第60話 桜花賞とサクラヒヨリ

 桜花賞当日、武藤調教師は阪神競馬場の馬房で、ソミー製の録音機を手にサクラヒヨリにミナミベレディーの嘶きを再生し聞かせながらブラッシングをしていた。


 サクラヒヨリは至極ご機嫌な様子で、録音機から聞こえる嘶きに耳を傾けている。おかげで今日のレースでも良い感じに勝負が出来そうだった。


「ミナミベレディーの嘶きを録音してきて良かったんだろうな。これの御蔭で何とかサクラヒヨリの調子が落ちなくてすんだ」


 鈴村騎手が録音機を手に厩舎へとやって来た時、ハッキリ言ってコイツは何を言っているんだ? と正気を疑った。ただ、サクラヒヨリがミナミベレディーに非常に懐いている為に、駄目で元々と思い試してみたのだった。


 輸送当日は流石に気が立っている様子ではあったが、その日の夜にミナミベレディーの声を聞かせる事でサクラヒヨリはどうにか落ち着きを取り戻してくれた。


 その後も、調教が終了し馬房へ戻った時には必ず嘶きを流すようにしている。


 最初の頃は、嘶きを聞かせるとミナミベレディーを探す素振りを見せていたが、近くにいると思って安心しているのか、ここ最近は不思議とそのような挙動も収まっていた。


「キュヒヒン」


「ヒヨリ、今日は頑張ってくれよ」


 そう声を掛け、武藤調教師はサクラヒヨリの様子を確認していく。


 今日がレース当日という事を理解しているようで、若干気が立っている様に思える。しかし、どの馬も少なからずレース前はこんな感じであり、それに比べればサクラヒヨリは落ち着いている方だった。


「さて、そろそろレース前の激励の嘶きだな。はぁ、俺は何をやってるんだ? 誰かに見られたら正気を疑われかねん」


 自分が鈴村騎手の正気を疑った時の気持ちを思い出して、思わずため息が出そうになる。ただ、馬は人の気持ちを察するのが上手い。その為、決してレース前の馬の前ではネガティブな様子を見せる事はしない。


「さて、そろそろレースだぞ」


 調教助手が此方へと向かって来るのを認め、レースへと向かう準備に入る。


 もちろん、武藤調教師はミナミベレディーの嘶きを、激励の嘶きに変えたのだった。


◆◆◆


 香織がレース前の検量を終えパドックへと向かうと、サクラヒヨリが手綱を引かれパドックを周回しているのが見える。その様子からも調子のよさが窺え、思わず笑みを浮かべる。


 停止の号令が掛かり、騎手達が一斉に各馬の所へと向かう。それぞれ厩務員の補助を受けて馬へと騎乗するが、香織は騎乗前にサクラヒヨリの鼻を優しく撫でる。


「今日は頑張ろうね」


「キュヒン」


 サクラヒヨリの返事を聞いて、もう一撫でしてから香織は騎乗した。


 今までのミナミベレディーと一緒のGⅠとは違い、サクラヒヨリとのレースでは何となくではあるが心配な妹とのレースという気持ちが湧いて来る。この為、不思議と緊張で体が動かないなどが無い。


 まあ、ベレディーの影響なんだろうな。


 普段でも、香織はサクラヒヨリの調教をミナミベレディーと一緒に行っていた。その為に何となく調教というより育成といった意識が出来ていたのだ。


 そして、サクラヒヨリにとっても香織はミナミベレディーと一緒という意識があるのか、不思議と香織に甘える事はあっても困らせる事はなかった。恐らくだが群れの上位者という意識があるのだろう。


 騎乗し手綱を引かれながら本場場へと向かう傍ら、香織は今日のレースに意識を向ける。


 昨年の桜花賞、ベレディーと一緒に勝ち取った勝利のレースを頭に思い浮かべる。ただ、今日のレースは昨年のような展開は厳しいだろう。何と言っても今年は2番人気、否が応でもマークされる。


