第95話 レース後のトッコと磯貝厩舎
トッコさんお怒りのレースが終わって、馬運車に乗せられて美浦トレーニングセンターへ帰ってきたのですが、トッコさんはピンチです! 思いっきり筋肉痛で苦しんでますよ! ちょっとお怒りモードで走ったのですが、その日は全然問題なかったんです。でもですね、寝て起きたら体中がギシギシと軋んでいるみたいなんです。
「ブフフフン」(体中が痛いの~)
私の様子を見に来ている調教師のおじさんにそう訴えます。
「やはりコズミが出ましたか。あの末脚での追い込みで、出るとは思っていましたが」
「何時もの筋肉注射はしてもらったのですが、べレディーも辛そうですね」
寝藁にゴロンと寝転がってる私を見て、心配そうにおじさん達が見ています。
でもね、あの注射ってすぐに効いて来ないんです。何度も経験しているから知ってるんですよ?
「ブフフフフン」(痛いの~、だから持久走は無理なの~)
若しかしたら、右足が肉離れ起こしてないかな? って期待したんだけど、残念ながら筋肉痛だけだったの。
だから、しっかりと筋肉痛をアピールしないとですよね。
「今日のところは様子見だな。明日以降の引き運動で、調整していくしかないね」
「そうですね。レースまで、まだ一月以上ありますから。それに、以前に比べて回復速度も上がっています」
調教師のおじさん達の会話で、レース回避の言葉はまだ出てこないですね。
これは、明日もしっかりと筋肉痛をアピールしないと駄目かもしれません。
「明日の引き運動は、サクラヒヨリと一緒にするか。べレディーも多少は痛みから気が紛れるだろう」
「そうですね、しかし、せっかくタンポポチャが来てくれているのに、此の侭だと会えずじまいになりそうですね」
ん? おじさん達の会話に、タンポポチャさんの名前がありました?
「今週末のスプリンターズステークスに出走する為に、今日到着するんですよね?」
「ああ、出来ればべレディーと引き運動でも良いから一緒にさせたいとの事だったが、肝心のべレディーがこれではな」
あれ? タンポポチャさん、今日この美浦に来るのですか?
「ブルルルン」(タンポポチャさんに会えるの?)
私は寝転がった状態から、首を上げて調教師のおじさん達を見ます。
すると、おじさん達も私の方を見ました。
「ん~、まあ明日、獣医の先生の診察しだいだが、べレディーのコズミがあまりに酷い様だと、引き運動も厳しそうだからな」
「そうですね、まあべレディーの回復しだいですが」
私は、痛む体を無理して起き上がりました。
ほら、大丈夫ですよ? 引き運動くらいなら問題ないですよ?
脚を上げ下げして、調教師のおじさん達に様子を見せます。
「ブルルルルン」(タンポポチャさんと、お散歩したいですよ?)
そんな私の様子を見て、調教師のおじさんが何か考え込んでいます。
その横にいるおじさんは、何故か後ろを向いていますが、どうしたんでしょう?
「べレディー、しっかりとご飯を食べて、水も飲んで、ゆっくり休むんだぞ。明日の朝、獣医の先生にしっかりと診てもらおうな。無理しちゃだめだからな」
「ブフフフン」(しっかり休む~)
私は言われたとおり、ちゃんとご飯を食べることにします。ちょっと残したんですよね。
でもね、筋肉痛は嘘じゃないのよ? 体がギシギシいっているのは、本当なんだからね?
