第88話 サクラヒヨリと紫苑ステークス前

 美浦トレーニングセンターへ帰ってきて、また調教の日々が始まりました。


 私のレースは少し先で、その前にヒヨリが昨年の私と同じ紫苑ステークスに出走するみたいです。フィナーレちゃんは、どうやら10月頃の新馬戦を目標にしているみたいですね。


 う~んと、ヒヨリが走るレースは、確か他のお馬さんにぶつけられたレースでしたよね? 厩務員さん達が雑談していたので、思い出しましたよ?


 という事で、ヒヨリに色々と注意をしてあげようと思ったんですが、調教中はさすがに会話の機会が無いのです。それでも、時間はどんどんと過ぎていって、どうやらヒヨリのレースが近くなってきたみたい? 


 今日は、鈴村さんが私ではなく、ヒヨリに騎乗してコースを走りました。


 美浦トレーニングセンターのコースで、ヒヨリの追い切りタイムを計るんだそうです。ちなみに、何故か私もご一緒に走りましたよ。


「うん、ヒヨリの調子も悪くないね。これなら勝ち負けはいけそう」


「キュフフフン」


「ブルルルン」(ヒヨリ、頑張るんだよ!)


 ヒヨリもヤル気に溢れています。あとは、怪我をしないかだけ気をつけないとです。


 私も、それにヒヨリもですが、桜花ちゃんの名前のレースを勝てたおかげで、お肉になる運命からはどうやら抜け出したみたい? そうなると、あとは怪我だけには十分に気をつければ、幸せな老後がまっているのかな?


「ブヒヒヒン」(怪我には気をつけるのですよ?)


「キュフン」


 そう考えると、昔のように何としてでも勝たないとと言うような、危機感みたいなのはなくなっちゃうんですよね。


 逆に無理しないように、怪我しないようにって思っちゃうんです。これもお馬さんだと、タブンない感情ですよね?


「ブフフフン」(でも、そう考えると、不味いのでしょうか?)


 いくら成績が良くても、走らなくなったらお肉にされちゃうんでしょうか? 競馬って良く考えたら賭け事ですよね? 負けてばかりいると駄目っぽい?


「ブルルルン」(お肉はもう無いよね?)


 ヒヨリから下馬した鈴村さんに、顔を突き出して尋ねました。


「あ、べレディー、大丈夫。あとで騎乗してあげるからね」


「やはり、ベレディーでも嫉妬するんですね」


 私に騎乗していたおじさんが、そんな事を言います。鈴村さんも、何か見当違いのお返事です。


「ブヒヒヒン」(違うのよ? お肉が嫌なのよ?)


「うん、ベレディーは可愛いね」


 駄目ですね。言葉が通じていませんね。あと、私は可愛いのですよ?


 何となく褒められたので尻尾をぶんぶんさせます。


「キュヒヒン」


 何故かヒヨリが拗ねて、私の首をカプッとしようとしてきます。何か混沌としてきちゃいました。


◆◆◆


 紫苑ステークスへ向けて、前週の追い切りでも、先程の最後の追い切りでも、サクラヒヨリはまずまずのタイムを出してくれた。


 実際のところ放牧から帰ってきたサクラヒヨリは、このままレースへ出しても問題ないのではと思えるくらいに状態は良い。今も、その状態を維持している。


 当初は、逆にピークをどこへ合わせて調教すれば良いのか、肝心の秋華賞までこのピークは維持できるのかと不安もあった。


 もっともその不安は、ミナミベレディーと合同の調教によって、問題なく維持できている。


「3歳の後半になって、馬体も更に仕上がってきてるな。放牧明けという事で、精神面の方で若干不安もあったのだが。どうやら杞憂だったようだな、問題なさそうだ」


「出走メンバーも予想通りです。特にサイキハツラツと、スプリングヒナノがいないのは助かりますね」


 最近の傾向では、栗東トレーニングセンターに所属している有力馬は、阪神競馬場で行われるローズステークスに出走する。この為、中山で開催される紫苑ステークスには、サクラヒヨリに対抗する有力馬は桜花賞で3着に入ったピスタチオラテくらいだろう。