「出来れば中団からの差しで行きたいんだけど、厳しいかな」


 先行するであろう馬はいる。芝の1600mという事で、前走ほどにスローペースになるとは思えない。今日の芝は良、出走馬で先行するであろう馬はきっちりとチェックしていた。


 枠順で4番のサクラヒヨリは、スタートをミスしない限り先行しやすい位置取りだった。スタミナは同世代で言えばある。そして末脚も坂路でのトレーニングを積み重ねて来て昨年との差は大きい。


「もっとも、共同通信杯でそこら辺はバレちゃってるけどね」


「キュフン」


 香織の声に、サクラヒヨリがどうしたの? といった感じで返事をしてきたので、香織は首をトントンと叩いて何でもない事を伝える。


 本場場へと入場し、返し馬でゲート前へと向かう。


 ゲート前の馬溜まりで輪になって回っていく中、香織は問題となりそうな馬と騎手を再度確認していった。


 12番のスプリングヒナノ。阪神ジュベナイルフィリーズを勝ち、この桜花賞でも堂々の1番人気。更に騎手はロンメル騎手だ。タンポポチャとは違い中団からの差しを得意としている。


 3番のカリスマルビー。チューリップ賞をスプリングヒナノを抑え勝利し、桜花賞では3番人気。騎手は河田騎手、累計勝利数1500勝以上、GⅠ勝利数も20勝に届こうかというトップジョッキーの一人だ。


 この他にも一流騎手ばかりである。また、何と言っても8番人気の14番サイキハツラツ。クイーンCで4着ではあったのだが、問題は騎乗する騎手が鷹騎手という事もあり香織は警戒を強めていた。


 サクラヒヨリの乗り替わりもあったから、やっぱり意識するわね。


 場合によってはサクラヒヨリに鷹騎手が騎乗していた可能性もあった。しかも、見方を変えれば鷹騎手が見放したと取れなくもないその馬が、今や2番人気なのだ。面白くは無いだろう。


「まあ、頑張るしかないんだけどね」


 GⅠのプレッシャーを気にする所ではないのは良い事なのか悪い事なのか、ただ今はサクラヒヨリを落ち着かせる事に注力する。


「ヒヨリ、大丈夫だよ。ちょっと吃驚したかな? 怖くないよ」


 ファンファーレと共に手拍子が打ち鳴らされ、その音にまだ若い馬達は少なからず動揺するのが判った。


 香織もサクラヒヨリを安心させるように、首をトントンと叩いて落ち着かせる。そして、そんな中でゲート入りが始まった。


 偶数番号と言う事で、奇数番号の馬に続いてゲートへと誘導される。


 やはり狭いゲートの中は圧迫感があるのか、サクラヒヨリは落ち着きのない様子を見せる。香織は、共同通信杯の時と同じ様に声を掛け続ける。


「大丈夫だよ、心配ないからね。ヒヨリは良い子だね」


 首をトントンとリズムを付けて叩きながら、他の馬の様子を確認する。


 やはりまだ若い馬が多い為か、ゲート入りを嫌っている馬がいるようで若干ゲート内での時間が掛かっている。ただ、幸いにしてサクラヒヨリは落ち着いた様子を見せ始めていた。


「ヒヨリ、もうじきスタートだよ」


 最後の馬がゲートに入るのを見て、声色を変えてサクラヒヨリにスタートを意識させる。


ガシャン!


 大きな音を立ててゲートが開いた。


 それとほぼ同時に、サクラヒヨリがゲートを飛び出して行く。そして、香織の指示を受け、そのままの勢いを維持してスッと先頭に立つ。


「ヒヨリ、良いスタートだよ!」


 首を撫でてスタートが良かった事を教えてあげる。これをする様になってから、サクラヒヨリのスタートは格段に良くなっていた。


「褒めて伸ばせってこの事よね」


 前走よりも良いスタートを切る事が出来たサクラヒヨリが、先頭のまま内へと寄っていく。そこへ外枠から脚を使って勢いをつけた12番スプリングヒナノが、サクラヒヨリの外側半馬身後ろへと位置取りを決めた。


