第83話 宝塚記念後のトッコさん
雨の日のレースが終わって、馬運車に運ばれて美浦トレーニングセンターに帰ってこれました。無事に勝てたみたいだから良いのですが、途中からあんまり記憶がないのですけどね!
でも、みんな傘をさしての表彰式でしたから、もしかしたら私もヒヨリのように雨のレースで勝って、芝を克服したのかもしれません! ヒヨリに会ったら自慢してやらなければなりませんね!
それで、私がなぜ北川牧場に向かわずに美浦トレーニングセンターにまだ居るのかと言うと・・・・・・静養しているのでした。
レースが終わった翌日から、もう思いっきり全身が筋肉痛です。久しぶりに此処までの筋肉痛を味わいました。
寝返りすらうてないくらいに痛いので、大人しく馬房でじっとしているんです。前に痛くなった右後ろ脚も、またちょっと痛くなっちゃったんですよね。前ほどじゃないですけど体重を掛けるとズキッと痛むのです。
でもね、お馬さんって結構細い足なのです。変に1本の脚を庇うと他の脚も傷めたりする事があるそうなので、私は出来るだけ柔らかい寝藁で寝転がっています。
この方が脚に負担無いですからね。
そんな私の様子を、厩務員さんや調教師のおじさんが定期的に見に来てくれます。
「う~ん、まだ動かせないな。今週は様子を見て、来週くらいに北川牧場へ送る感じになるか。馬運車での移動も負担があるからな」
「しかし、あれで大きな怪我になら無くて良かったですよ。最近は丈夫になって来ていたので前ほどには疲労はなかったんですが、今回は結構ダメージが大きかったですね」
「そうだな、コズミで済んで良かったと言うべきだろう。無茶なレースになったからな」
「超ロングスパートですからね。いやぁ、あれは凄かったですね」
さっきから私の様子を見ながら、調教師のおじさん達が何か話しています。内容的には、やっぱり桜花ちゃんに会えるのは来週になりそうです。
「ブヒヒヒン」(来週に北川牧場に行けるの? 早く帰りたい)
私は二人の会話を聞いていて、頭を持ち上げて二人にお願いしました。
そろそろ北川牧場に帰れるのかな? そう思っても中々帰れない事が多いのですが、調教師のおじさんが言うのだから間違いはない? できれば去年みたいにゆっくりとしたいのです。
「ブヒヒヒヒヒン」(桜花ちゃんいるかな? 大学生だからいないかな?)
「ん? お、べレディー少しは元気になってきたか?」
「食事してくれると良いのですが。リンゴを少し食べさせてみますか」
「そうだな、そこにダンボールで置いてあったな。2個くらい持ってきてくれ」
何か疲れがドーンとあって、食事をする気分はまだなんですよ? 食欲ってここまで体調に左右されるんですね。お馬さんになってから思い知りました。
「午後からまた獣医さんが来て注射してくれるからな。早く元気になるんだぞ」
調教師のおじさんがそう言ってくれるんですが、注射嫌いよ? あんまり痛覚が鋭くないので、目をつぶっていると気付かないうちに注射が終わってます。
だからいつも注射を打たれるときは目を瞑るのですが、それでも怖いものは怖いのですよね。
「ほら、べレディーが食べやすいように切ってきたぞ」
私が寝転んだ体勢でいるため、厩務員の人が慎重に近づいてきて私にリンゴを差し出してくれます。
寝転んだ状態のお馬さんに近づくときは、注意しないと駄目らしいです。寝返りとかした時に誤って圧し掛かられたら、私でも500kgくらいありますもんね。それで注意しないと危険なんだそうです。
「プヒン」(うう、食欲ないよ~)
そう言いながらも差し出されたリンゴをお口に入れてシャリシャリと齧ります。リンゴの甘みが口の中いっぱいに広がるんですが、美味しいのですが、体の痛みに負けちゃっています。
「そういえば、来週の帰郷時にベレディーと一緒にサクラフィナーレも同乗して北川牧場へ行くことになったからな」
ん? サクラフィナーレって一番下の妹でしたよね? まだデビュー前なのにもう放牧なのですか?
「ブルルルン」(フィナーレちゃんは怪我でもしたの?)
「まあべレディーは大丈夫だろうが、フィナーレは少し臆病らしいからな。馬運車に乗せる時は気を付けないとな」
「サクラフィナーレですか。サクラハキレイ産駒らしく仕上がりが遅いみたいですね。そう考えると、ベレディーは凄いですよね」
言葉が通じないので、やっぱり上手く会話が成り立たないんです。そんな中で、調教師のおじさんのところに慌てた様子で別のおじさんがやって来ました。
「テキ、今連絡があったんですが、大南辺さんからミナミベレディーの北川牧場への移動を少し遅らせてほしいとのことです。場合によっては中止にするかもと」
「はぁ? どういう事だ?」
「ブヒヒヒン!」(え? 帰郷できないの?)
