第71話 ヴィクトリアマイル

 近年、より高速化してきている4歳以上牝馬限定のGⅠヴィクトリアマイル。コーナー直前の上り坂に加え、最後の直線でも2.1mの上り坂が待ち構えている事から、スピードのみならず、スタミナ、持続力が求められると言われている。


『東京競馬場、左回り 芝1600m 馬場は良、絶好の天候に恵まれ、4歳以上牝馬達による春の牝馬チャンピオンを決めるこの一戦。


 ローマ神話の勝利の女神、ヴィクトリアが微笑むのはいったいどの馬なのか!


 1番人気は阪神ジュベナイルフィリーズ、オークス、そして秋華賞とGⅠ3勝を上げるタンポポチャ号。2番人気には阪神牝馬ステークスを勝ちましたプロミネンスアロー、3番人気にヴィクトリアマイル連覇を狙うナグリプリ。


 更には、一昨年のオークス馬シーザーサラダ、錚々たるメンバーが集うヴィクトリアマイル。果たして・・・・・・』


 磯貝厩舎の面々は、東京競馬場に到着したタンポポチャの状態を見て満足げに笑顔を浮かべる。


「うん、肌艶も良い、気合も入っている。これで負けたら鷹騎手が悪いな」


「ここ最近で1番の仕上がりですよ」


 タンポポチャも首をブンブンと振ってまるで気合を高めているようだ。


 不思議な事に、今日はミナミベレディーを探すような様子が無い。何となくだが、今日のレースではミナミベレディーが出走しない事を解っているようだった。


「プロミネンスアローが阪神牝馬ステークスで良い勝ち方をしている。要注意だな。そこから一叩きしてどう良化してきているか。もっとも、一番注意しないとならんのはナグリプリか。タイプ的にタンポポチャと似たスタイルだからな、注意しないといかんな」


 今日も1番人気とタンポポチャは常に人気上位を占めている。そのプレッシャーは騎手のみならず厩舎にも勿論掛かっていた。


 しかし、不思議と磯貝調教師はこのヴィクトリアマイルでは負ける気がしていない。もっとも、ここで負けるようであれば最優秀4歳牝馬の称号など雲の彼方だ。


「タンポポ、無様なレースをしたらミナミベレディーに笑われるからな」


 磯貝調教師は笑いながらそう言ってタンポポチャの首を叩くが、タンポポチャはその発言なのか、その雰囲気なのか、どうもお気に召さなかったようで磯貝調教師にカプリと噛みつこうとする。


「む、いかんな。ご機嫌を損ねてしまったか」


「先生、頼みますよ。こいつ頭が良いですから馬鹿にされた事をちゃんと解りますよ」


 呆れた表情を浮かべる調教助手に、苦笑いを浮かべながらブラシを手にタンポポチャを宥めるのだった。


◆◆◆


「ブフフン」(良いお天気ですね)


 雲一つ無いは言い過ぎですが、五月晴れという言葉を彷彿させるように青空が広がっています。


 これで、来週が雨と言うのは何となく理不尽な気がしますが、流石に私には天気をどうこうする事は出来ないですね。


 でも、晴れているし、タンポポチャさんは良い感じで走れそうですね。お昼を過ぎましたし、そろそろタンポポチャさんがレースに出る頃でしょうか?


 私が走ったことの無いレースですが、チラリと聞いた所によると走る距離は1600mだそうです。思わず長距離でなくて良かったねとタンポポチャさんとお話しましたよ。

 ただ、タンポポチャさんの言葉は判らないので何となくなんですが、会話が成り立っているような気がするので不思議です。


「キュフフン」


 先程まで一緒に走っていたヒヨリが、今日は私の横でご満悦な表情で佇んでいます。


 久しぶりに午前と午後の調教を一緒にしたからですかね? ここ二日間は午後はタンポポチャさんと一緒に走っていましたからね。


 朝の調教時に私の匂いを嗅いだ後、なぜかご機嫌になったヒヨリですが、もしかしてタンポポチャさんの移り香とかありました? でも、調教後は綺麗に洗ってもらっていますから、はて?


 ともかく、今日も来週のオークスへの対策をヒヨリと一緒に行っています。私もですが、雨でもレースに出なきゃいけない事って出て来ると思います。その際に最低限滑って転んだりして怪我をしない様な走りをしないとですよね?


「ブフフフン」(こないだの走り方を研究しましょう)


「キュフン」


 私は考えるお馬さんなのです。雨の日だからスパイクとかで滑らないようにしてくれれば良いのですが、脚につける蹄鉄は改造しちゃ駄目なのかな?


