第59話 桜花賞前日

 桜花賞を明日に控え、武藤厩舎の面々は明日のレースへ向けての調整に躍起になっていた。


 武藤厩舎も馬見厩舎と比較してそれ程大きな差がある訳では無い。しかし、馬見厩舎と違い武藤が厩舎を引き継いでからの重賞勝利数は43、その内GⅠ勝利数は6、GⅡ勝利数も9と預託馬は個人馬主が多い厩舎としては悪くない成績を残している。


 そんな武藤厩舎においてもGⅠ、それも桜花賞となると出走した事が無かった。そんな桜花賞で場合によっては勝利も夢ではない馬とあって、誰もが気合の入り方が違った。


「人気も2番人気、全姉ミナミベレディーが昨年勝ってますし、更には共同通信杯で牡馬を抑えて勝利しているだけに人気が出ていますね」


 騎手が鈴村騎手という点で、今まではどちらかと言えば人気が下がる傾向にあった。しかし、今年の桜花賞では昨年の阪神ジュベナイルフィリーズを勝っているスプリングヒナノが1番人気、2番人気にはサクラヒヨリが入っていた。


「鈴村騎手が緊張しそうだが、大丈夫だろうか」


「僅か2年でGⅠ出走数が4回、1着2回、2着1回、6着1回、実績だけ見れば凄いんですがね」


 鈴村騎手は昨年末からのメディアへの出演、競馬雑誌以外でのインタビュー、タンポポチャとミナミベレディーのドキュメンタリー番組などで一気に名前が売れ始めている。それ故に本人の実力以上に評価が上がってしまっていた。


「実際、一昨年の頃から比べると騎乗技術は格段に上がってきているがな。何と言っても鞍数が増えて実戦経験が増えた。ただオープン以上の経験が乏しい為に想定していない展開への対応はまだまだだが」


 先日の金鯱賞などはその典型だろう。想定内の展開、更に型に嵌まれば力を発揮するが、想定外の展開になった途端一気に弱みが出る。


 もっとも、失敗も経験の内であり、次へと繋がるのが騎手という職業だ。その経験の積み重ねがより高い実績に繋がっていく。


「まだ経験不足は否めませんが、サクラヒヨリの騎乗においては鈴村騎手しかいませんからね」


 調教助手の言葉に頷く武藤調教師だったが、その視線は栗東トレーニングセンターのウッドチップコースを廻るサクラヒヨリへと向けられている。


「悪くはないな、気分よく走っている」


 流石に明日のレースの為、無理な調教は行わずに馬なりでの調教となっている。


 武藤調教師が見ている中、コースを回ったサクラヒヨリは並足で武藤調教師達の方へと戻ってきた。


「お疲れさん、調子は良さそうだな」


「そうですね、最近は私が騎乗しても嫌がらなくなってくれました」


 新馬戦、未勝利戦と計3回サクラヒヨリに騎乗している長内騎手は、今日の乗鞍が無い為にサクラヒヨリの調教の手伝いをしていた。


「ちょっと悔しいですけどね。もし自分が乗りこなしていればって」


 サクラヒヨリから下馬した長内騎手は、そう言ってサクラヒヨリの首をトントンと叩く。


 鷹騎手に乗り替わりとなり、その時は鷹騎手であれば仕方が無いかと諦めた。そして、その後に鷹騎手から鈴村騎手へと再度の乗り替わりと聞いた時、長内騎手は表には出さないまでも内心は悔しさでいっぱいになる。


 なぜ自分に騎乗依頼が来ないんだ。そんな思いの中、共同通信杯でサクラヒヨリがまさかの勝利を収めた。


 驚きと共に、長内騎手は幾度もそのレースを見直した。その後、武藤調教師に頼み込んで、鈴村騎手が乗れない時には率先して調教時の騎乗を買って出てる。


 ミナミベレディーとレース日程が重なったり、ましてや同じレースに出走となれば・・・・・・。


 長内騎手は諦める事無く、サクラヒヨリの騎乗復帰を虎視眈々と狙い始めたのだった。


◆◆◆


 美浦トレーニングセンターで日々調教を受けている私は、そろそろヒヨリが桜花賞へと出走するんじゃないかな? とヒヨリへと思いを馳せていました。


「ブルルルン」(大丈夫ですかねぇ)


 昨年に出走した桜花賞、どんなレースだったのか覚えていないのが難点ですね。タンポポチャさんと最後に争った記憶はあるんですが、覚えていませんね。


 タンポポチャさんとご一緒する時は、何時もすっごく疲れるのです。お馬さんになって、昔の事をあんまり記憶しておけなくなっちゃったのかな?


 お馬さんになったせいか記憶が結構曖昧になっちゃうんです。決して前世はこんな事は無かったはず?


