第98話 やっと回復してきたトッコと、武藤厩舎と鈴村さんと

 タンポポチャさんとお別れして、2日後には私の調教も再開されました。


 もう少し早ければ、一緒に走れたのかなと残念に思いますが、こればかりは仕方がありません。その代わりと言っては何ですが、ヒヨリと一緒に走る事が増えました。


「ブフフフン」(ヒヨリは調子良さそうね)


「キュフフン」


 うん、何となく得意絶頂? でもね、そういう時こそ気をつけないと、怪我をしかねないのを私は知っていますよ。


「ブヒヒヒン」(怪我には気をつけるのよ)


「キュフフン」


「ブルルルルン」(怪我したらお肉一直線よ)


「キュヒン」


 判っているのか、判っていないのか。でも、怪我は心配なのです。


 ヒヨリの今度のレースは、私がタンポポチャさんに負けた秋華賞だそうです。


 レース名を聞いても、最初はピンと来なかったんです。でもですね、失礼な事にヒヨリの厩舎の人が、昨年は私が負けたを連呼するんです! 酷いと思いませんか?


 その為か判りませんが、ヒヨリが、やたらにやる気になっているんです。


「ブフフフン」(無理しちゃ駄目よ?)


「キュフフン」


「ブルルルン」(負けても大丈夫だからね)


「キュヒヒン」


 べ、別に姉の尊厳だ何だで言っている訳じゃ無いですよ。本当にヒヨリが無理しないか、それを心配しているんですよ。怪我しちゃったら元も子もないですからね!


 そんなヒヨリとコースを一緒に走るのですが、程々ですよというのに、ヒヨリは元気に駆け回るのです。


「ブフフフン」(私だって疲れるのよ?)


「キュヒン」


 うん、相変わらず何を言っているのか判りませんね。


 病み上がりの私では、このテンションのヒヨリを相手にするのは、ちょっと辛い物が・・・・・・。


「サクラヒヨリは絶好調な感じですね」


「併せ馬をしていても、ベレディーが引っ張られている感じですね」


 ヒヨリの鞍上にいる鈴村さんと、いつも鈴村さんと交代で乗る騎手さん? が会話をしています。


 でもね、私は病み上がりだからね! 無理すると怪我しちゃうから、自重してるんだからね!


 ただ、言葉にするとヒヨリが、また何か言いそうなので黙ってますけどね!


 嘘じゃ無いんですよ。実際にまだ余裕はあるんです。ただ、先日まで筋肉痛だったので、ちょっと恐々動いちゃうのは仕方が無いと思います。


 その後、ヒヨリとの調教を終えて、綺麗に洗って貰ってから私は馬房へと戻りました。


 相変わらず洗って貰った後に、ハムハムされるんですけどね。せっかく綺麗に洗って貰ったのになぁって思ったものですが、最近はもう慣れちゃいました。


 ヒヨリが走るレースの方が早いので、鈴村さんはヒヨリの馬房へ行っています。でもね、ヒヨリにレースの映像を見せても駄目だと思うのです。先日、ヒヨリは全然レースの映像を見てくれないって愚痴ってたけど、普通は当たり前だと思うんですよ?


 そんな私ですが、今度のレースがなんと! 芝の2000mだという事を知りました! あんなにも、どんよりしていた気持ちが晴れやかになりましたよ。


 同じ名前のレースなのに、芝2000mと3200mがあるなんて紛らわしいですよね? そのせいで渾身の演技で調教師のおじさん達に心配までかけちゃいました。仮病だってもうしませんよ。今度のレースは芝の2000mで持久走じゃないんですから!


「ブフフフフン」(2000mだったら、そんなに苦しくないよね?)


◆◆◆


 サクラヒヨリの調教を見て、武藤調教師の表情に笑顔が浮かぶ。


 先日の紫苑ステークスを走った時と変わらずに、サクラヒヨリは好調を維持している。天候も今の所、晴れの予定だった。これであれば秋華賞において勝ち負けまではもっていけるだろう。


「桜花賞の時から比べ、ヒヨリは成長している。すべてが一変していると言っても良い。もっとも、他の馬達も同様であろうが、雨でさえなければ勝負にはなるだろう」


「昨年の今頃を考えれば、天と地ほど違いますね。あの頃は勝てなくて、どうやって勝てるようにするかで、頭を悩ませていましたから」


 未勝利戦は勝ったが、その後が良くなかった。丁度、昨年の今頃は、悩みに悩んでいた時だった。その後、鷹騎手が騎乗してくれたこともあり百日草を勝つ事が出来たが、次のレースでは大敗した。


