第52話 共同通信杯とサクラヒヨリ 前編
2月に入り、香織は近年に無いほどの順調な滑り出しを見せていた。
1月にすでに1着4回、2着2回、3着2回と前年を遙かに越える結果を出しており、特に1月の第3週においては久々の1日で2勝をあげていた。
騎乗数としては1月で22鞍とそれほど多くない中でのこの数字は、昨年のGⅠ2勝を含め人気薄の馬でも勝てるかもしれない騎手として調教師達に認識されはじめた結果だった。
もっとも、勝ち鞍の4勝のうち3勝は3歳未勝利戦、残り1勝は1勝馬戦と香織としては出来ればその後の騎乗もお願いしたい所ではあるが、引き続き依頼されたのは未勝利を勝った1頭のみであったが。
「鈴村騎手、サクラヒヨリは良い感じじゃないか」
共同通信杯を今週に控え、追い切りを行ったサクラヒヨリは800mを馬なりで54.8とまずまずのタイム、脚の運びも改善されてきており武藤調教師は手応えを感じていた。
「はい、以前のレースでは差し脚が弱く頼りない印象を受けたんですが、それも改善されてきていますね」
秋に比べ馬体も一回り大きくなっており、トモの張りも以前とは比べ物にならない。
ミナミベレディーのあの異常なとも言える坂路好きに付き合わされ、サクラヒヨリは頻繁に軽いコズミの症状を起こしていた。その為に、武藤厩舎のみならず鈴村騎手も当初は不安を感じていたのだが、そのコズミも最近ではなくなって来てた為に皆がホッとしていた。
「今回の出走は11頭、内牝馬は1頭だからな。ヒヨリも美人さんだし、他の牡馬は見惚れてレースに成らないんじゃないかな」
「はぁ」
武藤調教師のくだらない冗談に返答に困りながらも、香織は今週末の天気が晴れである事に一先ず安堵していた。
さすがに乗り変わりすぐのレースで、雨は勘弁してほしいものね。
そんな事を思いながら、サクラヒヨリを装鞍所へと連れて行く。すると、そこに馬見調教師が待ち構えていたのに驚いた。
「馬見調教師、ベレディーに何かありましたか?」
サクラヒヨリに騎乗した香織がやって来るのに軽く手を上げ迎える馬見調教師は、下馬して手綱を武藤厩舎の厩務員へと渡した香織に足早に近づいて来る。
「ああ、先日の件でね。大南辺さんとも話したんだが、ベレディーの次走は思い切って金鯱賞へと変更することにしたよ。そして、その後は春の天皇賞へ出走する事になった。大阪杯へ行くかも悩んだんだがね、どうせならファイアスピリットの連覇を阻みにいこうかってね」
「本気ですか?!」
馬見調教師の思ってもみない発言に、香織は思わず言葉を返していた。
「ベレディーに3200mがどう出るかは判らないけど、馬体を見ればもともと長距離に適した馬だ。頭の良い子だし、何とか行ける事に賭けようかとね。それこそ、鈴村騎手が全国にバラしてくれた我が馬見厩舎秘策のビデオ学習で戦法も研究できるだろう」
馬見調教師の言葉に、香織の顔は一気に真っ赤に染まる。
今年はじめに放送された番組で、香織は思いっきり舞いあがってしまい、ついつい馬見厩舎でミナミベレディーも交えて過去のレース映像でレース展開を研究した事を話してしまっていた。
しかも、その効果を冗談交じりにからかわれ、思わずミナミベレディーが如何に頭が良いかを延々と説明した所まで放送されてしまったのだ。
「あの、中山牝馬ステークスは?」
咄嗟に話題を変えようとした香織だったが、そこに更に馬見調教師は苦笑交じりに回答をくれる。
「先週、試しに60kgの斤量で騎乗したら、ベレディーが嫌がったんだよね? なら無理だと我々も判断したんだ。最軽量馬が54kgだし、さすがに6kgの差では厳しい」
そう、先週に予想最大斤量である60kgでミナミベレディーへと香織は騎乗し走ってみた。すると、騎乗した瞬間にミナミベレディーの様子が変わったのだ。
香織を乗せて数歩並足で走った後、騎乗した香織を見ようとするかのような挙動をした。
「ベレディー? どうしたの? あ、やっぱり重い?」
「ブヒヒーン」(鈴村さん太った? 重いよ?)