「うそ! 先頭に立つ馬がいないの?!」


 好スタートを切ったとは言え、当初予定していた逃げ馬が未だに前に来ない。


 後方をチラリと伺うと、カリスマルビーなどの馬達はサクラヒヨリの後方に位置取り、横から、後ろからとプレッシャーを掛けて来る。


 向こう正面の平坦な直線でサクラヒヨリを先頭に、各馬が並んで3コーナーへと入っていく。


 コーナーは緩やかな下り坂で、比較的スピードが乗りやすい。しかし、サクラヒヨリの後方に控える馬達は最後の直線勝負に掛けるようにサクラヒヨリの後方でジッとして動くことが無い。


「拙い、このまま直線勝負だと厳しい」


 最後の直線にある坂、ここを抜けると残りは80mしかない。その為に最後は瞬発力勝負になりやすいが、そうなるとサクラヒヨリでは分が悪いように思う。


「最後の直線、4コーナー出口手前から一気にスパートをかけるよ」


 近年の桜花賞においては、圧倒的に差し馬が有利と言われている。


 実際に4コーナーを回った際に1番手、2番手にいた馬が勝った事はなかった。しかし、今それを言っても仕方が無い。であれば4コーナーからスパートを掛け、後続との差を開き、ミナミベレディー譲りのピッチ走法っぽい走りで坂を駆け上がりゴールするしかない。


 3コーナーを過ぎ、4コーナー半ばへと入った所で香織はサクラヒヨリへと手鞭で指示を出した。


 そして、坂を下る勢いを利用し外へと若干膨らみながらも芝の荒れていない場所へとサクラヒヨリを導いた。


「まだだよ、坂に入るまでピッチ走法は使わないからね」


 自分に言い聞かせるように口に出し、サクラヒヨリ本来のストライド走法で直線に入る。


 後続の各馬が直線へと入り、次々と鞭が入ると、僅かに開いたサクラヒヨリとの差はあっという間に縮まっていく。




 そして、サクラヒヨリが200mある坂へと差し掛かった所で、香織はサクラヒヨリへと更に手鞭で指示を出す。


「ヒヨリ、ベレディーが来るよ! ベレディーが来たよ!」


 ミナミベレディーの名前を聞くと同時にサクラヒヨリの馬体がぐっと下がり、明らかに走り方が変わった。


「ヒヨリ、頑張って!」


 サクラヒヨリのリズムに合わせ、必死に頭の上げ下げを補助する。


「ベレディーに続くよ! お姉ちゃんに続くからね!」


 サクラヒヨリへ、ミナミベレディーの名前を連呼しながら、香織は必死に右腕に力を入れる。


 そんなサクラヒヨリに並ぶようにして内側から1頭の馬が伸びて来た。


「ベレディー!」


 その瞬間、香織は自分が騎乗している馬がミナミベレディーと錯覚を起こし、ミナミベレディーへと警告を発する。そして、この時サクラヒヨリは後ろから一気に迫ってくる馬がミナミベレディーだと錯覚し、香織の言葉に反応してもう1段伸びた。


 そして、その伸びた先が桜花賞のゴールラインだった。


「え? あ、抜けた?」


 ゴールを越えた事を知った香織が手綱を引き、サクラヒヨリが漸く足を止める。


「勝った? 勝ったよね?」


 最後のゴール前、サクラヒヨリがもう一伸びしてくれた為に、ゴールまでに差し切られなかったと思う。その為、勝ったと思いながらも、香織は、最後に内から迫ってきた馬が何だったのかと視線を向ける。


 その視線の先には、14番のゼッケンを付けたサイキハツラツに騎乗した鷹騎手が居た。


「鈴村騎手、おめでとう。しかし、悔しいなぁ、差し切れると思ったんだけどね」


 香織としては、てっきりスプリングヒナノが追い込んで来たと思っていた。しかし、実際は8番人気のサイキハツラツだった。


 その事に香織は唖然とするが、鷹騎手はさっさと馬首を返し検量室へと向かって行ってしまった。


「あ、何も返事をしてない」


「キュヒヒーン」


 香織の言葉に反応した訳では無いのだろうが、サクラヒヨリが大きく嘶いたのだった。

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