第73話 オークスと雨とヒヨリ
東京競馬場で、3歳牝馬クラシック伝統の一戦オークスが間もなく開催される。樫の女王を目指し今年は18頭の牝馬が激戦を繰り広げる。
しかし、その空はシトシトと昨日から雨が降り続き、水捌けが良いと言われている競馬場の芝も状態はすでに稍重から重へと表示を変え、今日行われた前半4レースは下位人気が1着を獲るなど波乱の様相を見せていた。
「止んでくれればと願っていたが、止まなかったな」
「午後に向けて回復方向とは言え、雨雲の予想でも止むのは夕方6時以降みたいです」
「そうなると馬場の回復は厳しいな」
武藤調教師は、現在行われている5レースを観戦し、出走する馬達の走りを見て、芝の状態を確認している。
昨日から引き続いて振り続ける雨、そしてその状態の芝を走る馬達によって、コース内側の状態は明らかに悪そうだった。外に比べ内に入った馬の差し脚が明らかに良くない。
「内側の馬場、状態は厳しそうだな」
「そうですね、見るからに馬場が荒れてますね」
恨めしい思いで空を見上げる。
「サクラヒヨリが雨を嫌わなくなりましたから、まあ勝負にはなるんじゃないでしょうか?」
調教助手の言葉に武藤調教師は頷く。
「流石に1番人気だからなあ、多少は存在感を出して欲しいが」
「少し前までだったら惨敗も有り得ましたね」
実際の所、今日のレースがどうなるのか武藤調教師も予想がつかなかった。
◆◆◆
オークスへの出走馬達がパドックを周回していた。
小雨とはいえ雨は降り続けている。馬によっては明らかに雨を嫌がっている素振りを見せていた。
そんな中をサクラヒヨリは引綱に引かれ回っているが、他の馬に影響されているのか明らかに気が立っている。
武藤調教師は、サクラヒヨリの首をポンポンと叩いて落ち着かせるが、周囲にいる馬を気にしているのか中々落ち着く気配が無い。
「とま~~~れ~~~」
ここで漸く止まれの合図か掛かり、騎手達パドック内にやってきた。
「ヒヨリ、大丈夫かな?」
香織は騎乗する前にサクラヒヨリの鼻先を撫でる。そして、ヒヨリが想像していた以上に雨を気にした様子が無い事を見て微笑みを浮かべた。
「ヒヨリは良い子だね」
「キュフフン」
ヒヨリは褒められて嬉しそうに嘶く。こういう所はベレディーと似ているなと思いながら、香織はサクラヒヨリへと騎乗する。
「鈴村騎手、テキからの伝言ですが、何とか掲示板内はお願いしたいです。もっとも、雨ですから厳しいのは承知していますが」
サクラヒヨリの引綱を手に、武藤厩舎の調教助手が鈴村騎手へ武藤調教師からの伝言を伝える。
「出来る限りの努力はします」
改善してきたとはいえ、やはり雨の中でのレースだ。走法を切り替えたとしても、そもそもの走りが遅ければ意味がない。それ故に、掲示板内というのも中々にハードルが高い。
トンネルを潜り本場場へと向かう。その間に鈴村騎手はサクラヒヨリの状態を確認していく。
「うん、ヒヨリの状態は悪くなさそうですね」
「パドックではちょっと気が立っていました」
「確かにちょっとイライラしてますね」
鈴村騎手は、何時もの様にサクラヒヨリの首をトントンと叩き、声を掛けてサクラヒヨリを落ち着かせようとする。
「ヒヨリ、今日は頑張ろうね」
首をトントンと叩きながら、声を掛けるとサクラヒヨリは耳を立てて鈴村騎手の声を聞き逃すまいとする。
「ヒヨリは良い子だね。大丈夫だからね」
「キュフン」
何時も以上に落ち着きが無い様子のサクラヒヨリに、香織は首をトントンと叩いて宥めていく。
そして、引綱を外され本馬場へと入る時にサクラヒヨリの様子を窺う。すると、雨は嫌がらないながらもやはり足を取られるのが気になる様子だった。
「やっぱり重いよね。結構水を含んでいるなぁ」
