トッコとヒヨリの秋の前哨戦
第87話 秋に向けて
放牧に出していたミナミベレディーが無事に厩舎へと戻ってきた。
馬運車から降りてきたミナミベレディーは、若干疲れたような表情を浮かべていた。しかし、昨年とは違いしっかりとした艶のある馬体をしており、秋のレースに期待できると馬見調教師は笑みを浮かべる。
「うん、しっかり休養できたかな?」
「ブフフフフン」(ヒヨリ達がゆっくり寝かせてくれないの)
「ふむ、ちょっと疲れているかな?」
後から降りてきたやたらに元気なサクラヒヨリ達2頭へと恨みがましいような視線を注ぐミナミベレディーを見て、何となく察する馬見調教師だった。
「次回移動するときは、1頭だけのほうが休めそうだな」
そういって苦笑する。
その後、馬見厩舎へと戻ったミナミベレディーは、早速というように寝藁に寝転がって眠り始めてしまった。
「馬って1日3時間くらいしか寝ないはずなんですけど、べレディーは思いっきり寝ますよね? 1日7時間は寝てませんか?」
「まあ夜は人と同じように寝るな。朝は早いが寝るのも早いからそれくらいは寝ているな」
ミナミベレディーは、寝藁に転がってすでにピスピス寝息を立てている。
その様子に、馬見調教師たちは顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
そして、午後からミナミベレディーの体調検査が行われ、特に異常は見当たらないのを確認する。そして、翌日からの調教スケジュールが決められていった。
「次走はそうすると、オールカマーですか」
「京都大賞典も良いのだが、天皇賞に出すには間隔が短すぎますからね。オールカマーで様子見というところだね。ベレディーもようやく馬体が仕上がってきたから、一叩きが出来る様になったのが嬉しいね」
以前までは1レース毎での疲労度が高く、なかなか本番前の一叩きが難しかった。変にレースを挟んで体調を崩されれば、本番に出走が出来ない可能性があった。
それが4歳になって馬体が一気に仕上がってきた。先日出走した、宝塚記念の様な過酷なレースであっても、出走後のダメージは少なく今後のレースを組みやすくなっていた。
「場合によっては、勝ち負けは無視して札幌記念も検討していたんですがね」
宝塚記念出走前にも、馬見厩舎ではミナミベレディーの秋に出走させるレース計画を練っていた。
その中では、札幌記念も候補に上がっていた。しかし、宝塚記念出走後の様子を見て、改めて予定を考え直したのだった。
「秋の目標は、なんと言っても秋の天皇賞です。牝馬初の天皇賞春秋制覇。もしこれが成れば、ミナミベレディーは、正に日本競馬の歴史に名を残しますよ」
「そうですね。まあ若干距離に不安がありますから、何とか頑張ってもらいたいですね」
芝2000mという距離は、ミナミベレディーにとって本来不安のある距離ではない。ただ、それはライバルとなる馬達にとっても同様で、特に同世代のライバルたちは、近年の傾向か芝2000mが最適距離の馬が多い。
「まあエリザベスは、サクラヒヨリが出走するだろう。鈴村騎手としても、出来ればべレディーには別のレースに走ってもらいたいだろうからな」
実際のところ、GⅠ勝利に確実性を望むならエリザベス女王杯であろう。もっとも、そこには最大のライバルであるタンポポチャが、出走に意欲を燃やしているとも聞く。
そんなタンポポチャも、最近ではスプリンターズステークスへ進むのではとの噂もある。しかし、今のところ具体的な情報は、入ってきていなかった。
「どの馬も、ミナミベレディーの動向に注視していますからね。特にジャパンカップや、有馬記念はどうするのかとか」
「うん、ジャパンカップはともかく、有馬記念には出走させるつもりだよ。勝ち負けはともかく、やはり宝塚記念を勝っているからね。やはり有馬記念は出さないと」
馬のみではなく、競馬関係者、競馬業界のしがらみもある。それ故に、有馬記念の出走は致し方がないと思っていた。それでもジャパンカップを回避する事で、天皇賞からそこそこ期間が開く。十分な準備は、出来るとも思っている。
「タンポポチャは、有馬記念どうするんですかね? 競馬協会はミナミベレディーとの直接対決などを期待しているみたいですが」
「さて、まあ幸いにして、ベレディーにわざわざ芝の1600mを走れと言われる事は無い。距離を考えれば、べレディーが有利だろう」
馬見調教師は、そう言って苦笑するのだった。
◆◆◆
香織は、7月の勝ち鞍数を6個伸ばし、今年に入っての勝利数を43勝としていた。
5月、6月と、なかなか勝利数を伸ばすことが出来なくなっていたが、7月に入り乗り替わりなどもあって、順調にその数を増やしていた。