 スプリングヒナノも、サイキハツラツも、ローズステークスに出走登録をしていた。


「本番に向けて、ここで確実に1勝を積み上げたいからな」


「そうですね。まあそれでも、昨年のミナミベレディーのような事もありますから」


「怖いことを言うなよ。油断はできないが、幸いにも天気も良さそうだ。そうそうアクシデントもないだろう」


 武藤調教師は、苦笑を浮かべて助手を見る。先程の追い切りをもとに、この後に鈴村騎手と打ち合わせを予定しているのだ。


 なんと言っても、今週末に行われるレースで弾みをつけたい。それは、厩舎も騎手も同じ思いだった。


「先行策は決まりとして、問題は枠順ですね。8番と微妙な位置になりましたね」


 今年の紫苑ステークスは、16頭で争われる。そして、サクラヒヨリは8番、先行するには、若干厳しい位置取りだった。


「そういえば、昨年のミナミベレディーも8番だったな・・・・・・」


「ちょっと先生、やめてくださいよ!」


 二人の間に、微妙な空気が流れる。


 勝ち負けなどを商売とする人達は、割とジンクスを信じたりする。ゲンを担ぐ人も多い。それ故に何となく姉妹で、同じレース、同じ番号となると、若干の不安を覚えずにはいられなかった。


 そんな二人の微妙な空気を破ってくれたのは、サクラヒヨリに調教をつけ終わり、その報告に来た鈴村騎手だった。


「武藤先生、サクラヒヨリは絶好調ですね。今週も期待できますよ?」


 厩舎に入り、微妙な空気を感じた鈴村騎手が首を傾げる。しかし、武藤調教師はすぐに表情を改めて、レースの打ち合わせに入るのだった。


◆◆◆


 紫苑ステークス当日、桜川はレースが中山競馬場ということもあって、久しぶりに子供達を連れて、競馬場へと足を運んでいた。


 この後にサクラヒヨリが走る予定のレースは、秋華賞も、エリザベス女王杯も共に京都競馬場となる。その為、なかなか子供を連れて行くとなると大変なのだ。


 その様な事情も有り、子供達をこの中山で行われる紫苑ステークスに連れて来たのだが、下の娘は実際の馬よりも。買ってもらった馬のヌイグルミにご満悦だった。


「お馬さん可愛い!」


 ヌイグルミを買ってもらい大喜びする娘を、妻は微笑ましく見ている。ただ桜川は、その購入した馬のヌイグルミを見て、若干複雑な表情を浮かべていた。


 なぜ、それを選んだんだ。娘よ!


 売られている馬のヌイグルミの違いは、その色と、覆面くらいしかない。それ故に、そのヌイグルミのモデルとなる馬が判る様に、ゼッケンが取付られている。


 そして、娘が選んだ綺麗な茶色の馬は、よりにもよって、タンポポチャのヌイグルミだった。


 一応、桜川としては、売られていたミナミベレディーのヌイグルミを勧めたのだ。ただ、肝心のミナミベレディーのヌイグルミは、若干濃い焦げ茶色をしていた為に、お気に召さなかったようだ。


 併せて、春の桜花賞を勝ったサクラヒヨリのヌイグルミは、まだ売られていなかった。その為、娘がタンポポチャのヌイグルミを抱きしめて離さず、結局は娘の粘り勝ちとなる。


 そんな一幕もありながら、それでも家族揃ってパドックで、サクラヒヨリが出てくるのを待っていた。


「お父さん、そういえば、前のお姉ちゃんは今日は来ないの?」


「ん? 前のお姉ちゃん・・・・・・?」


「うん、ほら、春に来ていたお姉ちゃん」


「ああ、北川さん所の娘さんかな?」


 子供たちにとって、春に行われた桜花賞は、馬のレースよりも北川牧場の賑やかな娘さんの方が強く記憶に残ったようだった。子供達を連れて、夏休みに北川牧場へ遊びに行ったのも大きいだろう。


「うん、僕、あのお姉ちゃん大好き!」


「あたしも! あたしも好き~」


 兄に張り合うように答える娘を笑いながら、そういえば夏休みには子供達と都会では出来ない遊びなどで、色々とお世話になったなあと思い出した。


「残念だけど、桜花お姉ちゃんは学校があるから来れないのよ。またお休みのときに遊びに行きましょうね」


「次だと冬休み?」


「冬休み?」


「そうねぇ、でも、冬の北海道は雪で埋まっちゃうのよ? だから冬は難しいかしら」


「埋まっちゃうの?」


「ちゃうの?」


 妻と子供達の会話を笑いながら聞いていると、漸くパドックに動きが出る。


 そして、引き綱を引かれたサクラヒヨリが、落ち着いた様子でや入場して来る。パドックを回り始めたサクラヒヨリの艶のある、しっかりした様子に安堵しながら、子供達に指差して自分の所有馬だよと教えた。


「ほら、あの8番のお馬さんが、お父さんのお馬さんだよ。覚えているかな?」


「覚えてるよ!」


「おぼえてる~」


 下の子供は、実際に覚えているかは怪しいところだが、息子はしっかりとサクラヒヨリを覚えていたようだった。その後、鈴村騎手が現れ、本馬場へと馬が移動するのに合わせて、桜川は家族を連れて馬主席へと移動するのだった。

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