 併せて曜日の感覚も曖昧なので、誰か私の馬房に日捲りカレンダーを掛けてくれないでしょうか? 一日一枚づつ食べて行けばいい様な気がするのですが。


「ブフフフフフン」(ヒヨリも良いお友達が出来るといいですね)


 何と言っても、お馬さん同士の交流が少なすぎます。普段でも遊べるお友達とかいませんから。タンポポチャさんは関西で、そもそも会えませんけどね。


 でも、キャッキャウフフじゃないのですが、お馬さん同士でも交流があっても良い気がしますよね。


「ブルルン」(タンポポチャさん元気かなぁ)


 そんな風に黄昏ていたら、厩務員さんがやって来ました。


「ベレディー、明日はサクラヒヨリの出走だぞ。全妹だから頑張って欲しいな」


「ブヒヒーン」(あ、明日なんだ、頑張って欲しいよね)


 今日の夜には、しっかりお祈りをしておきましょう。


 先日、鈴村さんがせっせと私の嘶きを録音していきましたけど、あれは効果あるのかな?


 ヒヨリの為に、レース前の寂しい時バージョンと、レース前の頑張れバージョン、レース後のお疲れ様バージョンと3種類作ったんですが、普通のお馬さんだと何を言われているか判らなくて困ったと思います。


 最近の鈴村さんは何か危ない人になってきていないでしょうか? 普通お馬さんは人の言葉を此処まで理解できないと思いますよね?


 「激励の嘶きをお願い!」、「次は落ち着かせる為の嘶きね!」などと言われて対応できる馬は異常ですよね?


 もちろん、ヒヨリの為ですから、ちゃんと対応しましたけどね!


◆◆◆


 明日のサクラヒヨリのレースに備え、今、桜花は母親と一緒に大阪にあるホテルで思いっきり寛いでいた。


「ビジネスホテルじゃないホテルに泊まるなんて、滅多にないからすっごい嬉しい!」


 桜花達は、ホテルも桜川が手配してくれている為、普段宿泊するホテルに比べ数段お高いホテルに宿泊していた。


 流石に牧場の出産時期もあって土曜日の夕方着の飛行機でやって来た為、時間的な余裕はなく大阪観光に充てる時間などはない。


 それでも、桜花にとって明日は昨年に続いての憧れの桜花賞だ。数年前には自家牧場の産駒が走るなど想像だにしていなかった。


 昨年に続いてサクラヒヨリが優勝したら、うちの牧場の未来も明るい・・・・・・といいなぁ。


 そんな事を思う桜花である。


「12時まで大浴場は開いているから、ご飯を食べたら行きましょうか」


 本来なら入浴を終えてから食事と行きたい所ではあるが、ホテル内のレストランの閉店時間は早い。


 当初、このままホテルを出てファミリーレストランへでも行こうかと思っていた恵美子であるが、いざホテルへと到着すると一気に面倒になってしまったのだった。


 明日も移動があるし、ゆっくり休まないとよね。


 実際の所、牧場が心配な恵美子としては桜花賞には夫に行ってもらいたかった。ただ、これまで2度のGⅠ勝利において夫が胃痛にて表彰式の時には救護室にお世話になり、牧場の代表としては娘が出ていた。


「あれは情けないわよね」


 2度の表彰式をテレビで見ていた恵美子は、どちらの表彰式にも夫の姿が見えない事に首を傾げていた。


 そして、エリザベス女王杯をトッコが勝ち、その日に帰宅した夫に尋ねても要領を得ない為、娘に尋ねる事にした。すると、娘は頬を膨らませて、夫が2回とも救護室で寝ていて表彰式に参加していない事を教えてくれたのだった。


「桜花、なんですぐに教えてくれないの!」


 桜花に問い詰めると、どうやら夫が桜花に口止めをしたらしい。もちろん桜花はちゃっかりと口止め料を貰っていたりするのだったが。


 そして今回の桜川からのご招待に、流石に夫を出すのは如何なものかと恵美子は思った。


 今回も、もしかすると1着になり表彰式となったら、わざわざご招待を頂いてその場に立てず救護室で夫が寝かされていたとしたら、そう思うと仕方なく自分が行くしかないと決断した。


 もっとも、エリザベス女王杯で懲りた桜花からの強烈な要望もあったのだが。


「ねぇねぇ、お母さん。凄いよ、サクラヒヨリが2番人気だよ!」


 桜花はベッドに座って駅で購入した競馬新聞の明日の桜花賞のレース出走馬を見ている。その中で、今回サクラヒヨリは思いっきり2番人気だった。


「勝てるかなぁ、勝てると良いなぁ」


「それは後で良いから、早く食事に行くわよ!」


 数日前から幾度も同じ事を言う娘が、段々と夫に見えて来る。それこそ娘と同様に、夫も数日前から同じことを繰り返し言っているのだ。


 やっぱりあの人の娘よねぇ。もう少し私の血が強ければ良かったのに。娘は父親に似るって言うから仕方が無いのかしら?


 のんびり出走馬を眺める娘に、溜息を零しそうになる恵美子だったが、時間を気にして追い立てる様に娘を急かしレストランへと向かうのだった。

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