まるで香織を叱るかのような感じの嘶きと視線を向けられて、香織は慌てて下馬する。そして、自分が太った訳ではない言い訳をミナミベレディーにする羽目になった。
「まあ、あのベレディーの視線は厳しいものがありましたけど、本当のところは天気ですか?」
中山牝馬ステークス当日の天気予報は雨、その前後も同様なために日にちがあるとはいえ恐らく雨になる確率は高いだろう。そして、雨の中での最大斤量では勝てるものも勝てない。
「ええ、さすがにね。同一斤量でも厳しいのに雨では勝負にならないだろう」
馬見調教師の言葉に、香織も理解を示す。恐らく大阪杯に出走しても厳しいレースになるだろうし、そうなると間隔が1ヶ月ではその後の天皇賞に出走は出来ないと見たのだと思う。
「わかりました。中山記念回避はタンポポチャですか?」
「タンポポチャと走ると今までも限界以上に走る所があるからね。まあお陰でGⅠを勝てたとも言えるんだが。あと、流石に今から登録はね」
そう言って苦笑いをする馬見調教師だが、確かに来週に迫っている中山記念に今から登録するのも外聞が悪いかもしれない。もっとも、枠はまだ2枠空いていたはずだが。
実際のところ、タンポポチャがいなければミナミべレディーはGⅠを獲れていなかったと言う競馬評論家は居る。微妙だと評価する人は意外にも多い。
あの2頭は馬として正にライバル的な関係を築いているようで、それ故にミナミベレディーは本来以上の能力を発揮しているという人達が結構多いのだ。
特にミナミベレディーとタンポポチャのテレビ放送があって以降はそういった意見が良く言われるようになった。
「競馬協会としてはタンポポチャと同一レースを走らせて欲しいみたいなんだが、さすがにもう1600mではタンポポチャに勝てないだろうからね」
タンポポチャに合わせるというより、古馬牝馬のレースは意外に少なく、そちらへ進もうとするとどうしてもタンポポチャの土俵で戦わなくてはならない。それ故にミナミベレディーを古馬中長距離路線に進めてみようという事なんだろう。
「わかりました。私がどうこう言うことではありませんし、ベレディーにとっても悪くない選択だと思います。金鯱賞であれば斤量も55kgですよね? 他馬との差も1kg内ですし勝負になると思います」
「キュヒヒーン」
香織が馬見調教師と話をしていると、馬体を洗ってもらっているサクラヒヨリがまるで何してるの! と不満そうに嘶き、香織に早く来なさいと言うように見ているのに気がつく。
「ははは、懐かれたね。お姫様がこれ以上ご機嫌斜めになる前に私は退散しよう」
そう言って馬見調教師は笑いながら自身の厩舎へと戻っていく。
「ヒヨリ、ごめんね。別に放っていた訳じゃないから。ほら、機嫌を直してね」
香織はご機嫌斜めなヒヨリを宥めながらブラッシングをしてやるのだった。
◆◆◆
そして、共同通信杯当日、天気予報は晴れ、芝の状態は良、青空が広がる絶好の快晴だった。
『第※※回 共同通信杯がまもなく開催されようとしています。近年はここから皐月賞へと進む馬も出てきており、3歳牡馬のステップアップレースとも位置づけされている本レースですが、なんと牝馬のサクラヒヨリが満を持して参戦してきております。
このサクラヒヨリですが、今のところ5戦2勝、ただ何と言ってもGⅠを2勝しているミナミベレディーの全妹と陣営的には期待の1頭、騎手は乗り代わりで今回からはこれまたミナミベレディーの騎乗、女性初のGⅠジョッキーとして話題の鈴村騎手が手綱を取ります。人気は11頭中10番人気と下位人気ながら・・・・・・』
テレビでの実況が始まり、各馬の紹介が行われ始めている。
桜川はそのテレビをじっと見ながら、出走するメンバーにちょっと無謀だったかな? という思いを持ち始めていた。
「桜川さん、ここを勝ったらまさか皐月賞に出走ですか?」
先ほど、馬主仲間から思わずそんな言葉が出るほどに、このレースは牝馬出走の実績がなかった。ただ、掲示板であれば何とか載せる事が出来ると武藤調教師も太鼓判を押してくれている。鈴村騎手においては、頑張って勝ちますとまで言ってくれた。
もっとも、サクラヒヨリに危うく私物のノートパソコンを壊されそうになったと聞いて思いっきり不安になったものだが。
「さて、予想以上に仕上がりは良いと聞いているからね」
勝とうが負けようがあと30分後にはその結果は出ているのだ。いまさら慌てても仕方がない。
「鈴村騎手の騎乗に期待しようか」
昨年から大きく変わったというサクラヒヨリがどんなレースを見せてくれるのか。久しぶりにわくわくする気持ちを抑えられない桜川だった。
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