第89話 サクラヒヨリと紫苑ステークス
香織はパドックで停止しているサクラヒヨリへと駆け寄り、鼻の上を優しく撫でる。そして、何時もの様に話し掛けて、サクラヒヨリを落ち着かせていく。
「うん、落ち着いているね。ヒヨリは良い子だね」
そう言って語りかけながら、サクラヒヨリの状態を確認する。明らかに、これからレースだというのが判っている様で、程よく気合が入っているように見えた。
「うん、大丈夫だね。頑張ろうね」
「キュフフン」
香織は、サクラヒヨリの返事に思わず微笑を浮かべ騎乗する。
「鈴村騎手、今日も頼みますよ」
「はい、頑張ります」
サクラヒヨリの引き綱を持つ武藤厩舎の調教助手に、香織はそう返事を返す。
そんな香織の視線は、2頭ほど前のいる馬へと向かう。
その馬は、入れ込んでいるのか、先程から騎手を振り落とさんばかりに頭の上げ下げをしている。そのゼッケンに書かれた名前を見て、香織は思わず唖然としたのだ。
「鈴村騎手、どうした?」
「いえ、あのやたら掛かってる馬なんですが、名前がミラクルシアターって。一応、名前が気になってチェックはしていたんですが、同じオーナーなだけで、血統も違うんですが・・・・・・」
「ん? ああ。成程、しかし大丈夫だろう。ここで去年の再現なんか起きたら、まさにミラクルだぞ?」
そう笑い飛ばす調教助手だが、何となく嫌な予感がして自身もついつい視線をミラクルシアターへと向け、追いかけてしまう。もっとも、昨年と違いミラクルシアターのゼッケンは6番、幸いなことにサクラヒヨリの真横ではない。
「そうですね、ゲートも一つ離れていますから」
香織は、そこで意識を切り替えて今日のレース展開をイメージする。
「キュフン」
「あ、ヒヨリ、大丈夫だよ。ヒヨリは良い子だね」
恐らく調教助手と香織との遣り取りで、何かしら不安を感じたのだろう。サクラヒヨリが落ち着かない挙動を見せ始める。香織は、慌てて首をトントンと叩きサクラヒヨリを落ち着かせるのだった。
「さて、本馬場入場ですね。此処からはヒヨリと鈴村騎手に任せました。悔いが無いレースをお願いします。できれば、勝利で」
調教助手は、敢えて明るい感じで激励し引き綱を外す。
そして、それを待っていたかのように、サクラヒヨリは本馬場へと駆け出していくのだった。
ゲート前の馬溜まりでは、各馬がぐるぐると円を描いてゲート入りを待っている。
ただ、今までのレースと明らかに変わってきているのは、どの騎手達からも、サクラヒヨリの状態を窺っているような視線を感じることだ。
昨年の紫苑ステークスの時と同様に、今回もサクラヒヨリはグリグリの1番人気だった。更には、ミナミベレディーが出走した此処最近2レースの勝ち方が強く、サクラヒヨリも同様に警戒されていた。
うわぁ、今まで以上に厳しいレースになりそう。下手に内に付けたら、思いっきり馬群に沈められそうだね。
サクラヒヨリの最大の武器は、奇しくもミナミベレディーと同じスタート力とロングスパートだ。
今までのレース結果と、全姉の活躍を見るからにスタミナはあると思われていた。。その為、多くの騎手達は、サクラヒヨリに先行させる事を警戒している。
「その分、直線での末脚は、今ひとつと思われているんだろうけどね」
ただ、ミナミベレディーがそうであるように、サクラヒヨリも歳とともに馬体が完成してきている。流石に一流スプリンターや、一流マイラーに敵わないまでも、そこそこの末脚になってきていた。
「それでも、GⅠ馬クラスには敵わないんだろうなあ」
「キュヒヒン」
「ん? 大丈夫だよ、ヒヨリは可愛いね」
「キュフフン」
サクラヒヨリの首を優しくトントンと叩き宥めていると、ようやくファンファーレの音が聞こえてきた。
そして、奇数番号の馬から順番に、ゲートへと案内されていく。
奇数番号の馬がゲートに納まり、偶数番号の馬達が案内されて行く。8番のサクラヒヨリは、ゲートを嫌がる事無くすんなりと誘導される。ただ、サクラヒヨリはミナミベレディーと違い、ゲート内へ入ると不安を感じる事が多い為に、香織はゲート内で声をかけ続けた。
「そろそろだよ」
最後の馬がゲートへと収まるのを見て、香織は声色を変える。そして、サクラヒヨリにゲートを意識させた。
ガシャン!
