第82話 大南辺さんと・・・・・・

 雨の降る中、傘を差しながらミナミベレディーの表彰式が無事に終わる。雨の中での表彰式は珍しくミナミベレディーがご機嫌斜めで、鈴村騎手が早く馬房に戻りたそうな仕草をするのを必死に宥めていたのが印象に残った。


 レース直後は思いっきり感動を態度でも、表情でも表現していた大南辺だが、流石に表彰式も終わると落ち着きを取り戻している。


 宝塚記念のレース展開に、番組収録されている事など頭からすっ飛んだ大南辺は、馬主席で盛大にミナミベレディーを応援し、最後のゴールの瞬間には雄叫びを上げていたのだ。


 馬主席で並んで座っていた道子が、周囲の視線を気にして必死に夫の腕を引いていた事さえまったく気が付いていなかった。


「いやぁ、春の天皇賞に引き続き宝塚記念優勝ですか。これは今年の秋が楽しみですね。いまや年度代表馬の第一候補ですな」


「秋の天皇賞に勝てば、牝馬初の天皇賞の春秋制覇ですね。これ程の馬を手にされて羨ましい」


「実際の所、芝2000mは如何ですかな? 勝算はどれくらいと考えて見えるのですか? 中々に有力牡馬が控えていますし、ましてやGI5勝しているタンポポチャ号の動向も判りません。ところで、タンポポチャ号と言えば良く併せ馬を行うそうですが」


 大南辺の元にも多くの馬主達が今回の勝利を祝しにやって来てくれるが、妻の所へ向かう者達とは違い、どちらかというと単純な祝福のみではなく嫌味や妬み、それ以上にミナミベレディーが強くなった秘訣や方法に探りを入れようとする者が多い気がする。


「奥様はあまり競馬にご興味がなさそうなご様子ですね」


「ええ、あれは競馬のルールすら怪しいのではないでしょうか?」


 恐らくだが、妻なら何か簡単に情報を漏らすかと話しかけたのだろう。ただ、予想以上に知識が無く、話すら成り立たなかったのではないだろうか。何せ競馬場へは来るようになった妻であるが、未だに一度たりとも馬が放牧されている牧場や美浦トレーニングセンターにすら足を運んだことは無い。


 集って来る人達も、大南辺にテレビカメラが1台張り付いている御蔭で深く探りを入れて来ることが無いのは助かったが、大南辺は早々に妻を連れて表彰式へと向かったのだった。


「ねぇ、あなた。さっき十勝川さんからお聞きしたんですけど、十勝川さんは北川牧場の支援をされる事になるみたいよ。私達も何か噛ませて貰いましょう」


「ん? ああ、そういえばお見合い会をしたのだったな。そうだな、あとで十勝川さんとも話し合ってみるか。ベレディーには本当に夢を見させてもらっているからなあ。それに、あの馬にも、あの牧場にも不幸は似合わないからな」


 賞金は勿論だが、それ以上に自分はこれ程までに夢を見させてもらっている。個人馬主であるが故に夢を追いかけて来た。その夢を幾つも達成し、今なお追い駆けさせてくれているミナミベレディーに感謝の念が堪えない大南辺であった。


◆◆◆


 ただただモニターを羨望の眼差しで見つめていた。


 テレビの中では鈴村騎手が女性騎手でありながらGⅠ宝塚記念に出走し、愛馬ミナミベレディーに騎乗して圧倒的な力を見せつけゴールを駆け抜けた。


 その姿を自分の目に焼き付ける様に見続けているのは、篠原厩舎所属の浅井騎手。今年デビューして3年目に入る若手女性ジョッキーだった。


「はあ、凄いなぁ。一度鈴村騎手とお話をする場が欲しいな」


 厩舎に所属している為にお手馬も有り、必死に駆け抜けた一年目。廻して貰えた馬の御蔭も有りデビュー後2か月で5勝と、同じデビューをした同期の中でも優秀な成績を残した。


 しかし、その後は思うように勝ち鞍を上げる事が出来ず、結局1年目の勝利数は11勝で止まってしまった。


 何度か掲示板に上がりはするのだが、どうしても勝ちきれない。勝つことに対する焦りを感じ始めている中での2年目。偶々自身も乗鞍があった阪神競馬場で、目の前で、鈴村騎手が桜花賞で勝利をおさめたのだ。


