第68話 春の天皇賞 その後

「うきゃ~~~! 勝っちゃった! 凄い、トッコが勝っちゃった!」


 桜花は、北川牧場で家族、従業員揃ってテレビで天皇賞を観戦していた。


 ゴールデンウィークなど関係が無い牧場では、4月に生まれた仔馬達の世話、これから種付けに入る繁殖牝馬たちのチェック、日常の牧場業務に、更には飼育している乳牛の世話、畑の種蒔きなどこれでもかと言うほどに忙しかった。


 その為、桜花は週末には実家へと帰ってお手伝いの日々であった。


 桜花は必死に京都競馬場へと行きたいとお願いしたのだが、とても勝てるとは思っていなかった春の天皇賞へ行く事は、残念ながら財務大臣によって無情にも却下されたのだった。


「ほら~~~! お母さん、やっぱり行くべきだったよ! トッコが勝ったよ! 私は勝つって信じてたもん!」


 ここぞとばかりに母親に文句を言う桜花であったが、桜花の喜びに対し父も母も困惑した表情をしていた。


「あれ? お父さんも、お母さんもどうしたの? トッコが勝ったんだよ?」


 思いっきり喜びを表現している自分とは違い、両親は明らかに喜んでいないのだ。


「もちろんトッコが勝ってくれたのは嬉しいわよ。これでGⅠを3勝ですもの。凄いわよね。でもね、後の事を考えるとちょっと心配なの」


「そうだなぁ、まさか勝ち過ぎて悩みが深まるとは思わなかったな」


 両親の言葉に、桜花は首を傾げた。


「なんで? 勝てば賞金も貰えるし、将来的にもトッコの価値も上がるし、良い事尽くめだよね?」


「トッコが引退して、繁殖牝馬になったとしてだな、種付け料が100万円や200万円の種牡馬を種付けする。そうすると馬主さん達がどういう反応をするかが怖いな。

 それに、うちには他にも繁殖牝馬は居るからな。更には翌年にはサクラヒヨリも帰って来るだろう。下手すると同じ年になんてこともあるかもしれん。そうなった時に種付け料がなあ」


「そうね。キレイがまだ繁殖牝馬として現役で、数年は産駒が見込めたら違ったんでしょうけど。トッコが引退して繁殖牝馬になって、5年間は種付け代を大南辺さんに半額みて貰えると言ってもうちで出せるのが100万から150万円くらいね。

 そうすると、200万円から300万円台の種牡馬となるかしら。でもね、一流種牡馬の種付け代は1000万円を楽に超えるの」


 父と母の発言に、桜花の喜色に輝いていた表情が一気に青白くなった。


「まあ産駒も高値で売れてくれるだろうが、資金繰りがなぁ。そもそも売れるかどうかは博打だ」


「日々の飼葉代もいるし、みんなのお給料とか設備の維持費も掛かるわね。残念だけどうちの牧場では種付け料にそんなに高額は掛けられないの」


 実績があったサクラハキレイの産駒牝馬であるトッコですら、最初の庭先取引では売れ残ったのだ。その後、予想もしない活躍をしてくれているが、それが将来の保証になる訳では無い。


「・・・・・・もしかして、トッコが引退したら売っちゃうの?」


「そうならないように貯金はしているぞ。元々、うちは貧乏牧場だからな、節約は得意だ」


「トッコにとってそれが良い事かは判らないわね。でも、あの子は桜花が大好きだし、うちの牧場で過ごしたいと言ってくれると思うわ。もっとも、話せないけどね」


 そう言って笑う母だが、その表情はいつもの母の表情では無かった。母とは逆に胸を張ってそう告げる父を見て、桜花はこのままでは不味いのであろう事を理解した。


「アルバイト始めようかな」


「アルバイトも悪くは無いけど、しっかりと勉強しなさい。卒業後はこの牧場を盛り立てていくのでしょ?」


「そうだな、私達の時代では教わらなかった事も教わるだろう。馬だけでなく畜産や農業だってどんどん進化していっている。せっかく農学部へ進学したんだ、しっかり勉強しなさい」


「でも、繁忙期は手伝いに帰って来るのよ?」


 両親の怒涛のような口撃に、桜花は碌に反論できずに沈むのだった。


 そして、明日学校がある桜花を駅まで送り、恵美子と峰尾は二人で顔を突き合わせる。


「まさか天皇賞を勝っちゃうなんて、困ったわねぇ」


「今でも何件かしつこく電話が来ているのだろ?」


「ええ、それが更に増えて、更にしつこくなりそうだわ。どうしたものかしら」


 ミナミベレディーが引退後、北川牧場で繁殖生活に入る事は競馬関係者達には既に周知されている。


 そして、ここに来てミナミベレディーが引退後、是非売って欲しいとの問い合わせや、中には子供が娘しかいない事で北川牧場自体を売って貰えないかなどの問い合わせも複数来ていた。


「あの子が札幌に住んでいて良かったわ。交渉に突然来られる方は土日には来られないから」


 ただ、この春の天皇賞勝利の影響で、この動きはさらに過熱していく事は目に見えていた。


「どうしたものかしら」


 生産牧場としてそれなりの歴史はある北川牧場ではあるが、付き合いのある人達は個人馬主が主である。牧場間での交流も無くはないが、どちらかと言うと零細牧場同士といった状況で、今回のようなケースは聞いた事が無い。


