第58話 ヒヨリとトッコ

 金鯱賞が終わって、私はまた馬運車に乗せられて美浦トレーニングセンターにある厩舎へと帰ってきました。


 今回はすっごく不本意な気分が強いので、次回は絶対に頑張る!


 そんな思いが無いではないのですが、今までのようにレースが終わって筋肉痛で身動きが取れないという程の痛みが無いのです。多少動きがぎこちなくなるかな? くらいの痛みはあるのですが、今までを考えれば天と地ほど違います。


「ブフフフン」(それだけ今回は楽だったのかな?)


 ただ、それはそれで何か悪いことをしているみたいな気持ちになるので、次はやっぱり頑張って勝てるようにしないとですね。


 レース後の休養と移動後すぐという事で、翌日は引き綱でのお散歩程度の運動で終わるみたいです。


 ただ、美浦へ帰ってきた日に鈴村さんがヒヨリを見に行ったのですが、それはもうご機嫌斜めというか、乳離れしたばかりの仔馬のように嘶いて私を探したそうです。


「見ていると可哀想になってくるわね。1日や2日ならそこまでなんだけど、今回はちょっと長かったからね」


 そう教えてくれた鈴村さんですが、そもそもその報告を私にする必要はあったのでしょうか? 最近は鈴村さんの愚痴と悩み相談係りになっていますよね。


 う~ん、それはそれで問題なような気がします?


 ただ、とにかく帰ってきたよとご挨拶を兼ねて、ヒヨリの調教終わりを見計らって会いに行きます。


「ブフフン」(うんうん、いい感じですね)


 コース沿いを歩いていると、坂路をせっせと走っているヒヨリの姿が見えます。


 初めの頃とは違って、それこそスイスイと駆け上がっていく様に見えますね。最初は本当に嫌々走っていましたから。私に置いて行かれないように必死に追いかけて来て、すぐに息が上がってました。


「ほう、中々ですね。さすがは共同通信杯を勝っただけあります」


 私の引き綱を持った厩務員さんが、思わずそんな事を言うくらいです。


「ブヒヒーン」(ヒヨリ強くなったよね!)


 ヒヨリが褒められて思わず嬉しくなって嘶いたら、坂路を終えたヒヨリに気が付かれちゃいました。


「キュヒヒーン」


 ヒヨリが大きく嘶いて、それこそ訓練そっちのけで私に向かって走ってきちゃいます。騎乗しているのは鈴村さんではない男の人なのですが、ヒヨリがいる厩舎の人かな? 必死に手綱を引いてますけど言うことを聞きませんね。


「あちゃあ、こっちへまっしぐらだな」


 まあ調教でのコースと私のいる散歩道? の間には柵があるので衝突したりはないのですが、勢いでヒヨリが柵を跳び越そうとしないとは限らないのです。それはヒヨリにも危険があるので柵のところまで近寄ってコースへと頭を出すことにしました。


「キュヒヒン!」


 私の前にやって来たヒヨリは、私の頭に自分の頭をスリスリして甘えてきます。実質5日間の不在でこの感じでは困ったものですね。ただ、寂しくてもちゃんと練習をしていたみたいですので、そこは褒めてあげましょう。


「ブヒヒヒン」(頑張ってますね。偉いですよ)


 首から背中にかけてハムハムとしてあげます。ただ、間にある柵のせいでちょっと遠いです。


 それでも、ヒヨリはブフフン、ブフフン、と嬉しそうに私にスリスリしてきました。


「ミナミベレディーを見つけたら、そりゃあ止まりませんよね。一瞬何が起きたのかと焦りました」


「昨日帰ってきたんですがね、数日休養させるので一緒に訓練はまだ難しいですが。サクラヒヨリは桜花賞への追い込みで大変でしょう。うちのテキからも来週以降でべレディーの回復を見て併せ馬などをと言われてます」


 横でヒヨリに乗った人と、私の手綱を持った厩務員さんが何か会話をしています。


 今年はヒヨリが鈴村さんと桜花賞に出走するのです。桜花ちゃんの名前のレースなので、出来ればヒヨリにも勝ってもらいたいですね。今年ヒヨリが勝てないと、来年もヒヨリが再挑戦するとかになって、私がもう一度走りたくても走れなくなりますよね?


「ブルルフン」(桜花ちゃんの賞頑張ってね)


 ヒヨリを激励します。うん、私だって勝てたんだし、ヒヨリなら頑張ってくれると思います。でも、タンポポチャさんみたいなお馬さんがいたら厳しいのかな? どうなんでしょう?


