第66話 春の天皇賞 後編

 いつも通りに綺麗なスタートが切れたかな?


「ベレディー、最高!」


 そう思っていたら、鈴村さんがいつもの様にスタートを褒めてくれます。


 そして、私はスタート直後の坂をタンポポチャさん走法で駆け上がります。他のお馬さん達はスタート直後の坂に勢いがつかないみたいで、私は素直に先頭に立てました。


「うん、予定通り。このまま下りの坂で更に突き放すよ」


 3コーナーを登り切るまではタンポポチャさん走法でチャッチャカとした勢いで駆け上がります。4コーナーからの下りでは、ストライド走法へと切り替えて普段のノビノビとした走りで更に後ろを突き放しました。


 これは、事前の予定通りで、他のお馬さん達が上り坂で勢いがつかないうちに、一気に後続との差を広げるのです。


 そして、最初の直線に入った時にチラっと見た所、2番手のお馬さんとは3馬身以上は離れていました。その2番手のお馬さんから3番手のお馬さんも結構離れている様に見えたから、これで逃げになったのかな?


 今回は、出来るだけ追い込んでくるお馬さんの地力を減らす計画なんだそうです。


 鈴村さんとの勉強会で、色々な長距離のレースを見た? 聞いた?


 そんな数々のレースの中で、一際印象に残っているのは長い距離を走って勝利したセイテンノソラという逃げ馬さん。思いっきり大逃げをして、そのまま勝っちゃったレースです。


 もっとも、そんなレースを再現できるかは判んないんですけどね。


「このまま向こう正面まで気を抜かずに行くよ。でもゴールまで坂も無くフラットだけど、だから追い込み馬の末脚が怖いからね! あ、向こう正面では速度を落として一旦息を入れるよ」


 鈴村さんから細かな指示が出るんですが、普通のお馬さんだと意味が解らないと思うんです。私以外のお馬さんでの騎乗が心配ですよ?


 私はタッタカ気分良く走っているんですが、後ろのお馬さん達は全然追いかけて来ませんね。


 うわぁ、すっごく気分が良いよ! 何か楽しくなってきちゃった!


 観客席前の直線を一人でタッタカ走っていると、ウワーっていう歓声が響き渡ります。


 その歓声を背中に受けて走って行くと、確かにゴールまで平坦ですね。最後に走って来て疲れた状態で坂は嫌なので、そう考えると楽なのかな? でも、追い込み馬さんですか、うん、良く判りませんね。


 そんな事を思いながら1コーナーへと入っていくのですが、驚いたことに後ろにいたはずのお馬さんが更に後方にいます。


 もしかして気分が良いのでハイペースになっちゃいました?


「うん、予定通りだけど、ベレディー、まだ距離があるから無理しちゃ駄目だよ」


 う~んと、無理とは何でしょうと言いたいのですが、とにかく一人で独走状態です。このままゴール出来たら凄いですよね。


 そんな事を思いながら、1コーナーから2コーナーに入って、また向こう正面の直線に入りました。そのちょっと前にカーブを利用して後ろをチラリと見ると、後ろのお馬さん達が慌ただしくなっています?


 何となく後ろのお馬さん達が少し前に出てきているみたいです。ただ、2番手を走るお馬さんとはまだ結構な距離があるかな。


「この直線でスタートしてすぐの坂があるけど、ここは流して良いからね。最後の4コーナーの下りからスパートするから、今は無理せず脚を休ませるんだよ」


 直線に入ると、軽く鈴村さんが手綱をクンクンと引きます。私は速度を緩めて直線を走りますが、不意に変な事が気になっちゃいました。


 あれ? そういえばスタートしたゲートって廻って来るまでに引っ込めるのね。もし不具合が出て引っ込められなくなったら大変よね。開いたゲートの間を擦り抜けていく障害物競争?


 そんな事を考えて走っていたら、あっという間に上りの坂道に差し掛かります。


 上りの坂ってやっぱりノビノビと駆け上がれないから嫌い!


 どうしても速度が落ちちゃうんですよね。小さく小刻みに走らないと、足を思いっきり伸ばして走るにはつっかえると言いますか。そして3コーナーへと上って漸く緩やかな下りに入りました。


 ただ、この坂を登っている所で、一気に疲れと言うか、呼吸が厳しくなってきました。


 むぅ、坂ってやっぱり疲れるんですよね。


 コーナーに入ったのでチラっと後ろを見ると、直線の坂で速度を落としていた事で後ろのお馬さんが距離を詰めて来ていました。ただ、最初に後ろにいたお馬さんと違いますね。私は予定通りこっから下り坂で速度を上げていきます。


 予定通りなんですけど、本当に予定通りなんですけど! 思いっきり怠いんです!