◆◆◆
馬見調教師と蠣崎調教助手は、ミナミべレディーの馬房から事務所に戻って来た。そして、ミナミベレディーの状態について意見を交わす。
「いやぁ、朝のべレディーの様子を見た時は、本気で焦りましたよ。真面目に、天皇賞は無理かと思いました」
そう告げる蠣崎調教助手の表情は、思いっきり苦笑が浮かんでいた。
昨日のレースを終えて、美浦トレーニングセンターへと戻って直ぐに、ミナミベレディーは獣医の検診を受けた。そして、幸いにも大きな故障などは診受けられないとの診断を受けた。
ただ、今までもレース翌日にはコズミを発症していた為、今日朝一番での診察と、筋肉注射も依頼していたのだ。
そして、早朝にミナミベレディーの様子を見た蠣崎調教助手は、以前のようにぐったりと横たわるべレディーを見て、慌てて馬見調教師を呼びに行った。
その後、獣医師の先生が朝一番に診察し、注射をしてもらった。その後、先生から聞かされた診断に、二人揃って唖然としてしまった。
「確かにコズミは出ているが、引き運動くらいなら問題はないよ。注射もしたし、数日で軽くなら走らせても問題ないくらいには回復するかな」
「え? いや、べレディーは、結構コズミが苦しそうなんですが?」
「ああ、あれは仮病だね。恐らく昨日のレースが結構疲れたんだろう。ただ、思ったほど体調も悪くはないから、コズミが酷いふりをしてるんだね。仮病を使う馬なんて珍しくないだろう?」
獣医師の先生が言うとおり、馬見調教師が今まで預かった馬の中にも、調教が嫌で仮病を使う馬はいた。ただ、今までミナミベレディーが仮病を使った事が一度もなかったのと、毎回レース後には体調を崩していた為に、仮病とは欠片も思わなかったのだ。
「あの馬は賢いからね。たぶんレース後に体調を崩せば、ゆっくり出来るって覚えてるんじゃないかな? まあ実際に今までは、体調を崩していたからねぇ」
そう言って笑う獣医師だが、それこそミナミベレディーが美浦トレーニングセンターに来てから、ずっと診察をしてくれている獣医師だ。それ故に、実際にコズミが起きているのか、それとも仮病なのかの判断がついた。
「しかし、面白い馬だね。そうだ、確か明日にはタンポポチャ号が来るんだろ? ミナミベレディーの前でタンポポチャの話をしてごらん。凄い勢いで回復するかもしれないよ?」
そう笑いながら告げた獣医師の言う通りに、ミナミベレディーの前でタンポポチャの話題をしてみた。
すると、先程までグッタリしていたミナミベレディーが起き上がって、飼葉を食べ始めるのだ。更には大丈夫ですよとでも言うように、脚を上げ下げまでしてくれた。その様子に、二人は吹き出すのを堪えるので必死だった。
「ただ、実際にコズミは出ているそうだから、無理に走らせるのは厳禁だそうだ。明日は、あくまで引き綱での運動のみ。回復状況を見ながら慎重に行こうか」
「判りました。ここで無理をされて、本当に故障でもされたら大事ですからね」
とりあえず、馬見調教師は明日からの予定を考える。武藤調教師からも、引き綱での散歩だけでも良いので、サクラヒヨリと一緒にさせて欲しいと頼まれた事を思い出す。
「しかし、べレディーも人気者で辛いね」
「本当に、引き綱での運動って、引いている私達が一番辛いんですよ。午前と午後と担当を分けるにしても」
そう言うと、蠣崎調教助手は大きく溜息を吐くのであった。
◆◆◆
「ふむ、そうか、引き綱での散歩であれば、午後にご一緒していただけるか。それは助かったな」
磯貝調教師は、タンポポチャを美浦トレーニングセンターへと送る手はずを整えた中、馬見厩舎にミナミベレディーの様子伺いをした。先日のレースを勿論のこと磯貝調教師も見ており、例のネクロミアの疑惑の行動を見た瞬間、思いっきり激怒し怒鳴り声を上げていたのだ。
ただ、その後のミナミベレディーの末脚を見て、その激怒した感情はあっさりと別の感情に塗り替えられたのだが。
「ええ、レースの疲労で今回は断られるかと思いましたが、ミナミベレディーへの負担は、それ程大きくは無かったようで安心しました」
調教助手の言葉に、磯貝調教師は少し考えた後に返事をする。
「もともと晩成の血統だからな。ミナミベレディーも、漸く馬体が仕上がって来たんだろうな。そういう点では晩成の馬は羨ましい」
磯貝調教師の言葉に、磯貝厩舎にいた他の面々は驚きの表情を浮かべる。
「それって、つまり今までは、まだ仕上がってない状況であの成績を出してたって事ですか?」
「いや、それだと、これから更に強くなるって事です?」
調教助手たちの言葉に、頭を掻きながら磯貝調教師は説明をする。
「そもそも、ミナミベレディーはひ弱ではないぞ。それなのにレース毎に体調を崩すのは、明らかに無理が祟ってるからだ。ただ、馬自体は、恐らく丈夫なんだろう。故障という故障はない。という事はってところだな。まあ実際は知らんが、大きく外れちゃいないだろうよ」
「うわぁ、歴代最強牝馬の称号も夢じゃないですね」
「ああ、あっちは少なくとも5歳までは走るだろうからな。羨ましすぎるぞ!」
実際のところ、タンポポチャが来年も走ったとして、今年ほどの実績を残せるかは微妙だ。タンポポチャの血統は、やや早熟といった所で4歳がピークだからだ。
「まあ、スプリンターズステークス前に引き綱での運動であろうと、ミナミベレディーと一緒に出来るなら、それに越したことはない。美浦トレセンに行ったのにミナミベレディーに会えなかったら、それこそタンポポチャのご機嫌がどうなるか。何故か、美浦トレセンだって判るみたいだからなぁ」
タンポポチャの明日の移動を考えながら、磯貝調教師はミナミベレディーの体調が悪くなかったことに安堵するのだった。
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