが、その評価に実態が伴っていないと香織自身は判っていた。その為に、今も絶えず騎乗経験を積んで、少しでも騎乗技術を上げようと努力している。
「ヒヨリ、今日は頑張ろうね」
「キュヒン」
ミナミベレディーとは違い、サクラヒヨリはちょっと神経質な所がある。どちらかと言えば臆病なのだろう。それでも、ミナミベレディーと香織の事は、信頼してくれているのが判る。それ故に、サクラヒヨリを何とか勝たせてあげたいのだ。
でも、ヒヨリはお勉強が苦手だからなぁ。
結局、過去のレース映像に基づいた説明を、サクラヒヨリが聞いてくれることは無かった。
ただ、レース前になると香織は毎日のように馬房に訪れ、サクラヒヨリに話しかけた。その事で、より強い絆のようなものが生まれたのを感じている。
「さあ、後は任せた」
「任されました」
本馬場前で引綱を外され、サクラヒヨリをゲート前へと走らせる。
観客席の前を通ると、一斉に沸き上がる歓声に思わず笑みが零れる。香織は、サクラヒヨリの首を優しくトントンと叩いた。
「みんなが、ヒヨリを応援してくれてるね」
まあ、ヒヨリはベレディーに応援されるのが一番なんだろうけどね。
香織はゲート前の馬溜まりで、サクラヒヨリを停止させる。そして、他の馬と同様にサクラヒヨリを歩かせて、ゆっくりとゲート入りを待つのだった。
そして、ゲート前へと移動する。サクラヒヨリは素直にゲート入りするが、香織は何時もの様に首をトントンと叩き宥めながら、他の馬達のゲート入りを確認する。
「うん、ヒヨリ、そろそろだよ」
声色を変えてヒヨリへと声を掛け、叩いていた手を止めて手綱を握る。
ガシャン!
音を立ててゲートが開いた。
そして、サクラヒヨリはしっかりと反応し、ゲートから飛び出し加速していく。
「最高のスタートだよ!」
思わず香織がそう告げるほどに、ミナミベレディーのお株を奪うぐらいに、最高のスタートだった。
スタート直後に上がった歓声すら、あっという間に置き去りにしてサクラヒヨリは先頭でコーナーへと突入していく。どちらかというと、先行というより若干逃げに近い。後方の馬とは、2馬身から3馬身程の距離が出来る。
「向こう正面の直線で、息を入れるからね」
何時もの様に、レースの展開をサクラヒヨリに聞かせながら、香織はカーブを利用して後方の馬達の様子を窺う。すると、スプリングヒナノも、サイキハツラツも、普段ならもう少し前方にいる馬達が、中団辺りに縦長に展開しているのが見えた。
「中団からの差し? 前よりではなく直線勝負? 何を狙ってるんだろう」
後方にいる2頭の動きが気になりながらも、早くもサクラヒヨリは向こう正面の直線へと入る。
「ヒヨリ、ここで息を入れるよ」
香織は、ここでサクラヒヨリの速度を落とし、息を入れさせる。
香織の体感では、ここまでのペースはやや早いくらいだと思っている。
ただ、レース自体は、単騎逃げになっているサクラヒヨリを除き、後方で先頭集団を形成している馬達が、レース自体のペースを作っているように思えた。
「向こう正面のここで、差を詰めて来る?」
ここまで自由にサクラヒヨリを走らせている理由が今一つ判らない中、サクラヒヨリのペースが落ちた事によって、次第に後方から蹄の音が近づいて来るのが判った。
そして、まもなく3コーナーへと入る所で、驚いたことに後方から一気に前へと進み出る馬が現れた。
「え? ここからスパートするの?」
最後の直線の距離が短いとはいえ、まだ3コーナーと4コーナーを含めると1000m近い距離がある。あまりに早いスパートに思わず驚く香織だったが、後ろからの蹄の音にすぐに冷静さを取り戻した。
すっと馬体を併せて来た馬を見ると、16番のタートルラビットだった。
確かこの馬は、外国産馬でどちらかと言えばステイヤーだったよね。一か八かのロングスパートの可能性はある?
悪路を得意として、この6月以降に勝ち上がって来た馬だったと記憶している。
ただ問題は、この馬を前に出す事でサクラヒヨリが囲まれる事の方が怖い。後ろから明らかに他の馬達も上がってきているのが判る。
「ヒヨリ、前に行くよ」
タートルラビットが半馬身程前へと進んだところで、香織はサクラヒヨリの手綱を扱きスピードを速める。タートルラビットと併せ馬の様な状態で、3コーナから前へと押し出していく。
香織の指示にサクラヒヨリは直ぐ反応し、タートルラビットに抜かせる事無く前へと脚を早める。すると、タートルラビットは一転してサクラヒヨリの真後ろへと入った。
「え? あっさり下がるの?」
サクラヒヨリは速度を上げて3コーナーへ入る。そして3コーナーを抜け、4コーナーへと差し掛かった所で、再度タートルラビットが上がって来た。
「もしかして、ヒヨリのペースを崩したい?」
そう思いながらも、香織は4コーナー出口までの緩やかな下り坂を利用して、力強くトントンとサクラヒヨリの首を叩いた。
「ヒヨリ、行くよ!」
スパートの合図に、サクラヒヨリは4コーナー中盤から一気に加速する。タートルラビットを置き去りにして、そのまま直線コースへと入った。ここで加速していた為に、若干外へと膨らむ。しかし、香織は芝の状態が良い所を選び、更に後続を引き離しにかかった。
そして、京都競馬場の平坦な直線を、サクラヒヨリ独走で一気に駆け抜けたのだった。
「え? うそ? 後続が全然来なかった?」
掲示板を見ても特にレコードの文字は無い。ただ、審議の文字は点灯している。今回のレースは、香織の体感としてもそれ程早いペースではなかった。
それなのに、後続の差し馬達は最後の直線でヒヨリに並ぶ事無く、2着に入ったサイキハツラツですらサクラヒヨリから1馬身後ろでのゴールだった。
「何が起きたの?」
思わず香織がそう疑問に思うほど、レースはサクラヒヨリの完勝で幕を閉じる。
ただ、香織が馬首を返し後方を見ると、直線に入った所で一頭の馬が止まっているのが見えた。
「え? まさか故障・・・・・・」
レース中の馬がレース途中で止まる理由は、それ以外に考えられ無い。ただ、香織には角度の問題で、その馬が何番で、どの馬なのかは判らなかった。
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