ゲートが開くと共に、サクラヒヨリは一気に飛び出して行く。
「うん、ベストなスタート!」
8番という事で、可能であればスタート後の長い直線で先頭へと進みたい。そんな思いで、香織がサクラヒヨリに指示を出すと、その直後にスタンドからドッと大きな歓声が沸きあがった。
スタンド前からのスタートな為、歓声に影響を受ける馬は勿論いる。サクラヒヨリはあまり歓声を気にしないが、ここで思いっきり影響された馬がいた。
「うわ、6番が凄い勢いだ」
内へと馬を導きたい。その為に、香織は内側と後方を気にしていた。しかし、此処で慌てて内へ寄るタイミングを遅らせる。
スタート直後に凄い勢いでミラクルシアター上がっていく。サクラヒヨリの横スレスレに、騎手が手綱を絞っていても関係なく、一気に駆け上がっていった。
ただ、この為にサクラヒヨリは内に寄る事が出来ず、更には内側にいた先行馬達も前へ前へと進むために思ったような位置取りに入れない。そして、各馬がバタバタとした展開の中、コーナーへ向けての上り坂に差し掛かった。
「ミラクルって名前には、祟られているかもしれないわ」
思わずそんな言葉が零れる中、サクラヒヨリは坂を意識してピッチ走法へと走りを切り替える。
やや外寄りに距離をロスしながら、第一コーナーへと入って行く。この段階で、サクラヒヨリは前から6番手の位置へとつけた。
「う~ん、予想と違って流れ的には速いね?」
サクラヒヨリを先行させず、馬群に囲うように持ち込んでくると思っていた。そして、実際にサクラヒヨリを先行させないようにと、内にいる先行馬が前につける展開になった。
しかし、ここでの誤算はミラクルシアターが掛かって飛び出した為に、内の馬達も釣られ馬群が縦長に展開した。この事で、それに合わせて全体のスピードが上がった事だろうか。
「後ろ正面に入るまでに、もう少し前に行くよ」
サクラヒヨリの手綱を扱いて、コーナーを使って更に前へと進む。
後方から上がって来た馬が、サクラヒヨリの後方にピタリと位置取るのが判る。ただ、サクラヒヨリが内を走る馬と並走する状態である為に、抜き去る事も、内へと蓋をする事も出来ない。
その間にサクラヒヨリは緩やかな上り坂を利用して前に出ようとする。しかし、サクラヒヨリの内に位置取る馬も、並走する形で前に進んで来た。
2頭が並走する形で前との距離を詰めて行くが、ここで前を走る馬が立ち塞がる。サクラヒヨリは、その馬をかわす形で前へと進み、カーブを利用して内へと入る。
「よし、2コーナーからは緩やかになるからね。向こう正面では息をいれるよ」
ただ、先頭に立つミラクルシアターは更に5馬身程前に付け、そのすぐ後方にも、2頭の馬が落ち着いたテンポでラップを刻んでいる。
サクラヒヨリは4番手の位置取りのまま、向こう正面の直線へと入って行った。
ただ、ここで後続の馬に動きが出る。
サクラヒヨリをマークしていた馬は、サクラヒヨリを追うように前に進み出て、サクラヒヨリの真後ろへと付ける。そして、更に後方からも馬が上がって来た。しかし、前を走る馬が比較的離れている為、今の所は囲まれるような状況にはなっていない。
「それにしても、嫌な感じね」
息をいれる為にサクラヒヨリのペースを落とす。案の定、サクラヒヨリの横へ並走する様に馬が上がって来る。後ろにピタリと付けた馬と2頭でサクラヒヨリにプレッシャーを掛けて来た。
「ヒヨリ、気にしなくて良いからね。今はしっかり息をいれるんだよ」
香織はサクラヒヨリに負担にならないよう心掛け、出来るだけ穏やかな声で話しかける。
サクラヒヨリは、香織が気にする程には周りの馬を気にした様子が無い。
「あれ? もしかして、フィナーレを鍛えるのに自分が同じ立場にいたから?」
北川牧場では後ろや横にミナミベレディーとサクラヒヨリがぴったりと位置取って、サクラフィナーレにプレッシャーを掛けて鍛えていると聞いていた。そして、その実際の映像も武藤厩舎で見させてもらっている。
何処となく余裕すら感じさせながら、サクラヒヨリは向こう正面の直線を走り切り、前の馬達に続いて3コーナーへと突入していく。
「4コーナー途中からスパート掛けるよ」
香織は、サクラヒヨリにこの後の予定を告げる。しかし、その前に前を走っていたミラクルシアターの脚が明らかに鈍り始め、ずるずると下がって来るのが見えた。
「せめて、最後の直線まではもって欲しかった」
此の侭では、前を塞がれるかもしれない。
あと少しで3コーナーを抜ける。4コーナーから直線にかけてスパートすれば、直線に入る所で位置取りを調整すれば良い。ここで無理をするか、判断が難しい所だった。
「ヒヨリ、行くよ!」
サクラヒヨリの外を走る馬が、3コーナーのカーブで少し遅れたタイミング、此処で香織はサクラヒヨリを一気に前へと押し出す。そして、前の二頭が明らかに内を意識する中、サクラヒヨリを加速させて直線の中ほどへと位置取りをした。
「頑張って! 私も頑張るから!」
ストライド走法でスパートを掛けるサクラヒヨリは、直線での勢いのまま、前2頭をあっさりと抜き去る。その後方では、真後ろへと付けていた馬が最内へと馬を進めるが、壁になったミラクルシアターを抜く為にスパートがワンテンポ遅れた。
「最後の坂で走りを変えるからね!」
サクラヒヨリの頭の上げ下げを補助しながら、香織は必死に手綱を扱く。
サクラヒヨリはその指示に素直に反応し、前へ前へと更に加速した。
「坂だよ! ピッチ走法!」
いつも調教で行っている様に、坂の手前で合図を送る。サクラヒヨリは直ぐに反応し、ピッチ走法へと走りを変えた。
そして、力強いステップで坂を一気に上り切り、そのままの勢いでゴールへと駆け込むのだった。
「すごい! ヒヨリ、いつの間に、こんなに力を付けたの!」
確かにメンバーに恵まれたし、展開にもある意味恵まれたのだと思う。
それでも、サクラヒヨリはまったく危なげなく、後続に一馬身の差をつけてゴールへと駆け込んだのだ。
「すごいよ! ベレディーより安定してる?」
今日の手応えからすると、身体能力はベレディーより上のような気がする。香織は、嬉しい様な、何とも言えないような、複雑な気持ちになるが、勝ったサクラヒヨリの首を何度もポンポンと叩き、頑張りを労ったのだった。
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