第53話 共同通信杯とサクラヒヨリ 後編

 サクラヒヨリに騎乗した香織はパドックから本場馬へと入場し、馬溜まりで廻りながらゲート入りを待っていた。


 サクラヒヨリの枠順は4番と先行馬としてはまずまずの位置を引き当て、このレースではスタートさえ上手く出来れば問題無く先行出来る予定でいる。


「ヒヨリはベレディーと違ってそこまでゲートが得意じゃないから、スタートも注意しないとだよね」


 ヒヨリを落ち着かせる為にトントンとリズムを刻みながら首のあたりを叩いてあげる。


 これも香織がサクラヒヨリに騎乗するようになってから意図して行っている行動だった。

 サクラヒヨリが興奮したときにミナミベレディーは一定のリズムであやす様に首をグルーミングする。この事にヒントを得て行い始めたのだった。


「ヒヒヒン」


 どうやら周りにいる馬達が気になるようで、先程からサクラヒヨリが少し神経質になっている。香織はゆっくりとしたリズムで宥めていると、少しして漸く落ち着いてきたようだった。


「大丈夫だよ、頑張ろうね」


 落ち着かないのかサクラヒヨリは顔を上げて香織を見ようとする。その為、香織は落ち着いた声色を意識して話しかけてあげる。


 しばらくそうしていると、サクラヒヨリもなんとか落ち着いて来た様子だった。


 ベレディーだと逆に私の様子を心配するんだけどね。


 普段のレースではいかに自分がミナミベレディーに心配を掛けているのかが判って、香織の顔に思わず微笑が浮かぶ。


「よし、ゲートに入るからね。狭いけど大丈夫だよ」


 ゲート前に移動して、奇数番号の馬からゲートへと入り始める。そして、サクラヒヨリの順番が来てゲートへと誘導された。


 ただ明らかにミナミベレディーとは違い、ゲートへと入ると途端に不安そうな仕草を見せ始める。この為、また首をトントンと叩きながら香織は残りの馬達のゲート入りを確認する。


「大丈夫、大丈夫、もう少しだからね。ヒヨリは良い子だね」


 サクラヒヨリがより安心できるように声をかけ続け、最後の1頭がゲートへと入るのが見えた。


「さあ、もうじきスタートだよ」


 今までとわざと声色を変えてスタートを意識させる。手綱を持つと、サクラヒヨリも香織ではなくゲートへと意識を向けたように感じた。


ガシャン!


 大きな音とともにゲートが開くと、サクラヒヨリは綺麗にスタートを切ってどんどん加速していく。


 香織は満面の笑みを浮かべてサクラヒヨリへと声を掛けた。


「ヒヨリ、いいスタートだったよ!」


 共同通信杯は左回りで、1コーナーから2コーナーにかけてのポケットがスタート位置だ。この為、少しスタートで出遅れると直線への入りが狭くなり不利となる。それ故にサクラヒヨリが好スタートを切った事は大きなアドバンテージと成る。


 サクラヒヨリはそのまま良い形で直線へと入る事が出来た。そんなサクラヒヨリの後ろから1頭の馬が更に加速して前へ進んでいくが、香織はその後ろへとヒヨリを入れる形で体勢を作った。


「うん、悪くないよ。ここから坂だからね」


 向こう正面の直線途中にある坂を抜けて、全体的に落ち着いたレース展開になる。


 その中で先頭を走る馬から2馬身後方に位置取ったサクラヒヨリ。後続はそこから更に4馬身差がつき逃げのような展開となる。


「追ってこないなあ、キタノフブキはいつも最後失速するし直線勝負するつもりなんだろうね」


 この為、香織は坂を上った所から3コーナーに入るまでの所でサクラヒヨリに息を入れさせる。その間に後続とサクラヒヨリとの差は2馬身程に縮まるが、3コーナーから4コーナーに入ったところから一気に先頭に追いつくように手綱を扱きペースを上げる。


「牝馬だからって舐めてかかると痛い目に遭うからね」


 小さくそう呟きながら、サクラヒヨリは先頭を走るキタノフブキに被せるような形で最後の直線へと入った。


「行くよ! ヒヨリ!」


 首の部分をポンポンと2回叩くと、サクラヒヨリは今までよりもう1段スピードを上げる。


 直線へと入ると先頭を走るキタノフブキを早々にかわし、サクラヒヨリが先頭に立った。ただ、この直線は途中に高低差2.1mの坂が立ちふさがっている。そして、後方からは一気に差し馬、追い込み馬達の蹄の音が聞こえてきた。