「ブヒヒヒン」(強そうなお馬さんはいるの?)


「キュフン」


 はい、お返事はしてくれたのですが、やっぱり意味が判りませんね。


 でも、私はもう馬になってすでに4年目です。そろそろ馬語を覚えても良いと思うのですが、どうなのでしょうか? ほら、外国に4年も住めば外国語を話せるようになりますよね? それとも、日本語が周りに溢れていて、真剣に学ぼうとしていないから駄目なのでしょうか?


「べレディーは次走までまだ1ヶ月強ありますから」


「桜花賞は3週間後ですから、ここが頑張りどころです」


 おや? そうなんですね。それならヒヨリが勝てるように私も頑張らないとですね。


◆◆◆


 香織は、サクラヒヨリで桜花賞に出走するため、そして何としても勝ちを拾うために大手家電屋さんに来ていた。そして、先ほどからウロウロと一部の機器が並ぶコーナーでうろついていた。


「どれが良いのか全然判らない」


 サクラヒヨリが初の遠征となる。ましてや、数日前より栗東トレーニングセンターへと入り、そこで最終調整を行った後に阪神競馬場へ向かう事になった。


 これには、武藤調教師、桜川さん含め、ギリギリまで美浦にいての長距離移送で行くか、それとも余裕を見て早めに栗東へ移送するか悩みに悩んだ結果である。


「さすがにべレディーを一緒に連れて行けないからね」


 当日、北川牧場の桜花と母親の恵美子が桜川に招待され、二人で応援に来てくれる事になった。もっとも、桜川がゲンを担いで、出産時期の牧場を空ける事に躊躇する恵美子を何とか説得して漸く応援に来てくれる事となった。


「まあ、北川さんは牧場に残るそうだが」


 時期的に親子総出で来ることは難しく、初めは峰尾と桜花が来る予定だった。ただ、この時に桜花の猛プッシュと峰尾が自分は牧場に残る旨の申告があり応援に来るメンバーは恵美子と桜花に決まったのだった。


 その桜花曰く、おそらくサクラヒヨリはミナミべレディーと違って桜花にそこまで懐いていないとの事だった。そもそも、あそこまで桜花に会える事を喜んでくれた馬はミナミべレディーしかいないという。


「幼駒の小さい時には母馬がピリピリしているし、乳離れしてからはどの馬も同じように可愛がってるけど、トッコほど懐いてくれた馬はいないよ? 牧場にいる頃は懐いてくれていても、牧場を出てから久しぶりに会うと忘れられてはいないけど、なんっていうか、あら? お久しぶりね? 見たいな感じなの」


 もっとも、それ故に桜花はミナミべレディーが可愛くて仕方が無いらしい。


「GⅠに勝ってくれた事も嬉しいけど、それ以上にこれでトッコが処分されずに済むのが一番嬉しいの」


 北川牧場の産駒でも、北川牧場が知らない間に処分された馬は多い。成績が残せていない牡馬は特にそうで、最近レースで見ないなと思っていたら登録が消えていたなどがある。地方競馬に転籍してまだ頑張って走っている馬もいるが、それは極少数だ。


「ヒヨリもGⅢ、それも共同通信杯を勝ってくれたから繁殖へ回れる。キレイが引退して、ヒカリもあと2年か3年くらいで引退だから、一応ヒダマリとミユキがいるけど産駒でまだ実績が出せてないからきついよね」


 北川牧場ではキレイの系統ではない繁殖牝馬もいるが、その他の産駒も良くてオープン馬、重賞勝ちは遠い夢のような状況だった。


 香織は、そんな桜花との会話を思い出しながら、せっせと商品に貼られている説明を読んでいる。ただ、貼られている仕様を見ても、それでどう性能が違うのかがまったく判らない。


「欲しいのは馬の声が綺麗に再現できるのなんだけど、あと出来るだけ持ち運びがしやすいのが・・・・・・」


 そう、香織が先程からせっせと探しているのは、録音と再生が出来るスピーカーがついた持ち運び可能な物。何のことは無いミナミべレディーに出来るだけサクラヒヨリを応援したり、激励したり、そして褒めてあげる時などの声を録音し、栗東での調教後などに聞かせようと思いついたのだった。


「こっちにいる間にテストもしないと、逆にご機嫌を損ねちゃう可能性もあるから」


 前走の共同通信杯後にミナミべレディーを探すサクラヒヨリの姿で、何とかしてあげられないかなと思いついたのだが、相変わらず馬に対して予想外の発想をする香織だった。

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