第79話 宝塚記念 後編

 ゲートでのスタートは綺麗に決まったかな。


 鈴村さんに「ナイススタートだよ!」と言って貰えたので嬉しくなっちゃいますね。


 スタート直後は緩やかな下りになっていて、この直線を利用して先頭に立ちます。すると直ぐに鈴村さんから指示が飛んできました。


「この直線の先は上りになるから注意だよ」


 うん、この先には坂が待ち構えているそうです。


 確か事前の作戦では、スタートで前に出て、この坂を利用して後続を引き離すのですよね? 場合によっては逃げになっても構わないので馬群に沈まないように? きっと周りを囲むようにお馬さんが来るので、囲まれない展開に持ち込む予定?


 事前の打ち合わせを思い出していると、私の外側から一気に別のお馬さんが前へと飛び出してきました。


「ダンプレン? ベレディーの頭を押さえに来たかな」


 前走の天皇賞春では逃げに入った私ですが、今回も最初の直線にある坂を利用して後続との距離を取る予定でした。


 先行馬や先行差し馬が有利と鈴村さんが言っていたのですが、最後の直線が長いのとゴール前の急な坂がどう影響してくるのか不明らしいです。その為、出来るだけ自分のペースに持ち込むことにしたんですが。


 でも、前に来たお馬さんが思いっきり邪魔ですね?


 大外から私の前に入って来たお馬さんですが、先頭に立ったのは良いのですがあまりスピードを出すつもりが無さそうです? 走るのにちょっと邪魔になりそうなので抜いちゃっていいのかな?


「外側を塞がれる前に、前に行くよ!」


 鈴村さんの言葉に、私はすぐに反応して前のお馬さんに併せ馬の様に並びかけました。


「やっぱり。思いっきり蓋をしに来ようとしてたね」


 私の視界にも、後ろから更に一頭のお馬さんが前に出て来ていた事に気が付きました。ただ、その馬が横へ来る前に加速した御蔭で、その馬をかわして前のお馬さんに並びかけていきます。


 此処で私が前に出たせいなのか、前にいたお馬さんが更に加速して抜かせないようにしてきました。


 でも、私は最初から後ろと差をつける予定でしたので、隣の馬と並びながらどんどんと前に進んで行きます。


 その為か、後ろの馬達の足音を聞いてもちょっと全体のペースが早まりました?


 そのまま2頭並んで直線を進むと、此処で最初の急な上り坂に差し掛かります。


「ピッチ走法」


 鈴村さんから指示が飛ぶのに合わせて、走り方を変えて勢いそのままに坂を駆け上がります。坂を上がり切ると並んでいたお馬さんから1馬身以上の差が出来ていました。


 私はその勢いのまま、最初のコーナーへと走り込んでいきます。


「うん、ストライド走法に戻ったね。向こう正面では息を入れるからね」


 コーナーを先頭で回りながら進んで行きました。ただ、先程ご一緒したお馬さんがピッタリと後ろへとつけて来ます。そのすぐ後ろにもお馬さんがいますが、展開的にどうなっているんでしょう?


 真後ろにいるお馬さんは牡馬なんですよね。振り向く事が出来るのなら、思いっきり威嚇してやるのに! 女性の背後にピッタリついて来るなんて気持ち悪いですよね!


 兎に角、後ろの変態さんは気にしないようにして、先頭でコーナーを駆け抜けて向こう正面の直線へと入りました。


 直線に入る前に後ろを確認すると、真後ろのお馬さん達は相変わらずすぐ後ろにいます。でも、その後ろとなると3馬身から4馬身くらいは離れていました。


「うんうん、ここで息を入れるからね。後ろの馬に抜かれても気にしなくて良いよ」


 直線に入ると、鈴村さんが軽く手綱を引きました。


 それを合図に私はペースを落とします。


 でもね、後ろのお馬さんは私を抜く事は無くって、真後ろで同じように速度を落としました。ますますストーカーさん染みてないですか?


 平坦な直線を走っていると、次第に後ろの馬達の足音が大きく聞こえ始めます。


 私のペースが落ちた分、後続に詰められているのかな? ちょっとスピードを落としすぎた? 今一つ全体のペースが判らない私は、鈴村さんの指示を信じて走るしかないのです。


「次のコーナーから緩やかな下りになるよ。でも、そこで足を使いすぎると最後の坂があるから持たないよ。直線に入ってから加速して、最後の坂で勝負するからね」


 ある意味、鈴村さんの作戦通りに進んでいるとは言えます。


 後ろのお馬さん達に囲まれる事無く来れているので上出来なのかな?


 ただ、前の金鯱さんで思い出されるのは、後ろから一気に駆け抜けていったお馬さんです。


 タンポポチャさん並みの加速力を感じました。あの時は私が必死に走ってもぜんぜん勝てる気がしませんでした。


 そう考えると、しっかり後ろと距離を空けないと最後の直線は長いから怖いなあ。


 そんな事を思って、もうじきコーナーへと入ろうという所で、私のお鼻にポツンと何か冷たい物が当たりました。


 ん? あれ? 何か当たった?


