第54話 共同通信杯 レース後
サクラヒヨリを連れて検量室へと向かい検量を終えた香織は、騎手控え室でタオルを手に顔を洗う。
そして、設置されているウォーターサーバーから一杯の水を手にしてゆっくりと飲み干していく。
何となくこれが一日の騎乗終了の儀式のようになっているなぁ。
そんな事を思っていると、立川騎手が香織の下へとやって来た。
「よお、GⅢ勝利おめでとさん。今日は上手く乗られちまったなあ。いやあ、まさか3勝すらしていない牝馬に負けるとは思っていなかったわ」
「あ、立川騎手、ありがとうございます。今日は皆さんが牝馬と見て手を抜いてくれた結果だと思います」
香織の言葉に、騎手控え室にいた立川騎手のみならず他の騎手達も苦笑を浮かべる。
実際のところ、最後の直線で必ずサクラヒヨリは止まると全員が思っていたのだ。そして、その思惑をまんまと利用したのが香織だった。前走までのVTRを見ていれば自分を含め誰もがそういう判断をしただろう。
「ああ、そういう点では鈴村騎手に思いっきり騙されたな。あそこまで粘られるというか、最後の坂、あれ伸びてたよな?」
「え? そうですか?」
立川騎手の質問に惚ける香織、その姿に苦笑する立川騎手。今日2着に入ったコールスローに騎乗していた立川騎手だからこそ、最後のサクラヒヨリが伸びていた事を体感していた。
香織が言わないことを理解した立川騎手は、ニヤリという擬音が似合うような人の悪い笑みを浮かべる。
香織が思わず身を引きそうに成ると、小声で、それでいて周りにもしっかりと聞こえる声でありながら、如何にもコッソリと言った雰囲気で囁いた。
「鷹のやつが見放した馬でGⅢを勝っちまうとはなぁ。今頃あいつは自分の判断を後悔しているんじゃねぇか? 牡馬に混じってここを勝ったんだ、上手くやればもっとでかい所も勝てるだろうよ」
言いたい事だけを言った立川騎手は、香織にプラプラと手を振ってそのまま騎手更衣室へと向かっていってしまった。
「・・・・・・え?」
香織は、唖然として立ち去っていく立川騎手の後姿をみつめるのだった。
言われて初めて気が付いたが、確かに前2走は鷹騎手が騎乗して1勝1敗、しかも1敗は大負けしている。ただ、その大負けの要因は雨だと言うことを香織はしっていた。
そして、恐らくその不安要因を見抜いた鷹騎手は、それ故にサクラヒヨリを選ばなかったのだろうと思っている。そもそもサクラヒヨリがGⅠを勝てる馬かと言われると、誰もが厳しいと評価するだろう。
そこはべレディーと同じだものね。そもそも、ベレディーが走り方を教えてなければ今日も勝ててないわよね。
牧場で、そして美浦トレーニングセンターで、特に放牧されていた牧場では後ろから追い立てるようにしてサクラヒヨリを追い込んでいた。とても放牧に来ているとは思えないトレーニング量だったと思う。
なにせ、騎手の自分達がいない時こそ自主練のごとく走っていたのだから。
「あれでヒヨリにあそこまで慕われているんだから、訳がわからないわよね」
その自主練のお陰で、今日のようにミナミベレディーが来たよと言うとサクラヒヨリはペースを変えてスパートするようになったのは皮肉のような気がする。
「さて、だんだんご機嫌斜めになっていくお姫様をなだめに行きましょうか」
香織は周囲の他の騎手からも祝福されながら、照れくさくて足早に表彰場へと向かう。
早くサクラヒヨリをベレディーに会わせてあげないと、あの子拗ねるよね。
などと変なことに意識がいっていたのだった。
そして表彰場へと向かうと、満面の笑みを浮かべた桜川とその妻、そして武藤調教師達が香織を出迎えてくれた。
「鈴村騎手、流石ですね。今日は200点満点の出来ですよ! いやぁ、まさか本当に勝つとは」
そう言って握手を求めてくる桜川と握手を交わし、今度は同様に武藤調教師とも握手を交わす。
「まさにベレディーの騎乗そのものだったな。参ったね、今後のレースをどうするか再考しないといかんな。次も期待しているぞ!」
武藤調教師の言葉に、香織も思わず笑顔が零れる。結果を出した以上は乗り替わりは無いとは思ってはいたが、今後もサクラヒヨリに騎乗できる事がこれで確定したのだ。
「ありがとうございます。今後もヒヨリを勝たせられるように頑張ります」
その後、香織はすぐにインタビュー台に立たされ、苦手なインタビューを受ける。
「3歳牝馬サクラヒヨリに騎乗し、見事に牡馬を抑えて共同通信杯を勝ちました鈴村騎手です! 昨年に引き続いての見事な重賞勝利おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「レースでは見事に逃げ切り勝ちを収められました。今日は初めから逃げるおつもりだったのですか?」
「はい。スタートが課題でしたが、上手くスタートが出来たら先行するつもりでした。サクラヒヨリは末脚がそれ程には鋭くないので、上手く逃げ切れてホッとしています」
その後も、インタビューが続きながら、最後に予想はしていたがやはりこの質問が飛んできた。
「次走はやはり桜花賞でしょうか? 鈴村騎手は昨年に全姉のミナミベレディーで見事勝利を収められています。そして、今年はその全妹のサクラヒヨリで皐月賞へのステップアップレースである共同通信杯を勝利されました。まさに次へのステップアップへの第一歩と思えますが」