 これで憧れるなと言う方が無理だよ。


「美浦所属だったらもっと話す機会もあるのかなぁ」


 栗東トレーニングセンターに所属する騎手達は、比較的交流の機会も多い。調整ルームなどでも良く会話をしているが、どうしても栗東と美浦で集まる傾向にある。もちろん幾度か鈴村騎手と会話をした事もあるが、自分が緊張してしまうのと、鈴村騎手は他の騎手と交流する事が苦手という事も有り、電話番号すら交換していない身では親しいなどとは口が裂けても言えない。


「フリーなのに普段も馬見厩舎に籠って調教のお手伝いをする事が多いって聞くけど、もしかして馬見厩舎に恋人さんでもいるのかなあ」


 馬見厩舎の事は全然知らない浅井騎手は、栗東で流れる噂以上の事は把握出来ていなかった。そして、栗東の騎手達の間では、かなり前から鈴村騎手はすでにお相手がいるという噂が流れていた。


 もっとも、その噂は美浦所属の騎手達が、鈴村騎手がデビューして3年ほどした頃にこれ以上のライバルを増やさない為に牽制で流した噂だったのだが。すでにその頃から7年以上の月日が流れているが、未だにその噂は効果を持っていたのだ。


「ああ、いい馬に出会いたいなぁ。でも、その前にもっと騎乗が上手にならないとだし、見習い期間が終わるのが怖いなぁ」


 鈴村騎手の様に見習い期間が開けてすぐに重賞を勝つことは難しいだろう。そして、デビューから早くも6年目で重賞勝ちをした鈴村騎手ですら、通算100勝を達成するには10年の月日を必要としたのだ。


 1年目で11勝、2年目は13勝、新人としてそこそこ順調に見えた2年であったが、3年目の今年はまだ4勝止まり。今年は自分のお手馬となる馬で勝ち鞍を計算できる程の馬はいない。


 それでも、まだ斤量マイナス4kgの恩恵で騎乗依頼は多い。ただ、それも今の厩舎に所属している御蔭であった。


「鈴村騎手みたいにフリーになる勇気も無いなぁ」


 ミナミベレディーの噂は当初から栗東でも噂になっていたが、騎手達の間ではあまり評価は高くなかった。特にステイヤー向きの馬体の牝馬との事で、血統から言っても良くて牝馬限定のGⅢを勝てるかどうかとの評価だった。どちらかと言えば、その騎手に鈴村騎手が態々抜擢された方が話題になっていた。


 女性騎手の斤量マイナス2kg目当て、オープン馬になれば乗り替わるだろう。そう言われていたのに2歳のアルテミスステークスでは見事に主戦を務め勝利し、初のGⅠ挑戦では流石に緊張からかミスをしての掲示板外。


 この時、誰もが乗り替わりになるだろうと思っていた。


「そのまま主戦で続投って聞いた時は吃驚したなぁ」


 しかし、その後はGⅠでのミスを返上するかのような桜花賞勝利。


 女性騎手として初のGⅠウィナーになる。


 目の前で行われたレース、桜花賞でミナミベレディーがゴールを駆け抜けた瞬間、浅井騎手は思わず地面に座り込んでしまった。あまりの衝撃に、腰が抜けたような状態になったのだ。


 自分の憧れ、将来の夢が目の前のそこにはあった。


 その後も、ミナミベレディーでエリザベス女王杯でGⅠ2勝目を飾り、全妹サクラヒヨリで2年連続、2度目の桜花賞勝利。今まさにテレビで特番すら組まれるほどに鈴村騎手は遠い人になってしまった。


「あのテレビ番組も、どうせなら対談とかさせてくれれば良いのに」


 同じ女性騎手ということで、浅井騎手のところにもインタビューは来た。ただ、残念ながら女性騎手同士の対談はなかった。


 もっとも、番組の主体は馬であり、鈴村騎手ですら主戦であるから番組に出ているだけだ。もっとも、実際には鈴村騎手のマスコミ対応がもっと流暢であれば鈴村騎手自身にもスポットが当たる可能性も十分にあったのだが。


 なにせ、日本における女性騎手初のGⅠジョッキー。それもすでにGⅠを5勝もしていたのだから。


「あ、そういえば細川さんと電話番号交換したから、細川さんに相談してみようかな? 確か親友だって言ってたよね」


 細川嬢、いつの間にか鈴村騎手の自称友人から、自称親友にグレードアップしていたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る