そのお陰も有り、今の段階で全騎手で勝利数7位につけていた。そして、勝率だけで見れば、なんと4位の成績だ。
「よお、凄いじゃないか。今年は爆発しているな」
騎手控え室へと入ると、立川騎手が、笑いながら話しかけてくる。
「あ、ありがとうございます。今年は自分でも乗れてるなって気がしています。ちょっと吃驚です」
実際のところ、勝利数の内容は、相変わらずの未勝利馬、1勝馬が多い。重賞への出走となると、ミナミベレディー、サクラヒヨリを除けば3度のみ。それでも、その3度ともに4着1回、5着2回と掲示板に載せる事が出来、人気よりも上位につけて結果を残していた。
「馬群の捌き方も、上手くなってきているな。2年前とは比べもんになってない。今週も、うかうかしてると負けかねんわ」
そう言って笑う立川騎手だったが、今週はクイーンステークスで香織の騎乗する馬と、思いっきり激突する。特に、立川騎手が騎乗するシャラパールは、1番人気に押されている。そんな立川騎手ではあるが、ここ最近、穴馬で上位に食い込んでくる鈴村騎手には注目していた。
「今回、乗り替わりで依頼されたので、そこまで馬の特徴を把握できてません。勿論、勝つつもりで騎乗しますが、勝ち負けはきついと思うんですけどね」
香織が騎乗依頼されたウインドセイバーは、先日ようやく3勝を上げたところだった。実際のところ適正距離が難しく、今回のレースでも14頭中14番人気と最下位人気である。
「まあ、あの馬は、なかなか厳しそうだな。確かに」
香織は、そう言いながらも、普段と違い中々に立ち去らない立川騎手に、不思議そうな表情を浮かべる。
「アイドルの細川嬢とは、仲が良いんだったよな?」
「え? ええ、まあそうですね」
立川騎手からの突然の話の転換に、香織は思いっきり動揺する。まさか、このいい歳をしたおじさんが、美佳のファンとか言い出すの? と、ちょっと驚く。そんな香織の様子を見た立川騎手は、慌ててそれを否定しだした。
「いや、違う、違うぞ! ほら、細川嬢から、何か聞いてないか?」
「え? いえ、特には?」
何のことだろうと、香織は首を傾げる。そんな香織を見た立川騎手は、さらに大きな溜息をついた。
「なんだよ、まったく。あ~~、あのな。栗東にいる浅井騎手知ってるだろ?」
「はい、何度か挨拶はしています」
再度首を傾げる香織だったが、そんな香織の様子に、立川騎手は頭を掻く。そして、今度、栗東かどこかで浅井に会ったら、会話してやってくれと頼み込んだ。
「え? 私とですか? それは構いませんが、特に話すことはないのですが?」
「ほら、そこは同じ女性騎手の先輩として、何かアドバイスとかよ」
「女性騎手の先輩としてですか・・・・・・。良くわかりませんが、わかりました」
何となくではあるが、立川騎手の言いたいことが判らなくもない。ただ、だからといって、何か話すことはあるだろうか?
思いっきり男所帯で生活しているような、そんな騎手の世界だ。そこに悪い意味で、染まりきっている香織である。いまさら女性騎手同士でと言われても、特に話すことがなかったりする。
「それとだな、これも一応なんだが。お前さん、美浦でその、なんだ、仲の良いやつがいるのか?」
「え? 仲の良い人ですか?」
そこで考え込む香織を見て、立川騎手は、若干慌てた様子で言葉を付け足す。
「いやな、お前もそのなんだ、そろそろ結婚とか、考えている相手がいるんじゃないかと栗東で噂になっててな」
一瞬キョトンとした香織であったが、途端に不機嫌な顔になった。
「プライベートですよ! 質問に答える、意味を感じません!」
「あ~~、まあそうなんだが」
「そんな相手がいたら、今年のような成績なんか残せてません! だから良いんです!」
「・・・・・・そ、そうか、何かすまんな」
ばつの悪そうな表情で、謝罪する立川騎手。もっとも、立川騎手は、すでに二人の子供もいる妻帯者だ。
「ちなみに、何で細川さんが、そこで出てくるんですか?」
「ああ、浅井騎手が鈴村騎手と話したがっていても、切欠が無いとかでな。前に電話番号を交換してた、細川嬢に相談したそうだ。細川嬢は、鈴村騎手の親友だからってな」
「え? 親友ですか?」
「ん? 違うのか?」
「いえ、そうですか。親友ですか」
何処と無く、嬉しそうな表情をする鈴村騎手。周りにいて様子を窺っていた同年代の独身騎手達は、その表情に、先ほどのフリー宣言も合わせて、一気にザワザワとするのだった。
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