調教師のおじさんと、私が揃って驚きの声をあげました。
「はい、北川牧場に訪問依頼とか、見学希望とか、色々な問い合わせが多くて混乱しているみたいです」
何か不穏な話が、私の馬房に響き渡りました。
◆◆◆
「録音機能付の電話にしたはいいが、録音聞くのに時間がかかりすぎる」
確かにおかしな電話は減ったのかもしれない。ただ、それ以上に様々な問い合わせが増え、日中に掛かってきた電話の録音内容を確認するのに思わぬ時間をとられてしまっていた。
「あなた、これだったら日中は録音せず放置のほうが良いわね」
「そうだなぁ」
録音で内容を聞いてしまえば、逆に此方から何らかの対応をせざる得ない。この為に以前に比べ余計に時間が取られてしまう結果になっていた。
「必要な人には携帯番号を教えることにするか。お前と私で系統を分ければ何とかなるか?」
「そうねぇ、ならなくてもそうするしかないわね。あと、トモ君とチカちゃんだけではちょっと厳しいかしら? 桜花がいない分どうしても日中の作業が厳しいわね」
「う~む、しかし余裕がなぁ」
GⅠ馬が2頭も誕生したお陰で奨励金などが収入として増えている。それでも、人を一人雇うとなると200万~300万円近いお金がかかるのだ。
今後も安定して奨励金が入る訳でもない。それ故に、安易に人を補充する事が出来ない。
「今の間だけ一時的にアルバイトを頼むか。ほら、小沢のおばさんなら日中はお願いできるだろう」
比較的近くに住んでいる女性で、いくつもの牧場で臨時雇いをしていた女性だ。今も峰尾や恵美子が出かける際に臨時の日雇いで手伝ってくれている。
「ヒヨリの運動ももう少しさせないとだな。夜間放牧でそこそこ運動にはなっているが、トッコのように丸々してきたら目も当てれないからな」
「そのトッコですけど、来週には帰郷予定よね? 今の状態ではちょっと不安よ?」
何といってもミナミベレディー目当ての電話や訪問が多い状況だ。良く知らない者が牧場に来て、万が一ということもある。
「むぅ、今年の帰郷は断るか? ただ、この土壇場では馬見調教師達にもご迷惑だろう」
「そうよね。それなら、先日お話してた十勝川さんの所で放牧させてみてはどうかしら?」
「サクラヒヨリも一緒にか?」
「ええ、十勝川ファームは大きな牧場ですし、悔しいですけど家よりも設備も充実しているわ。駄目で元々ですし、桜川さんにもご相談してみない?」
実際のところ、十勝川ファームの施設は北川牧場に比べ遙かに充実している。近年は競走馬を設備の整っていない生産牧場へ長期放牧に出すケースは減ってきており、短期放牧を繰り返し調教を行う厩舎が増えてきていた。
また、生産牧場としても育成牧場に近い施設を擁する牧場も生まれてきており、十勝川ファームも同様であった。
しかし、この恵美子の考えは残念ながら大南辺、桜川、馬見調教師、武藤調教師によって却下される。
代わりに大南辺と桜川が費用を出し合って、追加で3名もの人員が派遣されることとなった。その内訳は大南辺が2名、桜川が1名であった。
◆◆◆
「いやあ、危なかったな。ミナミベレディーと一緒に放牧出来るのはいいが、さすがに場所が十勝川ファームでは拙い」
武藤調教師としては、まずはサクラフィナーレがミナミベレディーと一緒になることでより成長してくれる事を願っていた。しかし、北川牧場であればともかく、十勝川ファームであれば流石に色々と遠慮せねばならなくなる。更には、色々と奇異の視線を受けかねない。
「まさかミナミベレディーの調教を受けさせたいとは言えませんからね」
「その為に一緒に北川牧場に帰郷させるんだ。それが無に帰したら意味がないからなあ」
若干情けなさそうな表情の武藤調教師であるが、実際に自身の発言を情けなく思っているのだろう。
「まあ桜川さんもすぐに了解してくれたし、大南辺氏も了承してくれたからな。ただ俺達もだが、牧場も大変だな。まさか自牧場の将来の大黒柱である繁殖牝馬を売れと言ってくる奴がいるとはな。北川牧場だとミナミベレディーがいなくなれば破産もありうるぞ?」
「流石にそれはないんじゃないですかね? 一応サクラヒヨリもGⅠ馬ですから」
「だがなぁ、普通にサクラヒヨリが生んだ馬でGⅠを勝てそうか? 幼駒の頃からミナミベレディーが調教していたなら、GⅢくらいなら楽に勝てる馬になりそうな気がするぞ?」
「・・・・・・否定できませんね」
「だろ? ならミナミベレディーは北川牧場の生命線だ」
武藤調教師は何となくこの先々が心配になり、桜川に再度忠告をするのだった。
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