「あの頃は、晩成だからと若干諦めていたがな。ただ全姉のミナミベレディーが桜花賞でGⅠ馬になっていたからな。上手くいけばとの思いもあったが、走らなかったからなぁ」


 先行馬としての資質は、それなりには感じていた。百日草を粘り勝ちし、2勝馬になったまでは良かったが、距離適性に悩まされていた。自身で調教していて感じたのは、マイルは厳しいとの評価だった。


「そう考えれば秋華賞、エリザベス女王杯と楽しみに出来るんだ。贅沢なんだろうが、今年は今年でフィナーレに悩まされているがな」


 そう言って、苦笑を浮かべる武藤調教師の視線の先には、サクラヒヨリと離れて調教を受けているサクラフィナーレの姿がある。


「それでも、放牧前とは一変しましたね。体力面でのひ弱さはありますが、トモもしっかりしてきましたし、精神面でも鍛えられてます。まあ、ヒヨリが思いっきりスパルタしてますからね」


 目の前では、コースを回って来たサクラヒヨリが馬なりで走っている。そして、その先を走るサクラフィナーレへと、目標を定めたように見えた。


「ヒヨリも、最初の頃はミナミベレディーに良く追い立てられたそうだからな。まあ、妹でそれをやり返している訳では無いだろう」


「フィナーレもヒヨリには懐いていますから。もっとも、それ以上にミナミベレディーに懐いていますけどね」


 フィナーレも時々、ミナミベレディーと一緒に引綱に引かれて歩く事がある。


 その時のフィナーレの喜び様は、正に凄いの一言だ。ちなみに、サクラヒヨリも併せて3頭一緒になると、サクラヒヨリのフィナーレに対しての牽制もこれまた凄い。


 ミナミベレディーに擦り寄ろうとするフィナーレに対し、サクラヒヨリがその間に割り込む事などざらだ。


「フィナーレも、新馬戦が決まったしな。欲を言えば、年内で2勝しておきたいのだが。そうすれば、桜花賞に出走する条件的にもな」


「流石に、フィナーレで桜花賞は厳しいと思いますが。まあ、昨年この時期のヒヨリが、桜花賞を勝てるとは思っていませんでした。そう考えれば有りかもしれませんが、達成すれば凄い事ですね。3年連続、全姉妹による桜花賞制覇ですか」


 そう言って笑う調教助手に苦笑を返しながら、武藤調教師はふと真顔に戻る。


「サクラヒヨリには、秋華賞をまず獲らせてやりたいな。そうすれば牝馬2冠だ」


 桜花賞より秋華賞の方が、適正距離的に問題は無いと思う。4歳以降のレースを考えると、今此処でGⅠを2勝しておくのは大きい。


「来年以降は、下手しなくてもミナミベレディーという壁がいますしね。春の天皇賞に限ってみれば、どう考えてもミナミベレディーに勝てそうなイメージは湧きません。今年のあのレースは反則ですよ」


「そうだなぁ、あの距離で逃げられたら、ましてやスタミナ的にも問題無いと来たからな。ましてや晩成だぞ?」


 苦笑を浮かべる武藤調教師は、それでもサクラヒヨリに勝利を齎さなければならない。


「タンポポチャが引退するが、ヒヨリにマイラーやスプリンターの適正無いからなぁ」


 早くも来年の事で、苦悩する武藤調教師だった。


◆◆◆


 鈴村騎手は、サクラヒヨリの状態には満足していた。


 体調もベストと言っても良い状態を維持しており、サクラヒヨリの状態は目に見えて良い。それ故に、ミナミベレディーの獲る事の出来なかった秋華賞を、是非とも勝ちたいと思っている。そして、その為の対策もしているのだが・・・・・・。


「ヒヨリちゃん? ほら、このレース見てごらん? ベレディーが勝てなかったレースだよ。ここで、最後にタンポポチャに負けちゃったの」


 秋華賞のレース映像を映しながらサクラヒヨリに見せるのだが、残念ながら一向に興味を引かない。


「ベレディーの名前には反応するのに、映像は判らないのかなあ」


 ミナミベレディーの出場しているレースであれば、サクラヒヨリも反応してくれるかと期待をしていた。しかし、サクラヒヨリはミナミベレディーの名前には反応して耳をピクピクさせはするが、ノートパソコンと関連付ける事は無く無関心だった。


「だめだなぁ。ベレディーみたいに出来るかと思ってたんだけど」


 同じ厩舎内であれば、ミナミベレディーとサクラヒヨリが並んでノートパソコンを見るなどして、映像に馴染ませる事も出来るかもしれない。ただ、流石に別厩舎の馬を夜一緒にする事は難しいだろう。


「失敗したなぁ。ベレディー達が北川牧場に居る時に、試してみればよかった」


 そもそも、馬に映像を見せてどうなるのかという疑問など欠片も無く、鈴村騎手は如何にヒヨリにレースを覚えさせるかで悩んでいるのだった。

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