 走っているさなかに、お鼻と言うか、顔と言うか、何かが当たったように感じて気になります。


 ちょっと気にして走っていると、また何かがお鼻にポツンと当たりました。そこで漸く、自分のお鼻に当たった物が何なのか気が付きます。


 あ、雨だ! 雨が降り出したよ!


 まだポツポツという感じです。でも、明らかに目に見える雨の量が増えている気がします。走っている為なのか、顔に当たる雨も少しずつ多くなっています。


 このまま芝が濡れたりしたら脚が滑るし、つるっと転倒しちゃうかもかも?


 雨を認識した瞬間、私の背筋に一気に寒気? 鳥肌? が立った気がしました。


 拙いよ~~! 雨が本格的に降るまでにゴールしないと! 滑るよ! 転ぶよ!


 3コーナーに入る瞬間から、私は少しでも早くレースを終わらせるために一気に速度を上げました。


「ちょ! べ、ベレディー! まだだよ! まだ早いよ!」


 鞍上で鈴村さんが慌てた様子で叫びます。そして、手綱をクイクイと引きます。私のハミにもしっかり伝わってはいたんですが、私の頭の中は雨の事でいっぱいいっぱいでした。


「うそ! どうしよう! 何、ベレディー何があったの!」


 鞍上から必死に声を掛けてくれる鈴村さんですが、私はそれに答える事無く3コーナーから4コーナーを抜けてそのままの勢いで直線へと入ります。


「あああ、もう! こうなったら走り抜けるよ! 頑張れベレディー!」


 速度を上げて直線へと入った私は、大きく膨らんでコース中央をそのままの勢いで駆け抜けていきます。


 この時、私の頭は後続の馬の事は欠片もありませんでした。ただ、雨が強くなる前に何とかゴールを駆け抜ける事。その事しか頭にありません。


 ポツポツと顔に当たる雨を感じながら、私の心の中は恐怖で一杯でした。


 併せて、息が苦しいです。持久走の時以上に呼吸が辛いです。その辛さが更に恐怖を煽りました。


 そんな中、鈴村さんの声が一瞬聞こえます。


「ピッチ走法!」


 その声で咄嗟に走り方がタンポポチャさんっぽい走り方になりました。そして。そのまま坂を上り切った先にゴールが見えます。


 雨は嫌~~~~! 凄い降って来た~~~!


 次第に強まる雨を意識していたら、ゴールを駆け抜けていました。


「ベレディー! 止まって! 勝ったよ!」


 鈴村さんの声と、強く引かれた手綱の御蔭で私はやっと立ち止まりました。


「ベレディー、大丈夫? 異常は? 怪我はない?」


 鈴村さんが慌てた様子で鞍上から私の様子を確認します。


 でもね、どこかが痛いとかそういうのは無いの。ただね、すっごい疲れたのと、怠いのと、あとは息が苦しくてお返事がまだ出来ないのよ? 息が整うまでちょっと待ってね。


 鼻をフゴフゴしながら一所懸命呼吸を整えます。


 その間にも、鈴村さんは私の状態を確認して大きな異常が無さそうな事に安堵したみたいです。


「ベレディー、凄いよ! 頑張ったね!」


 そう言って私の鼻先を優しく撫でてくれました。


 この時には、降って来る雨の量は目に見えて多くなって、小雨どころではありません。


 私は、ただただ降って来る雨を恨めし気に眺めました。もう少しだけ降るのが遅かったら、そうすればこんなに疲れる事にはならなかったんです。


 そんな私の顔に当たる雨は、更に勢いを強くしていきます。


「ベレディー、検量室に戻ろうか。どう? 動ける?」


 ちょっとまだ動けなさそうなので、頭を上下に振って無理よとお返事しました。まだ息が整っていないのと、脚が思いっきり怠いんです。動きたくないんですよ。


 ううう、でも、本当に本降りになる前にレースが終われて良かったよ~。


「ブヒュヒュン」(怖かったの)


 雨に対する恐怖に囚われていた私は、漸く此処で体全体がギシギシしているのを感じました。


 今もお鼻ですごい息を継いでいます。まだまだ肺に酸素が足りていないです。


 そんな時、観客席から大きな歓声が響き渡りました。


「え? すごい! レコードだ!」


 ん? 音楽ですか? CDすら廃れたはずですけど、鈴村さんはまだレコード持ってるの?


 未だに酸素が行き渡っていないからか、私の思考が全然はっきりせず、ただ疲れたって気持ちだけがいっぱいです。


「ブフフフフフン」(疲れたの~、持久走くらい疲れたの~)


「うん、頑張ったね。凄いよベレディー! 1着だよ!」


「ブヒヒヒン」(1着より雨が怖かったの~)


 私が甘えるように嘶くと、鈴村さんは私の首をポンポンとあやす様に叩いてくれます。


「さあ、ゆっくりでいいから移動するよ」


「ブフン」(判った~)


 私は、ゆっくりと雨に打たれながら、滑らないように慎重に検量室へと向かいました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る