 馬って口から呼吸が出来ないんですよ。息が苦しいので必死に鼻で息をするんですが、口で大きく呼吸出来たらどれだけ楽なんでしょう。


「うん、いい感じだよ! まだ後ろと5馬身は差があるよ! 残すは最後の直線だから、ベレディー頑張って!」


 4コーナーを廻って加速をつけたまま最後の直線へと入ります。すると、鞍上の鈴村さんが後方を見て確認したのか、後ろのお馬さんとの距離を教えてくれます。


 あのね、でもね、私、結構疲れて来たのよ?


 一生懸命楽しい事とか、美味しい氷砂糖を思い浮かべたりして苦しさを誤魔化します。


 最初は他のお馬さんを置き去りにして、一頭だけで気分よく走れていたからすっごく楽しかったんです。


 でも、よく考えたらやっぱり距離が長いんですよね。脚よりも先に息が切れて来ちゃいました。今までは脚が痛くなったりとかあったんですが、これは初めての事です。


 呼吸法の問題でしょうか? スウスウ、ハッハでしたっけ? 長距離を走る時の呼吸法って。


 そんな事を考えて苦しさを誤魔化しているんですが、やっぱり息が苦しいです。と、兎に角、ゴールしちゃえば楽になるのです。早く楽になりたくて最後の距離を必死に走ります。


 ただ、此処に来て今まで聞こえなかったドドドドと言う競馬音楽が後方から聞こえてきました。


「ベレディー! ピッチ走法!」


 鈴村さんの指示を受けて、咄嗟に走り方をタンポポチャさん走法へと変更しました。


 頑張って走るんですけど、何かちょっとぼ~っとなって来て、無になってました。他のお馬さんの様子何て気にしてられないのです。とにかくゴール目指して駆け抜けるのです。


「ベレディー! 頑張って! あと少しだよ!」


 鈴村さんの声だけを聴きながら、私は必死に足を動かして、どうにかゴールを駆け抜けました。


「やった! 勝ったよ! 圧勝だよ! ベレディー凄い!」


 鈴村さんが何か叫んでます。


 終わったよ~、ゴールだぁ。もう持久走は嫌! 絶対に嫌!


 ゴールを通過した時に湧いて来た思いは、とにかく終わった事への安堵ですよ。当初の走り始めの気分何て、あっという間にどっかへ飛んでっちゃいました。


 何か楽しくなってきちゃったですか? そんなこと言うのはどこのおバカさんですか?


 そんな事を言う前に、まずは長距離を走ってみてから言ってください!


 ブンブンと頭を振って、思わずお怒りモードの私です。頭をしばらくブンブンした御蔭で少し気持ちが落ち着いて、漸く鈴村さんの声が聞こえました。


「ブルルルルン」(鈴村さん何か言ってた?)


 疲れてたのと、お怒りモードでぜんぜん聞こえていませんでしたよ。


「ベレディー、お疲れ様。頑張ったね! 大丈夫? 何処か痛い所は無い?」 


「ブヒヒヒーン」(疲れたの~、もう長距離は嫌~)


 何度か大きく深呼吸をして、漸く呼吸が整ってきたんですが、今度は疲労がどっと襲いかかってきました。


「ブフフフン」(もう長距離は止めようね?)


 鈴村さんにそうお願いをしています。もう天皇賞という名前には騙されませんよ!  

 何かすっごく格式高い名前だなあって思っていたんですが、格式が高いっていう事はそれだけ苦しいって事だったんです。


 みんなが芝3200mだよって言ってたんですが、その苦しさが走ってみて漸く実感できました。


「うん、疲れたよね。ゆっくりでいいから移動しようね」


 鈴村さんが首をトントンと優しく労わる様に叩いてくれます。そのリズムを受けながら、私は検量室へと向かいました。


「ほら、綺麗にして貰ったら表彰式だからね」


 ん? 検量室へと入ると1着の枠のお隣に牝馬のお馬さんがいました。もしかして2着に入ったのかな? 偶々かな? でも、牡馬ばっかりの中で牝馬さんがいると嬉しくなります。


 うんっと、話しかけようかな?


 そんな事を思っていると、周囲から鈴村さんと私に祝福の声が掛けられます。


「ブルルン」(疲れたの~)


 何か勝ったと言う実感よりも、ただただ疲れたって思いだけしか残っていません。早く馬房に戻って寝転がりたいですよ。


 その後、私は検量されて、馬体を綺麗にして貰って、表彰式があるんですよね。早く休みたいなあ。


 そんな事を思っていたら、鈴村さんが首をトントンして話しかけて来ました。


「今日は桜花ちゃんが来れてないから残念だね。ベレディーがこんなに頑張ったの直に見てもらいたかったね」


「キュフン」(桜花ちゃんいないんだ)


 パドックでも見つけられなかったもんね。


 しょぼんとしながら、私は検量の枠へと入るのでした。

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