「いえ、そこはサクラヒヨリのオーナーと武藤調教師が判断されることですので。私は次のレースでも勝てるように最善を尽くさせていただくだけです」
「それでも、鈴村騎手、そして姉妹での桜花賞勝利、夢がありませんか?」
「そうですね。どのレースになるか判りませんが次走もぜひサクラヒヨリの応援をよろしくお願いします」
しつこく言質をとろうとして来るインタビュアーを強引に切り、香織はぺこりと頭を下げて表彰式の場所へと足早に向かって歩き出した。
「お疲れ様、でも、あの対応はあんまり良くないですよ~、もっと上手くかわさないとです」
「え? 美佳さん、なんで此処にいるの?」
表彰式の場に、なぜか細川美佳が関係者よろしく立っているのに香織は驚きの声を上げる。
「ん~~~、だから、香織さん、私のことは美佳って呼び捨てでいいですよ! 今日は北川牧場の人達が来れないので、なんと私が代理なんです! まさか表彰式に出れるなんて、すっごく嬉しいです!」
細川の発言に、思いっきり驚きの表情を浮かべた香織だが、いつの間にか細川が北川牧場の恵美子さんや桜花ちゃんと其処迄親しくなっていたかと驚きを強くする。
「えへへ、エリザベス女王杯のときにちょっとお話をして、その時に良ければ今度遊びに来てねって言われたの。それで、年明けのオフの時に遊びに行っちゃった」
とてもこれで20代後半に入ろうかという年齢とは思えない。まさにアイドルそのまんまな挙動と発言、そしてその内容に思わず眩暈がしそうな香織であった。
更には今日、北川牧場の人が誰も来ていない事を知った細川が、レース前にちゃっかりと北川牧場へと連絡をしていて、共同通信杯に勝ったら代理で表彰式に出る許可を貰っていたと言うから驚きが倍増した。
「え? 勝てるって思ってたの?」
「勿論です! だって鈴村さん自信有り気な雰囲気でしたもん!」
思わず脱力しそうになる香織だったが、それでも自分を信じて貰えて嬉しく思う。そして、ちょっと照れ臭くなってくる。
そこへ綺麗に洗ってもらったサクラヒヨリが、ちょっとご機嫌斜めな様子で此方へと連れられてきた。
「キュヒーーン!」
「あちゃ、お姫様のご機嫌が斜めだわ。美佳さんちょっと行ってくる」
周りに多くの人がいることに思いっきり警戒するサクラヒヨリに、香織は急いで近づいていく。
「ヒヨリ、怖いねぇ、でも大丈夫だからね」
サクラヒヨリを宥めながら、香織は恙なく表彰式を熟したのだった。
◆◆◆
桜川重吉は、妻の幸恵と共に東京の自宅へと帰ってきた。
先々代からの競馬好きの家系で、桜川自身も幼少から週末は家族揃って競馬場へと出かけるのが普通だった。そんな桜川であるが、子供がまだ4歳と2歳とあって、ここ数年は妻を置いて一人で競馬場へ行く日々であった。
それでも、今日は何と言っても重賞出走と言う事も有り久しぶりに妻と二人で出かけて来たのだった。
「まさか勝てるとは思っていなかったが、嬉しい誤算だった。掲示板に載ればと思ってたんだよ」
それこそ帰って来る道中においても、ずっとサクラハキレイの話やら、サクラハヒカリの昔の話やらと、桜川は嬉しそうに話し続けていた。その合間にも、サクラヒヨリの次走をどうしようかなど、ここ最近にない喜びようで妻の幸恵も漸くホッとした所だった。
「ほんとに良かったですね。ミナミベレディーを買い損ねたと酷く後悔されていた物ですから、北川牧場の牝馬を何で買わなかったのかとか昨年は本当に大変でした」
「それを言わないでくれ、実際に最初に見た時にはとても走る馬とは思えなかったんだよ」
妻の言葉に照れ臭そうに頬を掻く桜川であったが、ミナミベレディーが桜花賞を獲った時の落ち込み具合は凄かったのだ。
桜花賞当日、偶々北海道に出張していた桜川であったが、出張先のテレビでミナミベレディーの勝利を見て、思わず自分の事の様に喜び北川牧場へとお祝いを手に訪問していた。
その訪問では、自分が購入していたサクラヒヨリとその妹へと思いを馳せ、北川牧場の面々と大いに盛り上がったのだった。
そして東京へと帰宅した際、妻にその様子を話しながら、どうしてもミナミベレディーとの出会いの話へとなる。
「なんであの時に購入を見送っちゃったんだろうなぁ」
北川牧場で初めてミナミベレディーを見た時、そのチグハグした馬らしからぬ走りで、重賞どころか未勝利すら勝てないのではと思ったのを今でも覚えている。
北川牧場とは先々代からの付き合いで、あそこの産駒で桜川自身初めての重賞も勝たせて貰っている。それでも、勝てると思えない馬を買えるほどに桜川とてお人好しではない。
実際、翌年の産駒であったサクラヒヨリは、母馬であるサクラハキレイに良く似ていた為、迷わず購入を決めたのだが。
それでも実際に自分が購入を見送った馬がGⅠを勝つと、あの時買っておけばという思いがどうしてもぶり返すのだった。
それは今も変わらないが、今日サクラヒヨリが無事に重賞馬になった。
それも混合戦の共同通信杯だ。ミナミベレディーによって魅せられていたGⅠへの夢が、桜川の中にもフツフツと沸き上がって来る。
「桜花賞か・・・・・・」
ミナミベレディーによって成し遂げられた夢が、若しかすると自分にも・・・・・・。
そんな思いに囚われる桜川だった。
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