「ベレディーだよ! ベレディーが来たよ! 追い付かれるよ!」


 香織は必死にサクラヒヨリの頭の動きを補助しながら、直線の坂へと差しかかる。そこで、サクラヒヨリに対し大きな声でミナミベレディーの名前を連呼する。


 すると、今までと明らかに違うテンポでサクラヒヨリがリズムを取るのが判った。


「よし! ヒヨリ、あと少し! 頑張って!」


 必死に小刻みに後ろ脚を引きつけ前へと走るその姿は、見る人が見ればベレディーにそっくりに見えるだろう。


 ピッチ走法に近いリズムで頭を上げ下げするサクラヒヨリに対し、香織も必死に頭の上げ下げの補助をする。


「あと少し! 頑張って! ベレディーが来るよ!」


 まるでミナミベレディーの名前に急かされる様に、必死に末脚を使うサクラヒヨリ。


 外から一気に追い上げてきた馬達を抑え、首差でゴールラインを通過したのだった。


「やった! 勝ったよ! ヒヨリすごい! 3歳牡馬に勝っちゃったよ!」


 手綱を引かれ漸く並足になり、その後に停止したサクラヒヨリは、香織の言葉よりもしきりに周囲をキョロキョロと見回している。


「ん? ヒヨリどうしたの?」


 そのサクラヒヨリの様子に香織が不思議そうに尋ねると、まるでその声に答えるようにサクラヒヨリが嘶いた。


「キュヒヒーン」


 一瞬キョトンとした香織だったが、今までに何度かこの様な嘶きをサクラヒヨリがするのを聞いていた。その為にその意味を正確に理解したのだった。


「ごめんね、ベレディーは今は居ないんだよ。ベレディーを探していたんだね」


「キュヒヒーン」


 この嘶きは、調教で頑張ってミナミベレディーに褒めてもらいたい時によくする声だった。


「大丈夫、ベレディーにはすぐ会えるからね。すっごいいっぱい褒めてもらえるからね」


 そう言って今もキョロキョロとミナミベレディーを探すサクラヒヨリの首を、香織はトントンと叩いて落ち着かせるのだった。


◆◆◆


『各馬揃いまして、今スタートしました。好スタートを切ったのは4番サクラヒヨリ、その外7番キタノフブキも好スタート! このままキタノフブキが先頭に立ちます。3番手には2番スーパートゥナイト、その後ろに・・・・・・。




 先頭を行きます7番キタノフブキから最後方の11番ザイタクユウシャまで12馬身程、1000m通過タイムは61.0、ほぼ平均ペースか。

 向こう正面から3コーナーへ入って、ここで4番サクラヒヨリが一気に前へ出てきた! 先頭を行くキタノフブキを捉える勢い。後続はまだ動かない。


 しかし、大丈夫なのか、サクラヒヨリの姉はロングスパートの名手、鞍上はその姉のパートナー鈴村騎手、これは狙い通りか! 4コーナーから直線に入ったところで先頭入れ替わります。


 最後の直線、先頭は4番サクラヒヨリ! 一気にキタノフブキを交わして先頭に立ちました!


 各馬直線に入り鞭が入った! 先頭との距離が一気に縮まります! 残り400m、急坂が待ち構え、ここで2番スーパートゥナイト、キタノフブキを交わし2番手に上がった! 内側よりジワジワと前に出ます!


 10番コールスローも凄い勢いだ! 先頭との距離を一気に詰めて来た!


 これは勢いがある! 坂を上りきり残りは200m。


 先頭では依然サクラヒヨリが粘っている! コールスローは半馬身後ろ! それでも差はジワジワと縮まっている! サクラヒヨリ粘る! サクラヒヨリ粘る! これはコールスロー届かないか! 


 なんと1着はサクラヒヨリだ! 牝馬がまさかの先頭でゴール! 勝ったのはサクラヒヨリ! 並み居る牡馬を蹴散らして、先頭でゴールを駆け抜けました! コールスロー僅かに及びませんでした!


 これは驚いた! 紅一点サクラヒヨリが、皐月賞へのステップレース共同通信杯を制しました! 恐るべし鈴村騎手! 穴馬に乗せたら怖いぞ! ミナミベレディーの全妹サクラヒヨリで共同通信杯を制しました!』


「うそ! 勝った~~~!!!」


 北川牧場では、桜花が国立大学の二次試験に向けて最後の追い込みを行っていた。


 すでに東京の私立大学は合格しているが、本命は費用的にも安い北海道にある国立大学農学部。その為に今も必死に過去問題を復習しているところだ。共通テストの点数はボーダーラインギリギリでありながら、滑り止めも受かっている事で気持ち的にはいくらかの余裕はあった。


 そんな中、牧場のみんなで共同通信杯のレースをテレビで見ていた。


 流石に牡馬との混合戦、しかも牝馬が勝った記憶が無いとあっては誰もが掲示板に載れば上々と思っていた。そんな中でのまさかの勝利に、桜花の喜びが思いっきり爆発した。


「うわ~~~、うわ~~~、信じられない! 勝っちゃったよ! お母さん、ヒヨリが勝ったよ! え? え? もしかして皐月賞行っとく?」


 過去に共同通信杯を勝ち、その後に皐月賞を勝利した馬が居た。この為、共同通信杯も皐月賞への優先出走件は無いもののトライアルレースと見る関係者も多い。この為、思わず桜花の口からこんな言葉が出ても可笑しくは無い。


「馬鹿なこと言ってるんじゃないの。次は恐らく3月のフラワーCあたりじゃないかしら? 流石に今回の共同通信杯は有力牡馬不在だから出走を決めたって聞いているわ」


 母の言葉に思わず頬を膨らませる桜花だが、流石に皐月賞を勝てるとは思っていないのだろう。


 ちょっと拗ねた様な素振りで母親に尋ねる。


「でも、それなら桜花賞は? ほら、混合のGⅢを獲ったし、桜花賞に出走させても良くない?」


 なんと言っても全姉であるミナミベレディーが昨年の桜花賞馬だ、桜花としては思い切って出走させるのも有りだと思う。


「さあ? そこは桜川さんの考え次第でしょうね。でも、桜花賞ではなくオークスに狙いを絞ると思うわよ?」


 恵美子が聞いている限りにおいて、サクラヒヨリはメンタル的にトッコより神経質だと聞いている。その為、移動はあまり行いたくないという話を桜川からも聞いていた。その事から言っても桜花賞は無いと思っている。


「まあそうだな、皐月賞か桜花賞をもしヒヨリが獲ったらそれこそ凄いことだな」


「貴方も馬鹿なことを言わないで。ほら、ヒヨリも結果を出したんだから桜花も最後の追い上げよ。頑張りなさい」


「は~~い」


 無責任に笑う夫を軽くにらみつけ、恵美子は桜花を勉強に追い立てるのだった。

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