第81話 宝塚記念 その後

 ミナミベレディーがゴールを駆け抜けた瞬間、自厩舎で宝塚記念を観戦していた武藤調教師は何も言葉を発することなく呆然とした表情でテレビ画面を眺めていた。


 先日の春の天皇賞でミナミベレディーに対する評価を一転させていた武藤調教師であったが、今日のレースにおけるミナミベレディーの走りには正に度肝を抜かれたのだ。


「何だ今の走りは! いくら何でもあそこまで脚が持つわけがない!」


 中盤からゴールまでの間、ミナミベレディーは明らかに騎手の指示を受け付けずに暴走していた。


 当初、鈴村騎手もミナミベレディーを抑えようとしたが、馬の状況を見て難しいと判断したのだろう。そこからは終始馬に負担の少ない騎乗スタイルをとり、最後の坂においても補助による無理な頭の上げ下げは行っていない。


 それでいて2着に入った馬との差が3馬身だ。最後の直線上がりタイムは、まだ未発表で今は判らない。それでも、恐らくはトカチマジックなどの追い込み馬と然程変わらないタイムなのでは無いだろうか?


「相馬眼にどんどん自信が無くなって行くな」


 武藤調教師から見ると、ミナミベレディーとサクラヒヨリは父母が同じだけあって非常に似た馬であった。そして、最初に見た時の印象も姉妹揃って良くてGⅢが勝てるかどうかといった印象だったのだ。


 まさか、その姉妹が揃って桜花賞を勝てるなど今でも信じられない。その姉などは今日の勝利でGⅠ4勝馬となった。


「はぁ。まあミナミベレディーが勝った事は悪い事じゃ無いな。ただヒヨリとうちへのプレッシャーは増大しそうだが。それでもヒヨリは期待できるから良いとしても、こっちがなぁ」


 武藤調教師の目の前にある作業机の上には、サクラフィナーレと書かれた調教日誌が置かれていた。


 調教牧場へと送られ、その後はこの美浦トレーニングセンターへとやって来たサクラフィナーレは、日々調教を積み重ねているが何と言っても仕上がりが遅いのだ。


「まあ、今までもキレイの産駒はみんなこんな感じだったんだが、ミナミベレディーとサクラヒヨリの所為で期待がでかくなりすぎだよな。手応えから言って、フィナーレは良くてオープンまでだぞ」


 そう言いながらも武藤調教師は、サクラハキレイ産駒に対する自分の評価に自信が持てなくなっている。何せ、自分が良くてGⅢと思っていた馬がGⅠを勝ちまくっているのだ。


「明日になったら馬見調教師の所へ行って、思い切ってミナミベレディーの帰郷予定を聞くかな」


 こうなっては焦る事無く、一旦サクラフィナーレを北川牧場で放牧させる事を決断するのだった。


◆◆◆


 うそ! 凄いよ! 勝っちゃったよ! ベレディーすごい!


 細川は大好きな馬であるミナミベレディーがこの宝塚記念を圧勝した事に、驚きと共に嬉しさが倍増していくのだった。


 そんな内心の感情を悟られないように、それであっても滲み出てしまう喜色溢れる表情で、テレビカメラに向かってミナミベレディーの勝利を大々的に宣伝する。


 4歳ですでにGⅠを4勝、その全妹であるサクラヒヨリと共に達成した姉妹による2年連続桜花賞勝利にも触れ、これが如何に凄い事かをテレビを見るであろう競馬を知らない世代に対しても判り易く、そしてコミカルに伝えていく。


「そして、なんとワタクシ細川は、この後にですね~、北川牧場代表代理で宝塚記念の表彰式に出席しちゃうのです! すごいでしょ~~~! 私は、今からすっごく楽しみです! すでにワクワク感が溢れちゃっています!」


 芸能界に入って早くも10年以上が過ぎている。今もアイドルとして活動しながらも、最近では新しく出て来たアイドルグループなどに押され、人気も今ひとつ伸びを欠いていた。


 そんな中で偶々話が来たのが、競馬番組レポーターの話だった。


 話が来たときは、ハッキリ言って競馬には何の興味も無かった。それでも、上手くすれば新しい層のファンが獲得できるかと必死に競馬の勉強をした。


 そして、番組では俄かではあるが馬が好きだとアピールを繰り返したし、実際に多くの馬を見に生産牧場や厩舎へ行き、その様子を自身のブログにも掲載した。そして、何時の間にか競馬アイドルなどと呼ばれるように成れた。


「何と言っても北川牧場とミナミベレディーに出会い、番組そっちのけで馬に興味を持つようになったもんね」


 馬は何と言っても人の表情や仕草で相手を判断する。一見、ポーカーフェイスに見えながら、馬に恐怖を抱いていたりすれば簡単に見抜いて来る。そして、一度侮られると大変なんだそうだ。


「ミナミベレディーは最初からすっごく人懐っこくて、氷砂糖を貰ったらピョンピョンダンスをするし」


 初めて馬見厩舎でミナミベレディーに出会った時の事を思い出し、ついついニマニマとしてしまう。


 ただ、細川がミナミベレディーに今ほどにのめり込んだのは、何と言っても前評判が低い中をミナミベレディーが必死に走っている姿があったからだった。そして、他の素質馬や前評判の高い良血統の馬達を抑えての勝利に心が躍らない訳が無い。