ざっと見た感じでは、この二日間のレースによって馬場内側の芝はかなり荒れている。
「先行する予定だけど、内に入ると厳しそうだなぁ」
香織の言葉にサクラヒヨリは耳をピコピコさせている。
「うん、何でもないよ」
その様子に気が付いた香織は、また首をトントンしてあげるのだった。
ゲート前の馬溜まりでは、各馬がグルグル回っている。
鈴村騎手が見る限りでは、前走の桜花賞と違い逃げ馬のカラフルフルーツは入れ込む様子も無く落ち着いているように見える。4番と好位置でのスタートで、恐らくカラフルフルーツは逃げてくるだろう。特に雨を気にした様子も無い為、今日は気をつけないとと思う。
今日も外枠になった16番サイキハツラツも雨を気にした様子は無い。桜花賞で2着に入っているし、その末脚が今日の重馬場でどう発揮されるのか。
その後、ゲート前へと移動して各馬の様子を見ている間にも、ファンファーレの音が聞こえゲート入りが始まった。
「ヒヨリ。さぁ、行こうか」
「キュヒュン」
枠順は11番と中々に厳しい枠順を引いたと思う。
先行したいサクラヒヨリであるが、雨で出足に勢いがつかないだろう。恐らく中団からのレースを余儀なくされる。それでも、以前のような雨を忌避する様子は見られない。それならば、まだやりようはあるのだろう。
「問題はマークだよね」
何と言ってもサクラヒヨリはグリグリの1番人気だ。
そう簡単に思ったようなレースはさせて貰えないだろうし、ましてやこの雨の中で泥を被れば走る気を無くす可能性は高い。
「11番だけど、スタートで一気に前に行くしか無いね」
誘導されるままに、サクラヒヨリは大人しくゲートへと入る。
そして、ゲート内で相変わらず不安そうな様子を見せるサクラヒヨリに首をトントンと叩きながら声を掛け続ける。
最後の馬がゲートへと誘導され、係員がゲートを潜って外へと出る。
「そろそろだよ」
いつもの様に声色を変え、サクラヒヨリにゲートを意識させた。
ガシャン!
大きな音をさせてゲートが開き、サクラヒヨリは好スタートを切る。
「そのまま行くよ!」
いつもと違い、手綱を扱いてサクラヒヨリを前に押し出していく。
観客席からの声援も心なしか雨のせいで小さく感じる中、やはり先頭を行くカラフルフルーツの後ろへと何とか付ける事が出来た。
「うん、思っていたよりしっかり走れているね。ヒヨリはすごいね」
そう声を掛けながら、鈴村騎手はサクラヒヨリをカラフルフルーツの真後ろでは無く、少し外側へと位置取ることに集中する。
カラフルフルーツの走りを見る限りにおいて、やはり内ラチ沿いの荒れは酷く先程から大きく泥が跳ねているのが判る。
そして、1コーナーへと突入するが、ここでも最内へと押し込まれないように少し大回りになるのを覚悟で芝の状態が良い所を選んで走る。
「向こう正面の直線では息を入れるからね」
香織はサクラヒヨリに声を掛け、1コーナーから2コーナーを抜けていく。この段階で先頭を走るカラフルフルーツとは意識して2馬身程離れて追走していた。
「うん、いい感じで走れているよ。雨の日の走り方が上手になったね」
実際の所、サクラヒヨリの走り方は本来のストライド走法ではないのは判った。歩幅を小さくしている所はベレディーのピッチ走法のように感じる。ただ、ピッチ走法と比較すると若干上下の振れ幅が大きい。
「この走り方はスタミナ使うね」
恐らく最後の直線での伸びは期待できないだろう。
そうなると、向こう正面の緩やかな下り直線で後続との距離を取る方が良い? ただ、向こう正面で息を入れさせなければ、それこそ後半持たない。
レースはどちらかと言えばスローペースで流れているように感じた。先行しているカラフルフルーツも逃げと言うほどではない。