 ただ自分ではそんな事は出来ないので、走り方を研究するしか無いですね。


 降って来る雨はもう我慢するしかありませんし。


「ブフフフフン」(こうやって蹴り足をキュっとするとしっかり蹴れますね)


 今日は雨では無いのですが、砂のコースで練習です。


 砂のコースへ行きたいよとお願いして、ヒヨリと共に強引に砂のコースへと来ちゃいました。ここで、砂を蹴って走る練習をするのですが、滑る感じは無いので今ひとつかな? ただ、色々な場所を走る事は悪い事じゃ無いですよね。


「キュヒヒン」


「ブフフン」(走り難いよね~)


 ヒヨリもズブズブと脚が埋まる砂のコースに、ちょっと戸惑っていますね。


 ただ、蹄で引っ掻くような走り方は、乾いた芝のコースではちょっと難しかったのです。


「ベレディーもヒヨリも態々ダートコースへ来たがったのはこういう意味だったのね」


 ヒヨリの鞍上にいる鈴村さんが興味深そうにしています。


 もっとも、調教後の自由時間みたいなものなので、私達に自由に走らせてくれるのです。


「これってもしかして雨対策ですか?」


「どうかな? 雨が降っていれば別だけど、何となく遊んでいるだけかも?」


「ブヒヒン」(練習ですよ!)


 鈴村さんの言葉に、ちゃんと抗議します。遊んでいる訳じゃありませんよ? 何と言ってもヒヨリの為です。


「ベレディー? う~んと、やっぱり走り難いのかな?」


「まあダート向きじゃないですから。ただ、ダートは脚に負担が少ない代わりに力が要りますから良い練習にはなるかもですね」


 鈴村さんに抗議をしますが、やっぱり通じて無いみたいです。


 ただ、そうなんですね。


 聞いていると砂がクッションになっているみたいで、脚に衝撃が伝わりにくく脚には優しいそうです。それに、深い砂での運動で芝以上に脚の筋肉には負荷がかかる?


「ブヒヒヒン」(何となく感じがつかめたかな?)


 それでもトットコ走っていると、何となく走れるものですね。ただ、当たり前ですけどスピードは出ません。


「キュフフン」


 私より器用なヒヨリは、何となく砂を後ろ足で蹴り上げるのが楽しくなってきたみたいです。後方を走る私にバサバサと砂を蹴り上げて来るので、私はやり返してやろうと前に進むのですが、そうするとヒヨリは慌てて速度を上げました。


「ブヒヒヒン」(待ちなさい! 速度を上げすぎですよ!)


 ヒヨリは来週末がレースなので、あまり運動させては駄目ですよね。ここら辺で切り上げる事にします。


 ただ、何か砂を蹴り上げる遊びが楽しかったみたいで、ヒヨリは未練がましく砂場のコースを振り返っていました。


◆◆◆


『最終コーナーを廻って、先頭は4番ファニーファニー、そのすぐ後ろに11番プロミネンスアロー、残り200m、後方から一気にナグリプリ、タンポポチャが追い込んでくる! 各馬横並びで最後の坂へ!


 ここで前に出たのは6番ナグリプリ! その横に11番タンポポチャ! プロミネンスアロー、ファニーファニーは伸びてこない! 最後の叩き合い! 僅かに前に出たのはタンポポチャだ! タンポポチャ僅かに先頭! 坂を上り切り、先頭でゴールへと駆け込んだのは11番タンポポチャ! 勝ったのは1番人気タンポポチャ! これでGⅠ4勝目! タンポポチャに勝利の女神が微笑みました! 勝ったのは11番タンポポチャ! 2着に6番ナグリプリ・・・・・・』


 磯貝調教師はタンポポチャが最後に伸びて首差ながらもヴィクトリアマイルで勝利を掴み取った瞬間、何時の間にか体に入っていた力を抜いた。


 レースの展開としては、中団につけたタンポポチャが、途中馬群に沈み持ち出しが遅れた事でヒヤリとした。それでも、前方に開いた隙間を突いての差し切り勝ち。ただ、中々に厳しいレースだったと振り返る。


「マークが厳しかったな」


 11番という事で、スタート後に中団前寄りへ付けれた事は悪くは無かった。しかし、その後は明らかにタンポポチャをマークする様に周りを他の馬に固められる。


 GⅠ有力馬が揃うレースでここまで露骨なケースは珍しいが、それだけタンポポチャが突出していると見られているのだろう。窮屈そうな走りをする中、最後の4コーナーで前の馬が膨らんだ隙をすかさず突いて、鷹騎手が上手くタンポポチャを前に押し出した。


 その後は最後の末脚勝負となるが、どうにかタンポポチャが首差で差し切った形だった。


「良くあそこで前に出れましたね。流石は鷹騎手という所ですか」


「ここまで厳しいマークをされるとはな。予想外だった」


「牝馬ではやはり頭一つか二つ飛びぬけてますからね」


 1番人気とは言え、実力的に言ってもタンポポチャと遜色のない馬はいた。それ故に、磯貝厩舎としてもここまで露骨なマークは想定していなかった。


「今後のレースではより注意が必要だぞ」


「安田記念では流石に1番人気は無理ですから、その点は安心できますって」


 混合マイル戦は、流石に勝てると言い切れるほどの自信はないが、負ける気も無い。


「安田記念はもう少し早く美浦へ持ち込むか? ミナミベレディーとの併せ馬効果もあるからよ」


 磯貝調教師はそう言って笑いながら、タンポポチャと鷹騎手を労いに向かうのだった。

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