 今の自分に重ねて感情移入してしまうのも仕方が無いと思っている。


 だからこそ、ミナミベレディーの活躍は本当に嬉しいし、自分はただ見ているだけでなく表彰式にも参加させて貰える。


「嬉しいなぁ、贅沢だなぁ」


 そんな事を思ってモニターを見ていると、ADから声が掛かる。


「細川ちゃん、そろそろ表彰式の方に移動してね」


「は~い、判りました」


 自分とは違い淡々と映像を撮っている人達。この人達は、今のレースを見ても何も思わないのかな? それとも、思っていても仕事で表に出さないのかな? もしも、先程のレースを見ても何も思わないとしたら、それはそれで悲しいなと思う。


「でも競馬に興味がないなら、そんな物かもしれないかも」


 そんな事を思いながら、細川は気持ちを切り替える。


 ADの指示を受けて急いで移動を開始した。自分に合わせてカメラさんやマイクさんもゾロゾロと移動を始め、周りにいる人達が自分の名前を出して話し合っている声が聞こえて来て、そちらに笑顔で手を振る。


「細川さ~ん、何時も見ているよ~」


「応援してるぞ~頑張れよ~」


「雨だけど頑張れよ~」


 若い世代に限らず、中々に濃い感じの中年のおじさんまでが笑顔で声援を送ってくれるのに会釈し、手を振り、表彰式へと向かう。


「あ、そういえば雨の日の表彰式は初めてだなあ」


 ふとそんな事を思いながら。


◆◆◆


「くわ~~~~! おい、鷹! 何やってるんだ! 追い出しが遅いだろうが! それで交わされるとか何やってんだ!?」


 残念ながら宝塚記念に出走馬を送り出せていない磯貝厩舎では、テレビでレースを観戦しながら磯貝調教師が賑やかに騒いでいる。


 磯貝厩舎としては、タンポポチャの為にもミナミベレディーの宝塚記念勝利は何としてでも止めて欲しい。今回、運よく鷹騎手は乗り替わりでキタノシンセイに騎乗していた。その為、ミナミベレディーに対して何とか囲い込もうと動いたのは判っている。ただ鈴村騎手の判断は早く、囲まれる前に先頭に並びかけに行った。


 そんな鷹騎手は、トカチマジックに騎乗するロンメル騎手にも、他の騎手達にも諄い程にミナミベレディーのロングスパートの怖さを話しておいたという。


 しかし、肝心のレースで単独先行を許す結果になったのは、恐らく鷹騎手の言葉が逆に警戒されたのかもしれない。


「いいか、理想とするのは金鯱賞だ。あの時の様に馬群の内に入れてロングスパートさえさせなければミナミベレディーは怖くない」


 段々と判って来たあの馬の怖さは、何と言ってもあの良く判らん持久力だろう。


 馬の常識から言って、1頭だけ先行させても普通スピードはそこまで上がらない。ましてやあんなにコロコロ走り方を変え、スタミナを維持したりはしない。あの速度を維持したまま、更にスパートする力。

 そして、次に怖いのはあの粘りだ。これも差し馬が横に来てからの意味の分からない粘りと更なる加速。


 この二つが合わさって初めてあの恐るべきロングスパートが成り立っている。


 ただ、勿論ミナミベレディーにも弱点はある。その弱点の最大のものが末脚の平凡さだ。この点だけを言えば、タンポポチャが圧倒出来ていると言い切れる。しかし、オークスを勝利したタンポポチャではあるのだが、残念ながら肝心の適正距離は芝1600mだろう。


 ミナミベレディーがもし万全の状態でオークスに出走していたとしたら、8割近い確率で負けていたのではないだろうか?


「しかし、不思議なもんだな。適正距離が芝1600mのタンポポチャがオークス馬で、適性が恐らく2200m以上のミナミベレディーが桜花賞馬だからな」


 現実とは皮肉に溢れているのがこれだけでも判ると言うものだ。


 ただ、ここで問題となるのは、タンポポチャではジャパンカップも有馬記念も勝てないという事だ。芝2000mの天皇賞秋であっても混合戦では厳しいだろう。


 タンポポチャの差し脚を以てしても勝てなかった大阪杯が頭に過る。タンポポチャ陣営としては理想的な展開、馬場も良馬場、なんらマイナス要素の無い中で最後は差し切れずに終わった。


 敗因はやはり距離の問題であったと思っている。もし芝1800であれば勝てていたかもしれない。磯貝厩舎の面々はそう分析していた。


 そして、マイルへとレースを切り替えヴィクトリアマイル、安田記念を走って勝利した。トカチマジックにも勝てた事から、マイルであれば古馬達にも通用すると陣営は自信を持った。


 ただ、それではもう最優秀4歳牝馬にはなれない。春の天皇賞、宝塚記念を勝ったミナミベレディーを越えるインパクトが無いのだ。


「今の走りを秋にされたら、もう1個くらいはGⅠを取りそうだしな」


 流石に馬の実力だけでGⅠを勝てるわけでは無い。


 秋のGⅠ戦線ではガチガチにマークされるだろうし、多少無理をしてでもミナミベレディーを馬群に閉じ込めようとして来るだろう。


「ただなぁ、スタート巧者の逃げ馬だからなぁ」


 ある意味、一番展開に左右されにくいと言っても良いのがミナミベレディーと言っても過言では無いだろう。それでも同じレースで戦うとしたら、勝つ可能性があるのは秋の天皇賞くらいだろうか。


「タイトルに拘らずに行くか、他のタイトルを狙うか、オーナーと打ち合わせしないとだな。秋のレーススケジュールはもう一度練り直しだなぁ。GⅠを5勝している馬でなんで此処まで悩むことになるんだ?」


 ここでも、ミナミベレディーの宝塚記念勝利で大きく溜息を吐く人が居るのであった。

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