チラリと後続へと視線を向けると、同じように内を走らずにサクラヒヨリをマークするかのように追走するスプリングヒナノがいた。
最後の直線勝負をするのは怖いな。
ただ、このコースは3コーナーから4コーナーに掛けてから緩やかに上り、最後に急な坂が待ち構えている。その坂を上ってからもまだゴールまで300mもの距離があった。
2400mがここまで長く感じるなんて。
そう思いながらもレースは進んでいく。向こう正面の直線を抜け、サクラヒヨリは3コーナーへと入っていく。下りで勢いをつけるならこの坂を利用するのが1番なのだろう。ただ、その決断が香織にはできなかった。
ここからは、さすがに長いよ。
スタートで脚を使っている分を計算し、雨の為の特殊な走り方、芝の状態、すべてにおいてスタミナを消費している。
ここで小刻みにスパートを掛けれるほどサクラヒヨリとの意思疎通は出来ていない。ましてや最後の直線は坂も入れれば500mはある。そこに更に4コーナー分の距離を入れてのロングスパートは無理だと判断した。
最後の直線勝負、重馬場がどう影響するか。
4コーナーへ入ると、途端に後ろも騒がしくなる。
香織も4コーナーに入り、前を走るカラフルフルーツの外へコース取りを行う。すると、その動きに呼応したかのようにサクラヒヨリの内側へとスプリングヒナノが進み出て来た。
そして最後の直線、手鞭を入れサクラヒヨリをスパートさせる。位置取りは少し外へと膨らませて比較的芝の状態が良い所へ、合わせて前を走るカラフルフルーツの外を抜ける思い描いたコースだ。
「ヒヨリ、最後の坂だよ! 頑張って!」
サクラヒヨリが坂に向け小刻みにステップを踏むのが解った。
ただ、重馬場が影響しているのか、思うように速度に乗る事が出来ない。それでも、カラフルフルーツへと並びかけるが、ここでカラフルフルーツも最後の粘りを見せる。
「ベレディーに勝ったって言うよ! ベレディーが喜ぶよ!」
前走に合わせてミナミベレディーの名前を出すと、サクラヒヨリは更に馬体を沈めて更に加速する。
香織も、必死に腕に力を込めてサクラヒヨリの頭の上げ下げを補助する。
坂を上り切り残り300m、未だにカラフルフルーツとの並走が続いている。そんな中、後方からはスプリングヒナノ他の馬達も一気に加速して来た。
「ヒヨリ、頑張れ!」
必死にサクラヒヨリへと声を掛けながら腕に力を入れる。
残り200mを過ぎた所で、後方から一気に躍り出て来たのはサイキハツラツ、そしてスプリングヒナノ、共に重馬場を苦にした様子も無く鋭い加速でサクラヒヨリとカラフルフルーツを抜きに掛かった。
「ヒヨリ、あと少し! 頑張れ!」
香織の声と、恐らく抜かれようとしているのが判ったのだろう。サクラヒヨリは更に加速する。
ゴールまで残り100m。そこでスプリングヒナノとサイキハツラツはサクラヒヨリを捉え突き放す。必死に追いかけるサクラヒヨリであったが、前2頭との差はジワジワと開いていく。
そして、追い付く事が出来ずにゴールポストを通過した。
「お疲れ様、ヒヨリ頑張ったね。本当に頑張ったね!」
手綱を引きヒヨリを止めた香織は、首をトントンと叩きサクラヒヨリを労う。
しかし、サクラヒヨリは負けた事が解っているようで、頭を上下に振って不満を露わにしていた。
「ヒヨリは頑張ったよ。ごめんね、力になってあげられなくて」
「キュフフン」
言葉にすると正にしょぼんと言った様子で項垂れるサクラヒヨリ。こういった所作もミナミベレディーと似ているなとそんな事を思いながら、香織はサクラヒヨリを検量室へと誘導していった。
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