「今度のヒカリ達のお見合い会で十勝川さんに相談してみようか? そこまで親しい訳では無いが、自分達だけで悩んでいてもな」


「そうね、このままでは不味いわね。実際の所、長い目で見れば全然お話にならない価格しか提示されていないのも、足元を見られているのかしら?」


「ちなみに、一番高くて幾らと言われたんだ?」


「トッコに1億2000万円ね。もう少し無理は利くと言ってらしたけど、とてもとても」


「おおう」


「貴方も身辺気をつけてね、それこそハニートラップとか怖いわよ?」


「嫌な話になって来たな」


 元々お金を積まれれば売るという話でも無く、ミナミベレディーは今や北川牧場の将来を支える大事な馬となっている。ましてや、桜花も、トッコもお互いがあれ程仲が良いのだ。


「売ったりしたらせっかく牧場を継ぐ気になってくれた桜花が継ぐのを止めかねないわ。それに、トッコはこの牡馬で種付けしろって言われても、気に入らなかったら絶対に大暴れしそうよね」


「・・・・・・するだろうなぁ」


 そもそも、トッコは生まれた時から変な走り方をしていた馬だ。ただ、思い返せばあのような走り方をしていたからこそ、今に繋がっているのかもしれない。そんな風に思う峰尾であった。


◆◆◆


 ミナミベレディーが勝利した瞬間、大南辺は妻と共に馬主席で観戦していた。


 ただ、何時ものように大騒ぎになる事がなかったのは、傍らではテレビのカメラが回っていた事を意識しての事だった。


 それでもレースが始まりミナミベレディーが逃げに入った段階で、大南辺は呆然とした表情になり、最後の直線では思いっきり握り拳を作り、必死の形相でモニターを眺めた。


 3馬身差でゴールを駆け抜けた勝利の瞬間、思わず叫びだしそうになりながらも、咄嗟にカメラの事に気が付いて叫びだすのを抑えた。その姿がばっちりとカメラに映されていたりする。番組が放映されるときに使われるかどうかはテレビ局次第だ。


「大南辺さん、おめでとう! 凄いですね! 牝馬で春の天皇賞勝利なんて!」


「いやぁ、まさか牝馬が勝つとは思わなかった」


「うちのプリンセスフラウのGⅠ勝利をまんまと盗られましたよ。牝馬で春の天皇賞、期待していたんですが」


 周囲の馬主達からは、今までのGⅠ勝利の比ではないくらい多くの祝福の声が注がれていく。


 中には、牝馬で2着に入ったプリンセスフラウの馬主、盛田の姿もあった。此処は馬主席であり、この場に居る馬主達は自身の所有馬が負けたことになる。


 ただ、そんな事は関係無いとばかりに周囲は盛り上がっていく。そして、その様子を撮影するテレビスタッフ達の方が戸惑いを隠せないでいた。


「ミナミベレディーは凄い馬ですね。今後さらにどんな活躍をするのか。海外は考えていないんですか?」


「来年の連覇も楽しみになりそうですね。今ですら記録に残るのに連覇したらそれこそ快挙ですよ!」


 次々と馬主達が大南辺に声を掛けていく。大南辺はその対応におおわらわになっている。この為、競馬に詳しくないテレビスタッフ達はいったい何が原因で騒ぎになっているのかが判らない。


「何か今までに無い盛り上がりですね。一応、撮影していますが、これって後で使えますかね?」


 カメラマンが撮影しているのは、ミナミベレディーとサクラヒヨリに重点を当てた番組制作の為であった。


 そして、その撮影を補助しているADは、ミナミベレディーが春の天皇賞を勝利した事で、更にドラマ性が上がったかと喜んではいた。しかし、そこまで競馬に詳しくない為、傍らにいる自称競馬通のスタッフに尋ねる。


「天皇賞を勝った事は凄いと思うんですが、何か馬主の人達の騒ぎ方が凄いですね。何かあるんですか?」


「はあ、春の天皇賞を取材に来ているんだ、それくらい勉強して来いよ。牝馬は長距離だと折り合いがつかない。今までの記録でも、春の天皇賞を勝った牝馬は1頭だったかな? つまり、それくらい凄いんだよ」


「はあ、そうなんですか」


 うん、それの何が凄いんだ? そんな思いを隠しながら、ADは大南辺の様子を撮影する事に集中する。


 そして、そんな会話が聞こえて来た馬主達は、どうせ馬関係の番組なのだから競馬チャンネルのスタッフを使えばいいのにと、呆れた視線を送るのだった。


 もっとも、今回のドキュメント番組を企画したテレビ局では、競馬関係の専門番組を持ってはいないのだが。ただ、競馬アイドルの細川美佳が今回も北川牧場の代理で来ているのは知っていた。


 その為、この後どうせ映像に細川が映るのだから、細川を呼んで来ればよいのにと思っていたが、テレビ局が依頼するとギャラの問題が発生するのだ。


 その為、一応は上にお伺いを立てたのだが、残念ながら却下されてしまった。


「ほんと、あそこはケチなんだから!」


 細川曰く、番組作成のテレビ局はケチらしい。

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